第14話「深層を進む——三つの恐怖、三つの答え」
深層に入って三日目だった。
毎日、少しずつ奥へ進んでいた。一日目は二百メートル。二日目は三百五十メートル。三日目の今日は、もっと先まで行けるはずだ。補給の計算は毎朝やり直している。魔力密度が高い分、体力の消耗が早い。今日の分は昨日より多めに持ってきた。
六人で廃坑の入口を通った。
隠し通路を経由して深層の入口まで来たとき、フィンが「今日は少し匂いが変わっている」と言った。
「どう変わりましたか」
「昨日より濃い。何かが近づいている、というより——何かがこちらを知っている、という感じだ」
「こちらを知っている、というのは」
「俺の感覚だ。証明はできない」
「分かりました。今日は特に慎重に進みます」
六人で深層に入った。
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百メートルほど進んだところで、魔物の群れが出た。
昨日より多い。十体以上だ。動きが速く、連携している。前衛が引きつけながら、後衛が回り込もうとしている。
「クロエさん」と俺は言った。「全体魔法をお願いします」
「はい」
クロエが眼鏡を外した。右手に持った。左手を上げた。
詠唱が始まった。
俺はクロエの後ろに立った。今日の補給袋を確認した。水の位置、薬液の位置、包帯の位置。全部正しい場所にある。
五秒。七秒。
魔物の一体が、クロエに向けて跳んだ。ミアが盾で受けた。
「守ります」とミアが言った。
十秒。
もう一体が回り込もうとした。リナが先回りして斬った。
フィンが「後ろに二体来る」と告げた。ガードが振り返って引きつけた。
十二秒。
「——」
声が、止まった。
全員が動きを止めた。一瞬だけ、戦場が静かになった。
クロエが詠唱を止めていた。
「クロエさん」
「……すみません」
クロエの声が震えていた。
「何が起きましたか」
「聞こえたんです。頭の中で——『遅い』という声が」
一ヶ月前に詠唱が止まるようになったきっかけ。パーティのリーダーに言われた言葉だ。
ガードが前衛で魔物を引きつけていた。リナが別の一体を処理していた。ミアが後衛を固めていた。フィンが状況を把握していた。
俺はクロエの隣に立った。
「聞こえましたか」
「……はい」
「それは今、起きていますか」
「え?」
「今この場所で、『遅い』と言っている人間はいますか」
クロエが周囲を見た。ガードが前を向いて戦っている。リナが剣を振っている。ミアが盾を構えている。フィンが指示を出している。
「……いません」
「そうです。今ここにいる人間は、誰もそう言っていません」
「でも、声が——」
「それは過去の声です。今の声ではない」
クロエが俺を見た。
「……過去と今は、違いますか」
「違います。今この瞬間、クロエさんが詠唱している十二秒間、誰もクロエさんを急かしません。それは今日ここで確認できています」
クロエが深く息を吸った。
眼鏡を外した。
手を上げた。
詠唱が再び始まった。
声が、今度は揺れなかった。
一秒。四秒。七秒。十二秒。
「——零点結氷」
深層の廊下が白くなった。
十三体が凍りついた。
完全凍結だった。
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戦闘後、クロエがその場に座り込んだ。
疲れているわけではない。膝が少し震えていた。
「大丈夫ですか」とミアが聞いた。
「……大丈夫です。ただ、少し」
「少し?」
「怖かったです。また止まるかと思いました」
「止まりかけたんですか」
「止まりました。一度。でも、セルさんが今と過去は違うと言ったので——それを聞いたら、声が消えました」
「声が消えた?」とリナが聞いた。
「今ここには、私を急かす人間がいない。それを確認したら、頭の中の声が、今の声じゃないと分かりました。そうしたら、消えた」
「消えたんですか」
「今は消えています」
「また聞こえたら、どうするんですか」
クロエが少し考えた。
「……今と過去は違う、と確認します。それだけでよかったので」
リナが「それだけで」と言った。
「それだけで十分でした」
リナがクロエを見た。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。それがリナなりの「よかった」の言い方だと、俺には分かった。
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さらに百メートル進んだところで、新しい場所に出た。
廊下が広くなって、空間が開けた。天井が高い。石の壁に古い文字が刻まれていた。文字の意味は分からないが、何かの記録のように見えた。
中央に、大きな石の台があった。台の上に、何も置いていない。ただ、台の表面に魔法陣が刻まれていた。
「何ですか、これは」とミアが言った。
「分かりません」とフィンが言った。「ただ、ここが戦場の痕跡がある。焦げた跡、血の跡、壊れた装備の破片」
俺は台の周囲を確認した。破片の中に、冒険者の装備がある。第四のパーティのものかどうかは分からない。ただ、最近のものだ。
「第四のパーティがここまで来た可能性がある」
「この先に進んだということですか」とクロエが言った。
「そうかもしれません」
「……でも、ここに残っている人間はいない」
「そうですね」
「先に進んだか、引き返したか、それとも——」
クロエが言葉を止めた。
「今日はここまでにします。この空間の情報を持ち帰って整理します」
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帰り道、ミアが俺の隣を歩いた。
「セルさん」
「はい」
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「わたし、昔、守れなかった人がいます」
俺は黙って聞いた。
「前のパーティにいたとき、一番仲が良かった人がいました。盾役が二人いて、俺と彼女で一緒に練習していました。ある依頼で、彼女が危なくなったとき、わたしが間に入ろうとしたんですが——間に合わなかった。重傷を負いました。彼女は今も冒険者をやめています」
「そうですか」
「わたしが遅かったんです。それから、前に出ることが怖くなった。前に出ようとするたびに、あのときのことを思い出して、止まってしまう」
俺は少し考えた。
「今日、後衛を守りましたか」
「はい」
「止まりましたか」
「……止まらなかったです」
「なぜだと思いますか」
ミアが少し間を置いた。
「分かりません。ただ、止まる前に、守るべき人が見えたんです。クロエさんが詠唱しているのが見えて、その前に立たなければと思ったら、体が先に動いていました」
「それが、答えじゃないですか」
「答え?」
「守りたいものが見えたとき、体が動く。前のときは、間に合わなかった。今日は間に合った。それは、ミアさんが変わったからかもしれません」
「変わった……ですか」
「確認する方法は、続けることしかないと思います。今日間に合ったなら、明日も間に合おうとすることができます」
ミアが歩きながら、盾を見た。
「……守りたい人が、今はたくさんいます」
「そうですね」
「セルさんも含まれています」
「ありがとうございます」
「荷物持ちも、守ります」
「助かります」
ミアが「本当に助かると思っていますか」と言った。
「本当に思っています。俺が倒れたら補給が止まるので」
ミアが「そういう言い方をする人なんですね」と言って、少し笑った。泣いているのか笑っているのか分からない顔だったが、前を向いていた。
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上層を抜けて、出口に近づく道を歩いた。
六人の足音が廊下に響いていた。今日は誰も余計なことを言わなかった。ただ歩いていた。
俺は後ろを歩きながら、全員の荷物の状態を確認した。クロエの荷物が少しずれていた。直した。ミアの紐が少し緩んでいた。締め直した。リナは問題なかった。ガードも問題なかった。フィンは自分で直していた。いつの間にか、荷物の確認を自分でするようになっていた。
「フィンさん、自分で直せるようになりましたね」
「……観察していれば分かる」
「そうですか。いつから」
「一週間前くらいから」
「教えた覚えがないですが」
「見ていれば分かる」
フィンが前を向いたまま言った。それ以上は言わなかったが、俺には十分だった。
廃坑の出口が近づいてきたとき、フィンが足を止めた。
「少し待ってくれ」
全員が止まった。
「何ですか」
「あの空間に残っていた装備の破片——一つだけ、俺が知っているものがあった」
俺はフィンを見た。
「元パーティのリーダーのものですか」
「……そうだ」
「今日気づいたんですか」
「気づいていた。ただ、言えなかった」
フィンが壁に手をついた。
「あの人間が、あの空間まで来て、今どこにいるか分からない。先に進んで戻ってきていないか、それとも——俺には判断できない」
「怖いですか」と俺は言った。
フィンが少し止まった。
「……怖い、というのとは違う。俺を売った人間だ。恨みたいのかどうかも分からない。ただ、確認したい。あの人間が今どこにいるか、どういう状態なのか。確認しないまま終わりたくない」
「分かりました」
「セルさんは、なぜそれだけで分かるんだ」
「分かります、とだけ言っています。理解しているかどうかは、俺には分かりません」
フィンが俺を見た。
「……正直だな」
「嘘をつく方が後で計算が狂うので」
フィンが壁から手を離した。
「次に行くとき——封印の扉が出るかもしれない」
「前の情報と今日の場所から考えると、次の区域に入る前に何かある可能性がある、ということですか」
「そうだ。あの空間の先に、通路がある。その先に、何かある。エリックさんの話では、問いかけてくるような感覚があったと言っていた。あの空間がその手前だとしたら——扉があるとしたら、その先だ」
「次回、確認しに行きます」
「俺が確認に行くことを、誰かが止めようとしたら?」
俺は少し考えた。
「断る理由がなければ行きます、と全員で決めています。誰かが止める、という状況は今のところ想定していません」
フィンが「そうか」と言った。
「フィンさん」
「なんだ」
「今日、よく来てくれました」
「……普通のことを言うな」
「そうですか」
「俺は普通のことを言われることに慣れていない」
「そうですか。では、よかったです」
「何がよかったんだ」
「フィンさんが来てくれたことが、よかったです」
フィンが少し沈黙した。
「……どういたしまして」
初めて言った言葉だった。フィンが「どういたしまして」を言うのは、俺が知る限り今日が初めてだった。
六人で廃坑を出た。
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出口の前で、全員が立っていた。
夕方の光が差し込んでいた。
「明日、どうしますか」とリナが言った。
「フィンさんの話から、封印の扉があるとしたら次の区域の入口だと思います。今日の空間の先に通路がある。そこを確認します」
「封印の扉——エリックさんが引き返した場所より先ですか」
「おそらく」
「……誰も帰ってこなかった場所ですね」
「帰ってきていない、ということは——」と俺は言いかけた。
「確認しに行く、ということですね」とリナが続けた。
「そうです」
「私は行きます」
「私も」とクロエが言った。
ミアが「行けます」と言った。「行けます」ではなく、「行きます」と言いかけて、「行けます」で止まった。でも、声は揺れていなかった。
フィンが「当然だ」と言った。
ガードが「俺が先頭で行く」と言った。
六人が頷いた。
「では、明日、封印の扉を確認しに行きます」
全員が散った。ガードは一人で装備の確認をしに行った。クロエとフィンが今日の空間の情報を整理しに行った。リナとミアが一緒に夕食を取りに行った。
俺は出口の前に一人で立っていた。
夕方の光が廃坑の入口を照らしていた。三日前、ここから入った。三日間で、深層の中盤まで来た。
三日間で、クロエは詠唱が止まる恐怖と向き合った。ミアは守れなかった記憶と向き合った。フィンは元パーティのリーダーへの複雑な感情と向き合った。リナは昨日、全力を出すことへの恐怖と向き合った。ガードは守れないことへの恐怖を言葉にした。
全員が、自分の中の何かと向き合った。
俺は何に向き合ったか、と少し考えた。
答えがすぐ出なかった。荷物の管理をしているだけだ。補給の計算をしているだけだ。それ以外に何もしていない。
ただ——六人が深層に来るたびに、少しずつ前に進んでいる。それを後ろで見ている。それが、今の俺の仕事だ。
それだけが、俺の答えだった。
俺は手帳を開いた。
今日の記録を書いた。
「クロエ——今と過去は違うと確認して、詠唱を再開した」
「ミア——守りたい人が見えたとき、体が動いた」
「フィン——どういたしまして、と言った」
「ガード——俺が先頭で行く、と言った」
四行書いた。それから一行加えた。
「六人全員、明日行くと言った」
手帳を閉じた。
それで十分だった。
入口を振り返った。
廃坑の中は暗い。深層はもっと暗い。封印の扉があるとすれば、その先はさらに暗い。
そこに何があるのか、今の俺には分からない。第四のパーティがどこにいるかも分からない。フィンの元パーティのリーダーが生きているかどうかも分からない。
ただ、明日も六人で入る。
俺は後ろで補給をする。
それだけ分かっていれば、今夜は十分だった。
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*(第十四話 了)*
*次話「封印の扉——セルが荷物を置いた瞬間に開いた」*




