1話 天狗の里長、子狸に生活を乱される
天狗の里の里長・雅黎の朝は早い。
顔を洗い、身支度を整え庭へ出て朝日を浴びる。
漆黒の髪と羽が朝日に照らされ、静かな威厳と他者を寄せつけぬ冷徹な美しさを纏っていた。
そして――
張り詰めた空気は隣室から響いた気の抜けた声によって一瞬で霧散する。
「ばぶー! ウキーッ!」
隣の部屋へ行くと、子狸の妖怪が元気よく寝言を叫んでいた。 彼女の名は翠那。
なぜ狸なのにウキーッなのか……。
「謎だ……」
心の声がうっかり漏れて、ハッとした雅黎は翠那を起こす。
「起きろ、朝だぞ」
雅黎が声をかけると、翠那は「ふにゃ?」と声を漏らし布団の中でモゾモゾと動いた。
やがて寝ぼけ眼の彼女がひょっこりと顔を出す。
「ばぶー?」
「ばぶーでもウキーッでもいいから一人で起きられるようにしろ。 俺はお前の養育係でもなんでもないんだぞ」
口ではそう突き放しながらも、翠那の面倒を見ると決めたのは他ならぬ彼自身であった。
身支度を整えた翠那と食堂へ向かう。
廊下では天狗たちが整列して雅黎に挨拶をする。
「おはようございます。 雅黎様」
挨拶に混じり、天狗たちのひそひそ話も聞こえてくる。
「いつもながら、なんて凛々しいお姿」
「あの狸の小妖怪、3日前に拾ったそうな。 元気になってなによりだ」
「先代の里長と違い、なんてお優しい」
「ほんと冷酷無慈悲な先代とは大違い」
雅黎はぴたりと足を止め、切れ長の目で天狗たちを睨めつける。
「も、申し訳ございません!」
慌てて床に額を擦りつける天狗たち。 しかし雅黎が再び歩き出そうとすると、翠那がその横をすり抜けて天狗たちの前までひょこひょこと寄っていった。
無邪気で澄んだ瞳を向け、翠那が小さく笑う。
「大丈夫だよ。 雅黎様、お顔は怖いけど怒ってないよ」
その笑顔に天狗たちの強張った顔が一瞬にして綻んだ。
「翠那、行くぞ」
「はーい」
肩まで伸びた亜麻色の髪を揺らしてひょこひょこ歩く翠那の歩幅に合わせるように、雅黎は食堂へと歩き出した。
朝食はいつも静かだ。 音を立てる者などいない。 皆、一言も喋らず颯爽と済ませていた。
翠那が来るまでは。
「こら、翠那、ちゃんと箸で食べろ」
「翠那、箸持てなーい」
「まだ小さいんだからスプーンのほうがいいんじゃないか?」
「口のまわりあんなに汚して、ふふっ」
天狗たちのひそひそ声が聞こえてまたもや睨めつける雅黎。
そんな彼の睨みに背筋をピンッと伸ばし朝食を済ませようとする天狗たち。
朝食を食べ終えそれぞれ後片付けをしようと席を立つ天狗たちを翠那が呼び止めた。
「待って!」
なんだなんだと皆、翠那のほうを注目する。
「翠那、天狗さんたちに助けてもらって感謝してるの。 だからお礼に翠那の特技を見せるの」
「翠那、その前に口まわりについたごはんつぶを」
雅黎が言い終わる前に翠那は両手をパチンッと叩いた。 すると煙がボンッと立ち込めて変身した翠那。
「翠那も天狗さんになったよ! どうかな」
雅黎が額に手をあてて呆れる。
「ただ羽が生えた狸じゃねぇか」
雅黎のツッコミに食堂全体が笑いに包まれる。
「こんな賑やかな朝は初めてだ」
「羽が生えた狸だってよ」
「失敗しちゃった……えへへ」
「いいから口拭け」
いつもと違う賑やかな朝食時間が終わり、皆それぞれ持ち場へ向かった。
雅黎は翠那を執務室へ連れて行き椅子に座らせた。
「お前、これからどうする。 体も良くなったし飯も食べられる。 自分の里へ帰るなら送っていくぞ」
「……翠那、ここにいたい」翠那が涙ぐみながら言った。
「帰れない理由でもあるのか?」
「翠那は化け物だからみんないじめる」
「化け物って……正直に言え。 どういうことだ?」
「言ったら追い出す?」
「内容にもよるな。 俺はここの里長だ。 里を守らねばならん」
「言わない!」
チッと舌打ちする雅黎に肩をビクつかせる翠那。
するとそこへ戸越しに「雅黎様」と呼ぶ天狗の声が聞こえた。
「入れ」
「今夜は満月です。 儀式はいつものように進めても?」
「ああ、問題ない」
天狗が去ると先程よりも翠那の顔が強張っていた。
「翠那、どうした」
「ウキッ」雅黎の声にビクビクしている。
「翠那、ここ出ていく」
「は? ここにいたいって言ったじゃねぇか」
翠那は部屋を飛び出した。
廊下で天狗とぶつかり、転んだ翠那は散乱した白い布を一枚持って逃げた。
「あ! ちょっと! それは儀式で使うものなのに!」
「すまんな、探しに行ってくる。 皆にはいつも通り儀式を進めるように言っておいてくれ」
雅黎は翠那を追いかけた。
遠くに見える小さな背中が怯えてるように見えて放っておけなかった。
「ちっこいわりに速いな」
森の方へ走っていった翠那を上空から探す雅黎。
木陰で休んでいる翠那を見つけた。
走り疲れたのか息を切らしている。
「おい」
「ウキーッ!」
雅黎の姿に驚く翠那。
「落ち着け。 何をそんなに怯えてるんだ」
翠那は白い布にくるまり黙り込んだ。
「話さないと対処のしようがないだろ。 内容によってはお前をここにおいておけないにしても、別の里への口添えくらいはできる」
翠那が白い布の隙間からチラッと雅黎を見た。
「話してくれるか?」
翠那はこくりと頷き話すことにした。
「翠那、満月の夜に変身しちゃうの」
「何にだ」
「……人間」
「呪いか」
「うん。 呪いの狸ってみんなに罵られて里にいられなくなったの」
「聞いたことがある。 数百年に一度、呪いの妖怪が生まれるとな」
不運だな、と言いかけて雅黎は口を閉じた。 その言葉がどれだけ軽く、どれだけ残酷に響くかくらい分かっている。
目の前で怯えている小さな存在に向ける言葉ではない、と。
雨が降ってきた。
「ここは濡れる。 行こう」
「ウキッ! イヤ!」
「わかった。 この先に部下たちが仕事をする小屋がある。 今日は儀式の準備で忙しいから誰もいない。 そこへ行こう」
翠那はこくりと頷き、白い布にくるまったまま雅黎について行った。
小屋の隅っこで相変わらず布にくるまったままの翠那。
「そんなに人間の姿を見られたくないのか?」
「だってみんな汚らわしいって言うんだもん……いろまち?っていうところに売られそうになったの」
「は?」
こんなチビをか? とあまりに救いのない話に言葉を失う。
雅黎はため息をつくと布越しに翠那の頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「ここではそんな心配はいらん。 お前がどんな姿になろうと狸だろうが人間だろうが飯を食わせてやるくらいは造作もないことだ。 まずはその震えを止めろ」
翠那は顔を伏せたまま布をぎゅっとつかんだ。
時間が過ぎていった。
雅黎は何も話さず翠那のそばにいた。
翠那は震えが止まり落ち着いていった。
「腹は減ってないか?」
雅黎の言葉に翠那の耳がピクッと動き、ぐぅ~とお腹が鳴る。
「待ってろ。 食べ物を持ってくる」
立ち上がる雅黎の服の裾をきゅっとつかむ翠那。
不安そうな目をして「ウキッ」と漏らす。
「大丈夫だ。 お前はここにいていいんだ。 安心しろ」
安堵した顔をする翠那の頭を撫でて、食べ物を取りに戻った。
森の上空を飛び、戻る途中雅黎はふと思う。
「ウキッは不安なときに出るのか……」
翠那の癖がわかり、雅黎の胸のうちは苦い後悔で満たされた。
ただのふざけた口癖だと思っていたそれは、幼い彼女が精一杯虚勢を張るための、あるいは助けを求めるための悲鳴だったのだ。 狸の里を追われ、色街に売られそうになり独りきりで震えていた彼女が恐怖を飲み込むたびに漏らしていた音。
「……気づくのが遅すぎたな」
部下の天狗に作らせた握り飯と菓子を持って小屋へ向かった。
中へ入ると翠那は布の隙間から入り口を凝視していた。
「ウキッ」
雅黎の姿を見ると、案の定その声が漏れる。
「待たせたな。昼飯だ」
日が暮れてきた。
「俺は儀式に行かねばならない。 ここで一人で待てるか?」
「儀式ってなんの?」
「封印を強化するための儀式だ。 お前がくるまってるその布が満月の夜に封印の力を清めるのだ」
「大事な布なんだね……返す」
「いや、いい。 くるまっていて安心するならそのまま持ってろ」
「ありがとう」
「一人で待てるか?」
「うん」
雅黎が飛んでいく姿を小窓から見届ける翠那。
戻ってくる頃にはもう変わり果てた姿になっている……と思いながら。
儀式を無事終えて小屋に戻ってきた雅黎。
小屋の中は暗く小窓から月明かりが差し込んでいたが、翠那はまるで月明かりを避けるようにして暗い場所に座っていた。
「ここにランプがあるのに」と明かりをつけようとすると「ウキッ!」と翠那が叫ぶ。
「どうした」
「見ないで」
震えた声をする翠那にランプの明かりを照らす。
そこにいたのは息を呑むほどに美しい女性だった。
すらりと伸びた綺麗な足に亜麻色のサラサラな長い髪、そして珠のような肌をした美女は間違いなく翠那だった。
「翠那なのか?」
「……雅黎、さま」
潤んだ瞳で自分を見上げるその美女が、先程まで自分の裾を掴んでいた「あのチビ」であると理解するのに冷徹な里長の頭脳を持ってしても数秒の時間を要した。
「お前、それが……呪いの正体か」
雅黎の声が揺れていた。
美女となった翠那はぎゅっと強く布で体を包む。
「やっぱり、きもち悪いよね……」
震える声でそう呟いた彼女に優しく言う。
「これのどこが汚らわしいんだ」
雅黎のその言葉に、翠那の大きな瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「(なるほどな、狸の里の者たちが翠那を罵ったのは嫉妬……か)」
雅黎は目の前の翠那から視線を逸らせなかった。
「落ち着いたか?」
泣き止んだ翠那に優しく声をかける。
「うん……雅黎さま」
「なんだ」
「翠那、ここにいていいのかな」
「好きなだけいろ」
「でも、翠那のこの姿見たらみんなきもち悪がらない?」
「俺以外には見せるな」
「……わかった」
翠那にはきっと、人間の姿が嫌われると思われたのだろう。 だが雅黎の心配は別にあった。
ここは男衆ばかりの天狗の里。 翠那のような美女を目にしたら……と考えただけで雅黎は胸の奥がざわつくのを感じた。
ただでさえ天狗は血の気が多く美しいものに執着する気質がある。 ましてや翠那のこの月光を煮詰めたような無垢な美しさは毒にも薬にもなりうる劇物だ。
「いいか。 満月の夜は絶対に俺のそばから離れるな。 わかったな」
「うん、雅黎さまがそう言うなら」
従順に頷く彼女の仕草ひとつとっても今の姿ではひどく艶めいて見える。 雅黎はわざとらしく咳払いをひとつして自分の感情を誤魔化した。
「汚らわしい」どころか「美しすぎる」ことが新たな問題になるとは、この狸は気づいてもいないのだろう。
「帰るか。 今なら皆寝静まっているだろう」
「うん」
立ち上がり、月明かりが差し込む小窓の前でふと足を止める翠那。
すると翠那がくるまっていた白い布が光り出した。
「ウキーッ!」
「これは浄化の光!」
「じょうか?」
「……そうか! 月の光で清めた布が翠那の呪いに反応して浄化してるんだ!」
光はやがて止んで布は真っ黒になっていた。
「雅黎さま、翠那、人間のままだよ?」
「一度の浄化では戻らない。 まだ半分もほどけてない……しかしお前、運がいいな。 満月のたびに浄化を続ければもう人間になることはないぞ」
「ほんと!?」
翠那にようやく笑顔が戻り安堵する雅黎。
月明かりに照らされながら歩いて帰った。
翌朝。
雅黎はいつも通り、庭で朝日を浴びていた。
漆黒の羽を整え、威厳ある姿で背筋を伸ばす。
そこへ隣の部屋からドタバタと騒がしい音が聞こえてきた。
「ばぶー! 雅黎さま、おなかすいたー!」
勢いよく襖が開くと、そこには昨日までの「ちっこい狸」に戻った翠那が短い手足を振り回して飛び出してきた。
「朝食の前に身支度を整えろ」
雅黎はいつもの冷徹な表情で応えたが、その内心は安堵していた。 昨夜のあの美女が幻だったのではないかと思うほどに、目の前の狸はいつも通り無邪気に騒いでいる。
「ねえ、雅黎さま、昨日の夜のこと覚えてる?」
「何をだ」
「雅黎さま、翠那のこと『きもち悪くない』って言ってくれたでしょ? 翠那、すっごく嬉しかったの!」
ぶんぶんと尻尾を振って喜ぶ翠那に、雅黎はふいっと顔を背けた。
「そ、そんなことより、顔洗え。 髪も整えろ。 寝癖がひどいぞ」
雅黎にはもうひとつわかったことがある。
翠那の「ばぶー」は安心しているということだ。
その証拠に今朝の彼女の笑顔は一段とキラキラしている。
こうして天狗の里に「日常」と呼ばれるものが、かろうじて形を保ったまま続いていくことになる。
ただしそれが本当に日常なのかはまだ誰にもわからなかった。




