173 君の名前を呼んだ夜(1)
ハルムとアセリアが家に戻ったのは、夜もかなり更けてからのことだった。
まだまだ広場は酒と歌とで凄まじい風景だったけれど、もう出し物もないしやることもないということで、休ませてもらうことになったのだ。
テーブルの上にランプを置くと、ハルムは一つ息を吐いた。
「ふぅ」
その声をききつけ、アセリアがくるりと振り向く。
「疲れましたわね」
アセリアの表情に、思わずドキリとした。
柔らかな表情。
さっきまで、その顔を誰か他のやつに向けていたことを思うと、胃がキリキリと痛む。
自分だけのものだと思っていた。
ここには二人だけだから。
一緒に行きていこうとお互いに決めたから。
けれど、離れることもあるのだと、現実を突きつけられた。
アセリアは、このままだと俺の元を離れてしまうと。
ランプの灯りの中で、アセリアが後ろを向いて伸びをする。
ゆるゆるとベッドへ向かう。
俺は執事だった。
いつだって。
今だって。
けれど。
それでは一緒にいられない。
執事という役を、辞めたくなる。
辞めたらどうなる?
アセリアは、一人で生きていけるだろうか。
心配だからこそ、執事という役を手放すわけにはいかなかった。
アセリアのためなら。
執事という役でいなくては。
そこで、アセリアがベッドに引き込まれていくことに気がついた。
「すぐに寝ますか?」
「ええ。本当は寝るのが惜しいのですけど」
子供のように眠気と戦うアセリアが愛おしくて、少しだけ笑う。
「楽しかったですからね」
「ええ。それに、」
アセリアがハルムの方に向き直る。
ベッドに座り込み、何かを探すように視線を彷徨わせた。
何か言葉が続くのかと思ったが、アセリアは下を向いてしまう。
言いづらそうに。恥ずかしそうに。けれど嬉しそうに。
パッと顔を上げたアセリアは頬を火照らせ、少しだけ微笑んだ。
なんだよその顔。
なんでそんな顔。
手を伸ばしそうになる。
執事という役が、アセリアを幸せに送り出す役なのだとしたら。
もし、そうなのだとしたら。
俺は。
俺は?
「ハルム」
アセリアが、俺の名を口にする。
甘い声。
込み上げる。
飲み込めないほどの気持ちを。
もう、どうにもできなかった。
俺はどうやってずっとここに居た?
俺はどうやれば、ずっとここに居られるんだ?
俺は、アセリアの前で、どう息をしていた?
アセリア。
「アセリ……ア」
しまった、と思った。
今まで、まともに名前を呼ぶのは意識的に避けていた。
主人と執事から、外に出ないために。
はみ出さないように。
目の前に、ハッとした顔のアセリアの顔が見えた。
言っては、いけないことだった。
それは、言ってはいけない言葉だったのに。
ラスト駆け抜けていきましょう!




