4話 満月へ向かう決意
「むむむっ」
昼食前、厨房で翠那が力んでいた。
手の中には形になりかけて崩れそうなおにぎり。
「昼食作りなら俺たちがやるから」
天狗たちが、おにぎりを握ろうとしている翠那をなだめる。
「雅黎さまに食べてもらうんだもん」
そう言って翠那は真剣な顔でごはんを握りしめる。
うまく形にならないことよりも「自分でやること」にこだわっているようだった。
理由は自分でもわからない。
ただ、ちゃんとした形にしたい気持ちだけが妙に強い。
「雅黎さまのおにぎりは翠那が握るの!」
そこへ雅黎が現れる。
「何をやっている」
「雅黎さま! 翠那ね、おにぎり作るの」
「おにぎりってお前……手がごはんだらけで全然握れてないじゃないか」
「できるもん」
むっとした顔で言い返す翠那。
その表情は妙に必死で、子供っぽさの中に妙な熱が混じっていた。
「(……なんだ、このこだわりは)」
雅黎の胸の奥が理由のわからないざわつきを覚える。
「部下たちが困ってる。 昼食作りなら彼らに任せよう」
「やだ! 雅黎さまのおにぎりは翠那が握るの!」
「急にどうして……」
言いかけて雅黎は一瞬言葉を止める。
その必死さにただのわがままとは違うものを感じたからだ。
天狗の一人が小さく肩をすくめる。
「そこまで必死なの、珍しいですね」
からかうようでいて少しだけ本音の混じった声だった。
「好かれてますね、雅黎様」
「……くだらないことを言うな」
即座に否定する。
だが、なぜかその言葉だけが少しだけ遅れた。
翠那はそのやり取りには気づかず、ただおにぎりと格闘している。
うまくいかないことに小さく唇を尖らせながら、それでも手を止めない。
「(どうしてそんな顔をする)」
雅黎は翠那から視線を外せなかった。
やがて小さくて丸っこい一口サイズのおにぎりができた。
「ちっちゃくなっちゃった」
しゅんとして俯く翠那。
その様子に雅黎はわずかに息をつく。
そっと翠那の頭に手を置いた。
「どれ、いただこう」
差し出されたそれを一つ口に運ぶ。
塩が多すぎてしょっぱい。
「(……これはひどいな)」
内心でそう思いながらも表情には一切出さず、もう一つ、さらにもう一つと口へ運ぶ。
その様子を翠那は固唾をのんで見つめていた。
やがて少しずつその顔が明るくなっていく。
期待と不安が混ざったまっすぐな眼差し。
雅黎は一瞬だけ言葉を選び――
「美味かった」
そう告げる。
ぱっと翠那の目が輝いた。
「ほんとに?」
「ああ」
即答する自分にわずかな違和感を覚えながらも雅黎は視線を逸らさなかった。
無邪気に笑う翠那の顔から目が離せなくなる。
「あのう……」
部下の天狗が遠慮がちに声をかける。
「食堂に昼食を運びますが……お二人はどうされます?」
「俺はいい。 翠那、お前はまだ食べてないだろう。 食べてきなさい」
「お腹空いてない」と言ったそばから、ぐうぅ……と間の抜けた音が響いた。
「……っ」
顔を真っ赤にする翠那。
周囲の天狗たちがくすくすと笑いを漏らす。
雅黎は小さく息をつき、やれやれといった様子で天狗からおにぎりを受け取った。
「行くぞ」
そう言って歩き出す。
翠那は少しだけ気まずそうにしながら、その後を追った。
執務室。
翠那は無邪気な顔でおにぎりを頬張っている。
「おいしい……」
小さく呟くその声に雅黎は一瞬だけ視線を向け、すぐに外した。
「(……変わらないな)」
そう思いながらも頭に浮かぶのは昨日のことだった。
真剣な眼差しで告げられた言葉。
『人間に戻りたい』
「(あれから何も言ってこないが……)」
無邪気に笑う今の姿とあのときの顔が重ならない。
「(……どちらが本心だ)」
わからない。
だが、なぜか確かめるのが怖いと思った。
おにぎりを食べ終えお茶を飲む。
雅黎が手を伸ばし、翠那の口元をそっと拭った。
「ばぶ」
思わず漏れた声に翠那はハッとして首をぶんぶん振る。
「どうした」
「翠那、もうばぶーもウキーも言わないって決めたの」
雅黎はわずかに目を細める。
「お前らしくて俺は嫌いではないぞ」
「今のままじゃだめなの!」
強い声だった。
その一言に雅黎の表情がわずかに固まる。
「無理をする必要はない」
「無理じゃないもん」
即座に返る言葉。
迷いのない目。
それ以上何かを言おうとしたが――
「もう部屋で休め」
遮るように言って背を向ける。
一瞬、翠那が何か言いかけた気配がした。
だが、それは言葉にならなかった。
パタンと戸が閉まる。
静寂。
雅黎はゆっくりと振り返り床へ視線を落とした。
「(なぜだ)」
ただの選択のはずだ。
元の姿に戻りたいというだけの話。
それなのに――
「(離れていくように感じるのは)」
胸の奥がわずかに締めつけられた。
気分を変えようと外に出る雅黎。
井戸水を汲んでいた部下の天狗たちの話し声が耳に入る。
「どう思う?」
「どうって……ああ、雅黎様か」
思わず足が止まる。
「ありゃ間違いなく惚れている目だな」
「(……何を言ってる)」
心の中で即座に否定する。
「あんな小さい子に惚れるか?」
「ほら、満月の夜に人間に戻るって言ってたろ。 きっとかなりの美女なんだろう」
「なるほどな。 雅黎様があんな子供に惚れるわけないもんな」
――あんな子供に。
その言葉がやけに耳に残る。
「(違う)」
何が違うのか自分でもうまく言葉にできない。
雅黎は気づかれないようにその場を静かに離れた。
執務室へ戻り、はぁー……と小さく息を吐く。
気晴らしに外へ出たはずなのに余計に思考は絡まりほどけなくなっていた。
どこにいても翠那のことが頭から離れない。
――人間に戻りたい。
あのときの真剣な眼差しが脳裏に焼きついている。
「(なぜ、あんな顔をする)」
考えようとしたそのとき、戸が控えめに開いた。
そっと入ってきた翠那がぎこちない足取りで近づいてくる。
「雅黎さま、あの、本日は、えーっと、おつかれのごよーすなので」
「なんだその言葉遣いは」
思わず眉をひそめる。
「翠那、じゃなくて、私……子供じゃないもん」
「無理をするな」
「無理してないもん!」
強く言い返す声はどこか震えていた。
「何を焦っている」
問いかけた瞬間、翠那の瞳が揺れる。
そして――
「子供のままじゃ雅黎さまの隣にいられないでしょ!」
その言葉はまっすぐだった。
逃げ場も言い訳もないほどに。
雅黎は言葉を失う。
「(……隣にいたいのか)」
胸の奥が強く脈打つ。
理解したくないはずの感情が形を持ち始める。
「(それは……誰のためだ)」
問いは自分に向けたものだった。
だが、その答えを知ることをなぜか恐れている自分がいた。
真剣な目で見つめる翠那を見て、雅黎は静かに言った。
「お前は人間に戻りたいと言ったが、戻れば狸だった記憶を失うことになる。……今話したこともな」
「え……」翠那は固まった。
「……ぜんぶ?」
「すべてだ」
言葉は淡々としているのにどこか冷たく響いた。
翠那の手がぎゅっと握られる。
「じゃあ……雅黎さまのことも……忘れるの?」
かすれた声だった。
「そうなる」
一瞬の沈黙。
翠那の瞳が揺れる。
迷い、戸惑い、恐れ。
そして、それでも消えない想い。
「……やだ」
ぽつりと落ちた言葉は小さくて、それでも確かだった。
「忘れたくない」
顔を上げる。
その目にはもう迷いはなかった。
「翠那、ぜんぶ覚えていたい」
雅黎の視線がわずかに揺れる。
「でも……」
翠那は唇を噛む。
「このままじゃ……嫌なの」
一歩近づく。
「子供のままじゃ雅黎さまの隣に立てない」
震えながらも逃げない。
「忘れるのは……怖い」
「……だろうな」
低く返す声。
だがその奥に押し殺した感情が滲む。
「それでも……」
翠那はまっすぐ見上げた。
「それでも戻りたい」
静かな決意だった。
雅黎は何も言えなかった。
「(……そうか)」
胸の奥が痛む。
それが何なのかもうわかっているのに。
認めることだけができなかった。
「雅黎さま」
「ん?」
「人間に戻って記憶がなくなっちゃっても」
少しだけ息を吸って――
「翠那はきっと雅黎さまのこと……もっともっと好きになると思うの」
静かな声だった。
でも、その一言はまっすぐで揺るぎがなかった。
雅黎の目がわずかに見開かれる。
「……なぜそう言える」
「わかるの」
即答だった。
「だって、今だってそうだもん」
翠那は少しだけ照れたように笑う。
「最初はなんにもわからなかったのに、気づいたら好きになってた。 だから、たとえ忘れちゃっても」
まっすぐ見上げる。
「また好きになる」
迷いのない言葉だった。
逃げ場のない確信。
「……勝手なことを言う」
雅黎は目を逸らす。
だがその声はわずかに揺れていた。
「うん。 勝手だよ」
翠那はあっさり頷く。
「でもね、それくらい雅黎さまのこと好きだから」
沈黙が落ちた。
何も言えない。
言葉を返せば何かが決定的に変わってしまう気がした。
「(……やめろ)」
心のどこかでそう思う。
「(それ以上、踏み込むな)」
けれど、止めたいのか止めたくないのか。
もう自分でもわからなかった。
翠那はもう迷っていなかった。
自分で選び、自分で進むと決めた。
たとえすべてを失うことになっても。
それでもいいと。
だが……雅黎はまだ答えを出せずにいた。
引き留めるべきか。
送り出すべきか。
そのどちらも選べず、ただ立ち尽くしている。
それでも次の満月は待ってはくれない。
静かに、確実に二人の運命を分かつ夜が近づいていた。




