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ばぶーでウキーッな子狸と天狗様  作者: 禾乃衣


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3/3

3話 朝空に放つ願い

 ――二カ月前


 その日はひどいどしゃ降りだった。

 木陰で何かに怯えるように泥まみれで震えているその子はいた。 呼吸が浅い。


「子狸の妖怪ですね。 随分弱ってる……」

 部下の天狗の一人が言った。

 雅黎は子狸妖怪の背にそっと手を置いた。

 子狸妖怪はビクッと一層怯えて雅黎を見た。

「大丈夫だ……うちに来るか?」

 優しくそう言うと子狸妖怪は小さく「きゅう」と鳴いた。

 子狸妖怪を抱き抱える雅黎。


「先代と違いなんとお優しい」

「ああ、先代とは大違いだ」


 後ろから部下の天狗たちの話し声が聞こえてくる。

「先代とは違う」そう言われることが嫌いだが、こうして子狸妖怪を助けて冷酷無慈悲な先代とは違うと思いたかったのかもしれない。

 そう思いながら雅黎は子狸妖怪を抱き抱えて歩を進めた。


 執務室。

 二カ月前に翠那と出会った時のことを思い出しぼーっとする雅黎。

 次の満月は明日に迫っていた。

 その時、執務室の戸が静かに開いた。

「雅黎さま」

「翠那か。 どうした」

 いつもならドタバタと無遠慮に勢いよく開けるのに今日はやけに静かだ。

「明日は満月だよね……浄化、するよね……」

「ああ、そうだが」

「あの浄化、翠那やりたくない」

「……どうして」

「あれやると、なんだか、翠那が翠那じゃなくなるみたいで怖いの」

 ああ……この子なりに違和感を感じていたんだなと思う雅黎。

 でもお前は狸の妖怪ではなく本当は人間なんだ。

 その言葉は喉の奥で止まった

「浄化は続けたほうがいい。 それがお前のためだ」

言いながら、どこかで自分に言い聞かせているようだった。

 無事に人間に戻ったらこの子を里へ帰そう。 それがこの子のためだ。

 雅黎は心に決めた。

「……うん」

 翠那は俯いたまま小さく返事をして執務室をとぼとぼと出て行った。


 次の日の満月。

 翠那にとって三度目の浄化。

 月の光を浴び、白い布に包まれた翠那の姿が陽炎のようにゆらゆらと透け始めたのだ。

「……がれい、さま」

 力なく呼ぶ声は鈴の音のように澄んでいるが、そこにはもはや「ばぶー」や「ウキッ」と笑ったり悲しんだりしていたあの無邪気な子狸の面影はない。

 儀式を終え、雅黎は駆け寄る。

「翠那! しっかりしろ」

 翠那の瞳はどこか遠くを見ていた。

 光がない。 まるで精巧に作られた人形のような無機質な美しさだけがそこにあった。

 ――違う。 こんなはずではなかった。

 翠那の目から静かに涙がこぼれ落ちる。

「雅黎さま……私、思い出したの」

 その一言で空気が変わった。

「人間だった頃、父親に色街に売られそうになったの」

 雅黎の思考が止まる。

「隙を見て森へ逃げて、その時天狗様に出会ったの」

 翠那は遠い記憶をなぞるように続ける。

「その天狗様は私に妖術をかけて、森の奥へ行けって言った」

「私はお前を助けられないが私の息子ならきっと力になってくれるって」

 ――息子。

 その言葉が重く落ちる。

「それまで生き延びろって……そう言って山の方へ飛んでいったの」

 雅黎は何も言えなかった。

 その天狗が誰なのか考えるまでもない。

 先代の里長。 自分の父だ。

 翠那が言う「妖術」。

 それはおそらく記憶と認識を書き換えるものだ。

 人間である自分を忘れ、狸の妖怪だと思い込むようにする。

 そしてそれがやがて形を持ち、子狸となった。

「(妖術が解けかけている……だから満月の夜に人間へ戻ろうとしているのか)」

 だが、その過程で心まで削れている。


 雅黎の中で何かが静かに崩れた。

 先代とは違う。

 そう思っていた。

 そう、思いたかっただけだ。

 ふと、脳裏にあの日の光景がよぎる。

 雨の中、震えていた子狸。

 怯えきった目で自分を見上げていた。


 そして今。

 目の前にいる翠那も同じ目をしていた。

 助けたはずなのに。


 胸の奥が焼けるように熱くなる。

 同時に自分自身への嫌悪が込み上げた。

 雅黎はゆっくりと息を吐いた。

「……もういい」

 誰に言うでもなくそう呟く。

「もう浄化は行わない」

 その言葉は静かだが確かな決断だった。

 雅黎は翠那を抱き上げる。

 その体は軽くあまりにも頼りなかった。

「……がれい、さま」

 かすかに声が震えた。

 そのわずかな反応に雅黎は息を呑む。

 まだ消えていない。

 ならば取り戻す。

 雅黎は翠那を抱き抱えたまま静かに歩き出した。


 次の日の朝。

 なかなか起きてこない翠那を起こしにいく。

「ばぶ」

 布団からひょっこり顔を出して甘えた声をする翠那。

 いつも通りだ。

「雅黎さま、もう浄化しなくていいって本当?」

「ああ。 お前はそのままでいいんだ」

「うん」

 雅黎が翠那の頭にそっと手を置くと、翠那が恥ずかしそうに頬を染めた。 初めて見る反応だった。

「朝食だ。 身支度を整えろ」

「はい」


 雅黎が部屋から出ていく。

 翠那はゆっくりと体を起こした。 胸の奥がじんわりと熱い。

「あれ?」

 さっき頭を撫でられたところにまだぬくもりが残っている気がする。

 なんだか変だ。 でも嫌じゃない。

「翠那……どうしちゃったの……?」


 食堂。

 雅黎が、翠那の口のまわりにごはんつぶがついてることに気づき拭こうとすると――

「キャッ!」びっくりして身を引く翠那。

「口のまわりを拭こうとしただけだ。 いつもやってるだろ」

 翠那は一瞬きょとんとしたあと、ぶんぶんと首を振った。

「翠那、自分で拭けるもん」

 不器用な手つきでごはん粒を拭う。


「雅黎様、あまり手をかけると成長しませんよ」

「そうそう、ひとり立ちさせないと」

 部下の天狗たちが横から口を挟む。

 いつもならきつく睨むところだが、天狗たちの言葉は耳に入らない。

 ただ、翠那の不器用な手元から目が離せなかった。


 昼間。

「翠那、散歩に出かけよう」

「散歩?」

 雅黎と外へ出る。

「お前、いつもこれを楽しみにしているだろ」

 そう言って翠那を抱き上げる。

「ウキッ!」

 思わず声を上げてじたばたともがく。

「いつものように空を飛ぶだけだ。 なにをそんなに怖がる」

 怖いわけじゃない。

 ただ、急に抱き上げられて……距離が近くて……。

 胸の奥がまた熱くなっていく。

「今日はやめておくか?」

 その言葉に翠那は慌てて首を横に振った。

 やがて二人は空へ舞い上がる。

「夕方もいいが、昼の景色もなかなかのものだろう」

 雅黎の声がすぐ近くで響く。

 近い。

 意識すればするほど心臓の音がうるさくなる。

 トクントクンと強く打つたびに体の内側が熱を帯びていく。

 このままその熱が伝わってしまうのではないかと息を潜めた。

 やがて地上に降り立つ。

 腕の中から離された瞬間、ふっと空気が遠のいた気がした。

 さっきまであんなに近かったのに。

 雅黎が歩き出す。

 その背を見て翠那は思わず手を伸ばすが一度、指先が宙で止まる。

 けれど次の瞬間そっと服の裾をつかんでいた。

「どうした、翠那」

 振り返る雅黎に翠那は少しだけ視線を揺らす。

「雅黎さま……ずっと翠那のそばにいて」

 一瞬、雅黎の目がわずかに見開かれた。

 だがすぐに表情を緩め、翠那の頭に手を置く。

「ずっとそばにいる。 心配するな」

 その言葉に翠那の顔がぱっと明るくなる。

 安心したように笑い、そっと雅黎の手を握った。

 二人は並んで歩き出す。

 なぜか、その手を離したくないと思いながら。


 執務室。

 窓の外では小天狗たちと翠那が無邪気に遊んでいる。

 笑い声がやけに耳に残る。

 雅黎は腕を組んだまま、じっとその様子を見つめていた。

 先程の言葉がふと頭をよぎる。

 ――ずっとそばにいて。

 あの時の表情が妙に離れない。

 ただの甘え、そう片付けるにはどこか違和感があった。

 目が合うたびに胸の奥がわずかにざわつく。

 ――なんだ、この感覚は。

 雅黎は小さく息を吐いた。

 視線を逸らそうとするのに、どうしても翠那の姿を追ってしまう。

 先代とは違う。

 そう思ってきた。

 だが今、目の前の光景にわずかな迷いが生まれていた。


 夕食の少し前。

 翠那は自分の部屋にいた。

 庭で小天狗たちと遊んでいた時のことをぼんやりと思い返していた。

 ――あのとき。

 執務室の窓から雅黎がこちらを見ていた。

 気づいた瞬間、手を振ろうとしてやめた。

 子供っぽいと思われたくなかった。

 そう思った自分に少しだけ戸惑う。

 ――どうした、翠那。

 ――ずっとそばにいる。 心配するな。

 雅黎の声が、何度も何度も頭の中で繰り返される。

 思い出すだけで胸の奥がキュッとする。

「翠那も……雅黎さまのそばにずっといたいよ……」

 ぽつりとこぼれた言葉は思っていたよりも重い。

 自分で口にしておきながら少しだけ驚く。

「でも……このままじゃ、だめだよね……」

 小さな手で膝を抱え、体をぎゅっと縮める。

 どうしてこんな気持ちになるのか。

 どうしてこんなにも落ち着かないのか。

 わからない。

 けれど、ただそばにいるだけでは足りない気がしていた。

 その理由を翠那はまだ知らない。


 夕食の時間になり、翠那は雅黎とともに食堂へ向かった。

 並んで廊下を歩きながら、ちらりと横目で雅黎を見上げる。

 いつもと同じ距離。

 けれど、なぜか今日は――

「(遠いなぁ……)」

 心の中でぽつりと呟く。

 隣にいるのにどこか手が届かないような感覚に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 食堂に着き、席につく。

 翠那は箸を手に取った。

「翠那、急にどうした。 箸で食べるって……」

「お箸くらい持てるもん!」

 むきになった声が出る。

「そうじゃない、こうやって――」

 雅黎がそばに寄り、手を添えようとしたその瞬間。

 ふいに指先が触れる。

 ドキンッと胸が跳ねた。

 息が一瞬止まる。

 熱がじわりと広がっていく。

「翠那にかまわないで!」

 思わず声が出た。

 自分でも驚くくらい強い言い方だった。

 違う。

 本当はこんなことを言いたいんじゃない。

 でも、どう言えばいいのかわからない。

 顔を伏せたまま不器用に箸を握りしめる。

 震える手でなんとか食べようとするがうまくいかない。

 そんな翠那の横で雅黎が小さく息をついた。

 やれやれ、とでも言いたげな表情で。

 その様子がほんの少しだけ寂しくて……。

 でも、それをどう言葉にすればいいのか翠那にはわからなかった。


 夕食後、執務室。

 ――潤んだ瞳で見つめて近づいてきたかと思えば急に距離をとる。

 落ち着きがない。 思春期とはああいうものだったか。

 いや……まだ子供のはずだ。

 そう結論づけたはずなのに、視線を逸らされるたびに寂しくなる。

 理由はわからない。


 頭の中で考えを巡らせているうちにいつの間にか意識が落ちていた。

 夢の中で亡き父が立っていた。

「お前は私のようになるな。 優しく、しかし強く毅然としていなさい」

 その声音はどこか穏やかで、かつて見てきた厳しい姿とはわずかに違っていた。


 目が覚める。

 頭に一番に浮かんだのは翠那のことだった。

 浄化はもうしなくていいとは言ったもののこれまでの影響か、姿は子狸のままでもどこか子供らしくない表情を見せるようになっていた。

 ――あの時。

 服の裾をつかんで潤んだ瞳で「ずっとそばにいて」と言ったときの顔。

 あの表情が不意に蘇る。

 人間に戻ったときの翠那の顔と重なって雅黎の胸がざわついた。

 ……いや、違う。

 こんなふうに意識する理由なんてないはずだ。

 それでも一度浮かんでしまったものは簡単には消えてくれなかった。


 翠那の部屋。

 隅で膝を抱え、翠那はじっと床を見つめていた。

「雅黎さま、呆れてたなぁ……」

 夕食のときのことを思い出し、肩が小さく落ちる。

「嫌われちゃったかな……」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 雅黎に嫌われる。

 想像しただけで息が苦しくなる。

 ほんとはもっと近くにいたい。

 名前を呼んでほしい。

 触れてほしい。

 でも、そう思えば思うほどうまく言葉にできなくて。

 膝を抱えたまま翠那は顔をうずめた。

「苦しいよぉ……雅黎さま……」

 今にも消え入りそうな声は雅黎に届くこともなくそのまま朝を迎えた。


 翠那は珍しく早起きした。

 隣の雅黎の部屋の前で「雅黎さま、起きてる?」と声をかけるが返事はない。

 そっと戸を開けてみると、そこに雅黎の姿はなかった。

 執務室へ向かうと書簡に目を通している雅黎がいた。

「翠那、早いな」

「なんか、目が覚めちゃって」

 雅黎はふっと口元を緩める。

「朝食まで時間がある。 どうだ、朝の飛行でも行くか」

「行く!」

 思わず弾む声が出た。

 それを見て、雅黎はどこか優しく目を細めた。

 その表情に翠那の胸がきゅっとなる。

 外へ出ると翠那は軽々と抱き上げられる。

 昨日とは違い抵抗はなかった。

 むしろ、その腕の中は不思議と落ち着く。

 ふわりと身体が浮かび、あっという間に空へ。

 朝の空気は澄みきっていて胸の奥まで洗い流されるようだった。

「(……このままずっと一緒にいられたらいいのに)」

 雅黎の腕の中でそっと目を伏せる。

「(でも……このままじゃ、だめだ)」

 小さな手をぎゅっと握る。

「(抱きしめられるだけじゃ嫌だ)」

 顔を上げる。

「雅黎さま」

 真っ直ぐに見つめた。

「翠那、人間に戻りたい」


 翠那が初めて自分の意思で選んだ願いは澄みきった朝の空気の中に静かに落ちた。

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