第六十八話 土の授業
68話です。
翌朝、少年は誰よりも早く畑へ来ていた。
まだ朝露の残る畝を一つ一つ踏まないように歩きながら、昨日ロウが掘った細い溝を何度も眺めては、水が流れた跡を指でなぞっている。その姿は授業を受けに来た子どもというより、答えの続きを探して眠れなかった子どものようだった。
「寝られなかったか」
背後から声を掛けられると、少年は少しだけ肩を震わせて振り返った。
「……少しだけ」
「嘘だな」
ロウは笑った。
「目の下が黒い」
村の大人たちが笑う。
その笑いを聞いて、少年もようやく少しだけ口元を緩めた。
昨日より、ずっと人間らしい顔だった。
ロウは板を立てると、昨日書いた「水」の文字を布で消し、新しく大きく一文字だけ書いた。
土
「今日は土だ」
少年が首を傾げる。
「土も計算するの?」
「する」
「でも土は動かない」
その言葉にロウは首を横へ振った。
「動かない土は、死んだ土だ」
畑にいた何人かが顔を見合わせる。
彼らも、その言葉の意味までは分かっていない。
ロウは鍬を一本持ち上げ、畝の端を軽く崩した。
黒い土が崩れ、昨日の雨を含んだ部分と乾き始めた部分がはっきりと分かれる。
「触ってみろ」
少年は恐る恐る手を伸ばした。
湿った土は冷たい。
乾いた土は温かい。
「違う……」
「何が違う」
「同じ畑なのに」
ロウは頷いた。
「だから昨日、水だけ見ても意味がなかった」
板に書く。
水だけでは育たない
その下へ続ける。
土だけでも育たない
少年は黙ってその文字を見ていた。
「じゃあ何で育つの」
その問いを待っていたように、ロウは鍬を置いた。
「お前は昨日、水を見た」
「今日は土を見る」
「明日は、人を見る」
「それで初めて畑になる」
少年は少し考え込んでから、小さく息を吐いた。
「全部つながってるのか」
「ようやく一つ目だ」
ロウはそう言うと、村人たちへ向き直った。
「この畝を見ろ」
二つ並んだ畝は、一見するとまったく同じに見える。
「どっちが育つと思う」
村人たちは順番に眺める。
「左」
「いや右じゃないか」
「同じだろ」
答えはばらばらだった。
ロウは何も言わず、少年へ視線を向けた。
「お前ならどうする」
少年は少しだけ迷い、それから膝をついた。
土を握る。
匂いを嗅ぐ。
指先で崩す。
昨日の自分なら絶対にしなかった行動だった。
しばらくして少年は左を指した。
「こっち」
「理由は」
「柔らかい」
「それだけか」
少年はもう一度土を見る。
「違う……」
少しずつ言葉が増えていく。
「昨日、水が流れた場所に近い」
「でも水浸しじゃない」
「だから……」
そこで言葉が止まった。
ロウは待つ。
急かさない。
先生も、いつも待っていた。
長い沈黙のあと、少年はようやく顔を上げた。
「根っこが息できる」
村中が静まり返った。
ロウはゆっくり頷く。
「正解だ」
少年の肩から力が抜ける。
その瞬間だった。
拍手が起きた。
一人、二人ではない。
村人全員が、自然と手を叩いていた。
少年は驚いた顔で辺りを見回す。
「……なんで」
セラが笑う。
「うちじゃ、正解したら拍手なんだよ」
「先生が決めた」
少年は何も言えなかった。
隣村では、間違えれば笑われた。
黙っていれば怒られた。
けれど、この村では、考えて答えにたどり着いた人間に拍手が送られる。
その違いが、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
ロウは板の端へ小さく書き足した。
知識は奪えない
少年がその文字を見つめる。
「どういう意味」
「畑は燃える」
「倉も壊れる」
「税も増える」
「でも」
ロウは少年の額を軽く指で叩いた。
「ここに入ったものは、誰も取り立てられない」
その言葉に、村人たちは誰も笑わなかった。
昨日、教会の使者が残した「三十日」という期限が、全員の頭に浮かんだからだ。
もし本当に村を守れるものがあるとすれば、それは畑でも、水でもない。
先生が残していった、この授業なのかもしれない。
その時だった。
村の入口で犬が低く唸った。
見張りをしていた青年が、息を切らして走ってくる。
「ロウ!」
その声だけで、畑の空気が変わる。
「……隣村からだ!」
「十人……いや、もっといる!」
青年は荒く息を吐きながら叫んだ。
「鍬も鎌も持ってる!」
一瞬で村が静まり返る。
少年の顔から血の気が引く。
「違う……!」
思わず叫んだ。
「戦いに来たんじゃない!」
全員の視線が少年へ集まる。
少年は震える声で続けた。
「昨日、俺が帰って話したんだ」
「水の授業があったって」
「そしたら……」
遠くの土煙が、ゆっくりと近付いてくる。
「村中が……来た」
鍬を握りしめた男たち。
子どもを背負った母親。
老人まで歩いている。
その列は敵の進軍ではなかった。
飢えと希望を抱えた、人の列だった。
ロウは、その光景を見つめたまま、小さく呟いた。
「……始まったな」
誤字脱字はお許しください。




