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【完結】ばぶーでウキーッな子狸と天狗様  作者: 禾乃衣


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2/5

2話 忘却の満月と浄化の代償

 翠那が天狗の里で過ごし始めて一ヶ月が経とうとしていた。

 小天狗たちともすっかり仲良くなり、朝から元気に遊んでいる。

「翠那ちゃんみーつけた!」

「またみつかっちゃた」

「だって尻尾見えてるんだもん」

 葉陰に隠れたつもりの翠那のふさふさの尻尾がひょっこりと揺れていた。

 小天狗たちの笑い声に翠那は顔を赤くして耳まで伏せる。

「もー、ちゃんと隠れてたのに……」

 むくれたように言うが、その声もどこか楽しそうだった。


「お前たち、稽古の時間だぞ」

 低く通る声が響くと、小天狗たちはぴたりと動きを止めた。

「はーい!」

 元気よく返事をして、ぱたぱたと稽古場へと駆けていく。

 その背中を見送りながら翠那は小さく手を振った。

 振った手は途中で止まる。

 誰も振り返らないのを見てそっと下ろした。

 さっきまでの賑やかさが嘘みたいにあたりは静まり返る。


 しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて翠那は小さく息をついて歩き出す。

 向かう先は雅黎のいる執務室だった。

 戸の前で一度足を止め、そっと開ける。

「翠那か」

 書き物をしていた雅黎が顔を上げた。

「翠那、明日は満月だ。 この部屋から出るんじゃないぞ」

 その声はいつもと同じはずなのにどこか硬かった。

 部屋の空気がわずかに張りつめる。

「うん」

 素直に頷くものの、その声はどこか沈んでいる。

「どうした? 元気がないな」

 雅黎は筆を置き、翠那の方へ視線を向けた。

「翠那もお稽古して飛べるようになりたいなぁ」

 ぽつりとこぼれた本音。

 言ったあとで少しだけ後悔したように視線を落とす


 雅黎は静かに立ち上がると翠那の前でしゃがみこみ、視線を合わせた。

「お前は狸なんだ。 天狗に化けることができても飛ぶことはできない」

 やわらかい声だったが言葉は変わらない事実を示していた。

 翠那はしゅんと俯き尻尾も力なく垂れる。

 その様子を見て雅黎は少しだけ表情を緩めた。

「だがな」

 翠那が顔を上げる。

「飛べなくてもこの里でできることはある。 お前なりのやり方でな」

 そう言って軽く頭を撫でた。

「夕方になったら外へ行こう。 それまでには仕事が終わる」

「ほんと?」

「ああ」


 一瞬の沈黙のあと、翠那の顔がぱっと明るくなる。

「ばぶ! うん!」

 笑顔が戻り、尻尾もぶんぶんと揺れた。

 その様子に雅黎は小さく息をつく。

 安心したように再び執務机へ向かい、筆を取った。

 部屋の中には紙を擦る静かな音と、時折聞こえる翠那の小さな鼻歌が流れていた。


 やがて夕刻。

「夕食の時間までには戻る」

 雅黎は部下の天狗に言い残すと、翠那を抱きかかえて空を飛んだ。

「ウキッ!」

「大丈夫だ。 空を飛びたいと言っていただろ」

 翠那は雅黎の衣をぎゅっとつかんだまま恐る恐る目を開けた。

 視界が一気にひらけた。

 里の屋根が小さく遠ざかり、山々の稜線がゆるやかに連なっている。

 風が頬を撫で、翠那の毛並みを揺らした。

「わぁ……」

 空は茜色に染まり雲の端が金色に輝いている。

 まるで世界そのものが静かに燃えているみたいだった。

「きれい……」

 思わずこぼれた声は風にさらわれていく。

 少しだけ怖い。

 けれど、それ以上にあたたかい。

 しっかりと支える腕の感触に翠那は力を抜いた。

 飛べなくてもいい。

 そう思えたのはきっと――


 次の日の満月の夜。

 空には雲ひとつなく月が静かに輝いていた。

「俺は儀式へ行く。 お前はここでこの布を被ってこの窓の前にいろ」

 低く言い残し雅黎は執務室を出ていく。

「うん」

 素直に頷く翠那。


 戸が閉まる音がして部屋はしんと静まり返った。

 翠那は言われた通り白い布にくるまったまま窓の前に座る。

 やがて月明かりがゆっくりとその身体を照らしはじめた。

 やわらかな光。 けれど、どこか冷たい。

 その光はただ照らしているだけではない。

 何かを少しずつ削り取っていくような、そんな感覚があった。

 しばらくして、翠那は小さく首を傾げる。

「……あれ?」

 胸の奥がほんの少しだけざわつく。

 理由はわからない。

 怖いわけでもない。

 でも――

「なんか、へんな感じ……」

 呟いた声はすぐに静寂に溶けた。

 月の光は変わらず静かに降り注いでいる。

 白く、静かに。

 そして確実に何かを薄めていく。

 翠那は無意識に布をぎゅっと握りしめた。

 その指先にわずかな震えが走る。

「(人間にならなくていいんだよね……)」

 そう思ったはずだった。 そう、思っていたはずなのに。

「(もとの……あれ?)」

 言葉が途中で途切れる。

「(わたし……狸……だっけ……?)」

 自分のことなのにうまく思い出せない。

 視界がぼやける。

 まるで水に溶けた絵の具のように記憶がにじんでいく。

 そのとき、昨日誰かと見た夕焼けがふいに浮かんだ。

 赤く、あたたかい光。

 誰かが隣にいた。 確かにいたのに。

「……誰だっけ……」

 名前が出てこない。 顔も声も思い出せない。

 ただ、ぬくもりだけが残っている。

 それさえもゆっくりと消えていく。

 月は何も語らない。

 ただ静かに、すべてを白く塗りつぶしていく。


 そのまま夢の中へ落ちていく瞬間「翠那!」

「ん……」

「大丈夫か?」

「……」

「翠那?」

 自分の名を呼ぶ相手が誰なのか一瞬頭から飛んだ。

「が、れい、さま?」

「浄化の作用が強かったか。 そばについてやれなくてすまん」

 翠那はそのまま部屋へ運ばれ眠りについた。


 翌日。

 身支度を整えて雅黎の部屋へ行く翠那。

「雅黎さま、おはよう」

「ああ、おはよう。 体は大丈夫か?」

「うん、大丈夫だよ。 雅黎さま、翠那ね、夢を見たの」

「夢?」

「雅黎さまに抱っこされて空飛んできれいな夕焼けを見た夢だよ」

 無邪気な声だった。

「……夢、か」

 その一言だけが、やけに重く落ちた。

「雅黎さま?」

「……翠那、一昨日の夕方のことは覚えているか?」

「おととい? ……んー……」

 頭を抱えて必死に思い出そうとするが思い出せない。

「いや、いい。 食堂へ行くぞ」


 朝食を済ませると雅黎は執務室へ、翠那は庭へ行った。

 小天狗たちが翠那のところへ寄ってくる。

「翠那ちゃーん」

「……」

 首を傾げる翠那に「翠那ちゃん?」と再び声をかける小天狗。

「なんでここにいるんだろ」

「なに言ってるの?」

 小天狗のひとりが笑いながら言った。

 けれど翠那は首を傾げたまま動かない。

「……だって、ここ……どこ?」

 その一言に小天狗たちの動きが止まる。

「え?」

「ここ、お屋敷でだよ」

「おやしき……?」

 言葉をなぞるように繰り返す。

 けれど、その意味がうまく結びつかない。

 見慣れているはずの景色がどこか遠い。

 木々の色も空の青さも。

 全部薄い膜の向こうにあるみたいだった。

「翠那ちゃん、どうしたの?」

「……わかんない」

 ぽつりと呟く。

 その声には昨日までの感情の温度がない。

「わかんないの」

 自分で言いながら、自分の言葉に驚いているようだった。

 胸の奥にぽっかりと穴が空いている。

 何か大事なものがあったはずなのに。

 それが何だったのかすら思い出せない。


 小天狗たちが動揺する。

「雅黎様呼んだほうがいいんじゃ」

 そのとき――

「どうした」

 低い声が背後から落ちる。 雅黎だった。

「雅黎様、翠那ちゃんの様子がおかしいんです」

「お前たちはもう稽古場へ行きなさい」

「……はい」

 小天狗たちは動揺しながらも稽古場へ向かった。


 庭に残ったのは雅黎と翠那。

「だれ?」

 翠那の声に雅黎の表情がわずかに歪んだ。

「……翠那」

 静かに名を呼ぶ。

 けれど、その声はほんのわずかに揺れていた。

「お前は――」

 言いかけて止まる。

 翠那はただ、まっすぐに雅黎を見ている。

 そこにあるのは警戒でも恐れでもない。

 何もない。

 記憶も関係もすべて失った者の目だった。

「……きれいなひと」

 翠那がぽつりとそう言った。

 まるで初めて会った相手に向けるように。

 無邪気に。 無関係に。

 雅黎の指先がわずかに震える。

 けれど、それをすぐに押し殺した。

「……そうか」

 短くそれだけ返す。

 その声は驚くほど静かだった。

 静かすぎて逆に何かが決定的に壊れたことがわかる。


 翠那を部屋で休ませようと連れていく雅黎。

「ウキッ」

 手を引こうとすると翠那がびくりと身を引く。

 その反応に雅黎の動きが一瞬止まる。

「大丈夫だ。 ここはお前の家だ。 怖がることはない」

「翠那の家?」

「そうだ」

 雅黎は翠那の頭にそっと手を置いた。

 澄んだ瞳がまっすぐに見上げてくる。

 その視線はあまりに無垢で、だからこそ残酷だった。

 泣きそうになる衝動を雅黎は押し殺す。

 翠那を部屋へ連れていきここで休むよう言った。


 扉を閉めたあと、ようやく息を吐いた。

 執務机に手をつき深く頭を垂れる。

「……なぜだ」

 低く、絞り出すような声。

 記憶が失われた理由。

 思い当たるのはただ一つ。

「あの布……」

 浄化によって彼女の記憶が削られてるのだとしたら……。

 白い浄化の布。 本来は穢れを祓うためのもの。

 あれは本当に穢れだけを削っているのか。

 違う。

 あれはもっと無差別だ。

 不要と判断したものをただ淡々と削り取っていく。

「不要……」

 かすかに呟く。

「……狸の翠那が、不要……?」

 その言葉に自分で違和感を覚える。

 何かが引っかかる。

 浄化。 不要なものを削る。

 ならば――

「……なぜ人としての記憶がないんだ」

 思考が一気に繋がる。

 顔を上げる。

「……まさか」

 喉がわずかに鳴った。

「翠那は……元々、人間……だったのか?」


 その時だった。

 廊下を駆ける足音。

 ドタドタと遠慮のない音が静寂を破る。

「ばぶー!」

 勢いよく戸が開く。

 そこにいたのはいつもの翠那だった。

 無邪気で軽くて何も知らない顔。

「翠那、なのか?」

「ふにゃ? 翠那だよ。 雅黎さま、おなかすいたー」

「朝食なら食べただろ」

「食べたっけ」

 首を傾げる仕草すらいつも通りだ。

 雅黎は一瞬返事を止める。

 先程まで考えていたことが喉の奥で冷たく沈む。

 何も知らない顔。 何も覚えていない声。

 それなのに確かに昨日より薄い。

「……いや」

 小さく息を吐く。

 雅黎は翠那の頭に手を置いた。

 柔らかい感触。

 いつもと同じはずのぬくもり。

「……ははっ」

 思わず短く笑ってしまう。

 安心したわけではない。 むしろその逆だ。

 正常に見えることが一番不気味だった。


「雅黎様」

 部下の天狗が戸越しに呼ぶ。

「入れ」

 戸が開く。

 入ってきた天狗は翠那を一瞬見てわずかに眉をひそめた。

 それをすぐに隠すように言葉を選ぶ。

「あの……小天狗たちが話していたのですが」

 言いにくそうに視線を落とす。

「翠那ちゃんの様子が、少し……おかしいと」

 雅黎の指先がほんのわずか止まる。

「どのようにだ」

「いえ、その……名前を呼んでも反応が鈍いとか、急にぼーっとしているとか……」

 曖昧な報告。 確証のない不安。

 それでも同じ違和感だ。

「翠那」

 雅黎は振り返る。

「ここで待っていろ」

「……うん」

 翠那は素直に頷く。

 その従順さすらどこか薄い。

 雅黎は部下とともに別室へ向かった。

 扉が閉まる。


 音が消えた瞬間、空気が変わる。

 残された翠那は、ぽつんと立ち尽くしていた。

 理由のない不安が胸の奥をかすかに刺す。

 それが何なのかはわからない。

 ただひとつだけ、はっきりしている。

 さっきまで当然あったはずのものがどこかに落ちている。

 探しても見つからないまま。

 翠那の尻尾がゆっくりと力なく垂れた。

「(翠那の様子がおかしい?)」

 先程の言葉が頭の奥で反響する。

「(名前を呼んでも反応がにぶい?)」

 名前。

 その単語に引っかかりを覚える。

「(……名前、呼ばれたっけ)」

 小さな違和感。

 けれど、そこから先に進もうとすると思考が滑る。

 何かがある。 思い出せない何かがある。

 それなのに――

「(翠那、小天狗くんたちに呼ばれたことなんて……)」

 そこで思考が途切れた。

 本当にそうか? という問いすら浮かばない。

 ただ空白だけが残る。

 翠那はしゃがみこみ頭を抱えた。

 指先に力が入る。

「……わかんない」

 声にしてしまうと余計にわからなくなる。

 みんなが知っていることを自分だけ知らない。

 その事実だけがじわじわと怖い。

 でも――

 本当に怖いのはそれなのかすら、もう曖昧だった。


 しばらくすると雅黎が戻ってきた。

「雅黎さま、翠那、部屋で休むね」

「具合でも悪いのか?」

「ううん、なんだか眠くなってきたの」


 雅黎は力なく歩く翠那の後ろ姿を見送ることしかできなかった。

 その背中はいつもより少しだけ小さく見えた。

 違う。

 小さいのではない。 薄い。

 そう感じてしまったことに雅黎は舌打ちしそうになる。

 

 先程、天狗たちを集めて話をした。

 翠那の様子についてだ。

 部下たちはそれぞれ視線を交わす。

「元の姿が人間なら、その浄化の布で人間に戻して里へ帰したほうが……」

「ですが、まだ本来の姿が人間と決まったわけでは……」

「本人の記憶が戻ってから判断すべきでは?」

 意見は割れる。

 どれも正しいようで、どれも決定打ではない。

 雅黎は黙ってそれを聞いていた。

 そして思う。

 ――判断するべきなのは本当に翠那なのか。

「……」

 答えは出ない。

 ただひとつだけ、嫌な確信が胸の奥に残る。

 このままでは翠那という存在そのものが、決める前に消える。


 執務机で頭を抱える。 考えても考えても答えは見つからない。

 思考だけが空回りしていく。

 そしてふと、雅黎の脳裏に次の満月の光景がよぎる。

 白い布。 静かな月光。

 少しずつ削れていく記憶。

「このまま浄化を続けるべきか、それともやめるべきか」

 やめれば翠那はずっと呪われ狸として本来の姿さえ忌み嫌いながら生きていかねばならない。

 だが、続ければどうなる。

 今の翠那はすでに記憶を失いかけている。

 このままでは救う前に彼女という存在そのものが薄れていく。

 雅黎はただ、奥歯を噛み締め拳を握りしめることしかできなかった。

 答えの出ぬまま、無慈悲な時は流れ次の満月へのカウントダウンはもう始まっていた。

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