5話 忘れてもまたあなたを
――お願い……記憶を奪わないで。
雅黎さまのこと、覚えたままでいさせて。
お願い……!
四度目の満月の夜。
翠那は白い布に身を包み、静かに祈っていた。
空は澄みきり月は容赦なく光を落とす。
やがて白い布がじわりと黒く染まっていく。
それは浄化の証。
そして、同時に何かが削ぎ落とされていく証でもあった。
胸の奥がひりつく。
忘れてしまう……その予感だけが確かにあった。
駆け寄る足音。
「翠那!」
「雅黎さま……」
名を呼ぶ。
けれど、その瞳はどこか焦点を失っていた。
どこまで残っている。
どこから失われた。
それすら分からないまま、雅黎の胸を焦燥が締めつける。
「雅黎さま……」翠那が目を閉じたまま名を呼ぶ。
「どうした」
「翠那は信じてるよ。 雅黎さまと幸せになれるって。 ずっと一緒にいられるって……」
言葉は最後まで形を保っていた。
けれど、その声は次第にほどけるように弱くなりやがて静かに途切れた。
腕の中で力が抜ける。
雅黎はそのまま翠那を抱き上げ、部屋へと運んだ。
眠っているだけだ。
そう分かっているはずなのに。
次に目を覚ましたとき、同じ翠那でいる保証はどこにもなかった。
しかし異変は予想もしていないことだった。
翌日、食堂。
朝食の席で部下の天狗たちがざわついている。
「少し背が伸びたか?」
「一晩で伸びるか?」
雅黎は咳払いをした。
天狗たちは慌てて背筋を伸ばし何事もなかったかのように食事を再開する。
雅黎はちらりと翠那を見る。
「(背が伸びた……気のせいではない)」
「雅黎さま、お昼ごはん、翠那がおにぎり握るね」
「どうした急に」
「夢、見たの。 雅黎さまが美味しいって言ってた」
一瞬、呼吸が止まりかける。
「……そうか」
記憶ではない。
だが、確かに残っている。
それがかえって残酷だった。
それから五度目、六度目と浄化を重ねていった。
そして九度目の浄化を終えた翌朝。
「雅黎様、翠那です」
「入れ」
戸が開く。
そこに立っていたのは見知らぬ女だった。
――いや、違う。
「(翠那……か)」
面影はある。 だが、あまりにも遠い。
背は伸び声は落ち着き、纏う空気すら変わっている。
「体はどうだ。 どこも悪くないか」
「はい、おかげさまで。 助けていただき、本当に感謝しております」
丁寧すぎる言葉。 よそよそしい距離。
胸の奥がわずかに軋む。
かつて無邪気に笑いながらしがみついてきた少女の面影がどこにもない。
「食堂へ行くか」
翠那と並んで歩く。
廊下で部下の天狗たちが挨拶をする。 その視線は明らかに翠那へ向いていた。
息を呑む気配。 囁き合う声。
――綺麗だ、と。
雅黎はそれに気づきながらも何も言わなかった。
食事中。
視線に気づいた翠那がわずかに身を縮める。
「あの……皆さんこちらを見ているのですが」
「気にするな。 食事を続けろ」
短く返す。
だがその言葉の裏で「(……当然だ)」と、どこか苛立つ自分がいた。
朝食を終え、庭へ出る。
風が静かに木々を揺らしていた。
「お前、これからどうする」
少しの間を置いてから問う。
「里へ帰ろうと思います」
迷いのない声だった。
「……そうか」
それ以上の言葉が出てこない。
出てきてしまえば止めてしまいそうだった。
「なら送っていこう。 出発は次の満月の後だ」
「はい」
素直な返事。
それだけなのに距離が遠い。
沈黙が落ちる。
何かを言うべきだと分かっているのに言葉が見つからない。
「(……行かせるのか)」
自分で決めたはずなのに胸の奥が鈍く軋む。
「雅黎様」
「ん?」
「どうしてでしょう」
翠那が少し首を傾げる。
「ここにいると落ち着くのです」
静かな声だった。
「……そうか」
「はい。 理由は分からないのですが」
少しだけ笑う。
「帰ると決めたはずなのに、少しだけ……寂しい気がして」
その一言で時間が止まる。
「(……やめろ)」
心のどこかが強く警告する。
「(それ以上言うな)」
「……気のせいだ」
低く短く返す。
それが精一杯だった。
そして翠那にとって十度目の浄化の日がやってきた。
「あのう、いつも思うのですが、これはなんのためにやるのでしょう」
無垢な問いだった。
「……呪いを浄化するためだ」
わずかな間を置いて答える。
その言葉は正しい。 だが、もうその意味を共有できていないことが何より残酷だった。
翠那は小さく頷く。
「そうなのですね」
それだけだった。
かつて必死にしがみついていた理由も怖がっていた未来ももうそこにはない。
雅黎の手がわずかに強く握られる。
「(……忘れたんだな)」
わかっていたことだ。
胸の奥が軋む。 今夜で終わりそうな気がした。
浄化も、そして――
「(……こいつとの時間も)」
「俺は儀式へ行く」
いつも通りの声音で言う。
それしかできなかった。
「わかりました」
何の疑いもなく返ってくる声。
その距離が喉を締めつける。
背を向ける。
一歩、また一歩と離れる。
呼び止められることはない。
当然だ。
もう理由がないのだから。
扉を出た瞬間、足が止まる。
呼吸が浅くなる。
喉の奥が焼けるように痛む。
振り返ればまだ間に合う。
やめろと言えば終わらせることもできる。
だが、ゆっくりと目を閉じる。
そして、何も言わずに歩き出した。
廊下を進むうちに視界が滲む。
それでも足は止めない。
泣く資格などない。
選んだのは自分だ。
それでも、頬を伝うものを拭うことはしなかった。
雅黎はそのまま儀式の場へと向かった。
儀式の場。
雅黎の意識はそこになかった。
白い布が宙に浮かび、月光を受けて淡く光る。
天狗たちが円を描き、静かに儀式を進めている。
すべてがいつも通りだった。
「……翠那」
気づけば名を呼んでいた。
次の瞬間、雅黎は走り出していた。
執務室の戸を乱暴に開ける。
「翠那!」
月の光の中。
白い布に包まれた翠那が、静かに浄化されていた。
間に合わない。
そう思った瞬間、胸の奥が裂ける。
「もういい!」
声が初めて乱れる。
「やめてくれ……!」
足がもつれそうになりながらも近づく。
「ずっと俺のそばにいてくれ」
言葉が溢れる。
「記憶なんてなくたっていい」
否定してきたものを自分で壊しながら。
「ただ、お前といたいんだ……」
その瞬間――
「がれい、さま?」
時間が止まる。
布がはらりと落ちた。
――黒く染まっていない。
「翠那……?」
肩をつかむ。
「大丈夫なのか」
「ウキッ、いたい」
その一言で世界がわずかに歪む。
「……今、なんて言った」
「え」
翠那は慌てて口を押さえた。
「これは、その……つい……」
取り繕う言葉。
だが、その仕草、その言葉。
雅黎は理解する。
「(……残っている)」
記憶はない。
それでも。
消えきらなかった何かがそこにある。
雅黎はゆっくりと手を離した。
そして息を吐く。
「……そうか」
それ以上は何も言わない。
言えば壊れてしまいそうだった。
だが、胸の奥では確かに消えないものが残っていた。
それから半年の月日が過ぎていった。
翠那は天狗の里で雅黎と共に過ごしている。
満月の夜、庭で寄り添い手をつなぐ。
「雅黎様と翠那様、仲いいね」
小天狗たちが寄ってくる。
「で、お二人の祝言はいつ頃で?」
部下の天狗が言う。
「あ?」睨む雅黎。
隣で翠那が俯き赤面する。
小天狗たちと部下の天狗たちがにこにこしながら去っていった。
「まったく……あいつら」
「雅黎様」
「なんだ」
「私はいつでもいいですよ」
「何がだ」
「……その、祝言……」
「なっ!」
言葉を失う雅黎。
翠那は顔を真っ赤にしたまま視線を逸らす。
「その……嫌、ですか」
小さな声だった。
「……嫌、ではない」
低く返す。
だが、それ以上言葉が続かない。
翠那はそっと雅黎の手を握り直した。
少しだけ強く。
「私、よくわからないんです」
「何がだ」
「どうしてこんなに……雅黎様のこと好きなのか」
雅黎の目がわずかに揺れる。
「最初から知っていたみたいに安心するんです」
翠那は困ったように笑う。
「変ですよね。 記憶なんてないのに」
その言葉が静かに胸を刺す。
「……ああ」
雅黎は短く答える。
だが、その声はわずかに掠れていた。
「変だな」
そう言いながら手を引き寄せる。
逃がさないように。
「だが――」
言葉を切る。
ほんの一瞬の迷い。
「悪くない」
翠那が目を見開く。
そしてふわりと笑った。
「よかった」
その笑顔は前と同じだった。
何も知らなかった頃と。
すべてを知っていた頃と。
どちらとも違ってどちらでもある。
雅黎は静かに息を吐く。
「(……結局)」
抗えなかった。
「(何度でも、か)」
視線を落とす。
繋いだ手。
「翠那」
「はい」
「祝言の話だが」
翠那の肩がぴくりと揺れる。
「次の満月の後にする」
一瞬、時間が止まる。
「……本当、ですか」
「ああ」
翠那の目にじわりと涙が滲む。
けれどそれは悲しみではなかった。
「よろしくお願いします」
深く頭を下げる。
雅黎はその頭にそっと手を置いた。
「今度は忘れるな」
「はい」
その返事に迷いはなかった。
たとえ記憶がなくても。
たとえすべてを失っても。
それでもまた好きになる。
満月が静かに二人を照らしていた。
――記憶がなくても恋は消えない。
何度失っても、何度でも、また好きになる。




