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夜空色の青春  作者: 上永しめじ
第四章「芽吹きの春と燃えるような夏」
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第52話「小さな違和感(2)」

 


「は、はい!」


 セドリックに声をかけられたセレネは、少し驚いたようにセドリックを見た。


「その本、精霊学大全ですよね。僕もずっと読みたかったんです。何か面白い話、載ってますか?」


 セドリックの言葉には、湖の底まで見通せるような純粋な興味と親しみが込められていた。


 それは、階級の壁を意識した畏まった丁寧さではなく、ごく自然な、同じ物語を愛する友人に話しかけるような、暖かな口調だった。


「はい......色々な地域の精霊について詳細にまとめられていて。今は、情熱的な南方の精霊について読んでいました」


 セレネは、自分でも無意識のうちに、氷が溶けるように柔らかく微笑んでいた。


 セドリックの自然な優しさには、周囲の緊張を和らげる不思議な力がある。それは、セレネが休日に教会で、陽だまりの中で憩う地域の人々と接する時の、あの穏やかで温かい空気に似ていた。



「南方の精霊! 僕も興味あります。カリナの......えっと、南国の輝く海辺で生まれた友達なんですけど、その子の故郷の話かもしれません」


「そうなんですね! 南方では、波の音や歌と共に生きる精霊が多いそうです。音楽を通じて、人々と深く心を通わせるのだとか。だから、南方の人は作業をしながらでも、常日頃から美しい歌を口ずさんだりしているようですよ」


「へえ、素敵ですね。セレネさんは、精霊のこと、本当によく知ってるんですね」



 セドリックの濁りのない賞賛に、セレネの白い頬が、夕焼けに染まる雲のようにほんのりと染まる。


「ありがとうございます。でも、まだまだ......世界という広い書庫には、こんなにも多くの精霊がいて、私の知らない物語が星の数ほどあるのだと、改めて思いました」


「そうなんですか? 僕なんて、博識なセレネさんに比べたら全然知らなくて......今日、こうして色々な精霊の話が聞けて、心が弾むくらい楽しいです」


「いえ、そんなことありません!」


 セレネは、思わず手に持った本を置き、身を乗り出していた。



「セドリックさんは......とても、精霊の物語に真摯に心を寄せていらっしゃいます。それは、知識よりもずっと大切なことです。精霊たちも、自分たちの話をそんなに楽しそうに聞いてもらえて、きっと喜んでいると思います」


 その言葉に、セドリックの顔が、厚い雲から太陽が覗いたようにパッと明るくなった。


「本当ですか? セレネさんにそう言ってもらえると、すごく自信が持てます!」


 その無邪気な笑顔を見て、セレネの胸の奥にある頑なな何かが、静かに解けていくのを感じた。



「あ、あの。セレネさん」


 今度は、ルイが窓から差し込む光を背にして声をかけてきた。


「その本の第三章のところ、すごく面白いですよ。実は......私も先週、この席で読んだんです」


「まあ、そうなのですか?」


「はい。東方の深い霧に包まれた精霊と、広大な海の精霊の交流についての古い記録があって......種族が違っても、精霊同士に深い友情のようなものがあるんだなって、感動してしまって」


 ルイが、自分が読んだ時の情景を、目の前に描き出すように話す。その声は春の小川のように優しく、相手を尊重する響きに満ちていた。


「まあ......それは、とても心温まるお話ですね」


 セレネは、春の花が綻ぶような、心からの笑顔を浮かべた。



 気づけば、四人は自然と、世界中の精霊の話で盛り上がっていた。


 セドリックが読んだ深い森の精霊の物語に、キオが遠い砂漠の精霊の話を重ねる。ルイがそれに古い伝承の詩を加え、セレネが教会の奥底に眠る書物で読んだ精霊の逸話を語る。



 図書館の静寂は、今や四人の情熱によって心地よい活気に満たされていた。そこには、家柄も身分も、それを証明する紋章さえも介在しない。ただ、純粋に物語を愛し、精霊という存在に想いを馳せる若者たちの姿があるだけだった。




―――


 時間は静かに過ぎ、やがて図書館の窓から見える空が、群青色から鮮やかな茜色へと変わり始めた。長い書架の影が床を這い、夕闇が静かに忍び寄ってくる。



「そろそろ、門限の時間だね。影がずいぶん長くなった」


 キオが、革ベルトのついた時計を見て、名残惜しそうに言った。

「あ、本当だ。もうこんな時間。帰らなきゃ」


 セドリックが、開いていたページを丁寧に閉じ、本を積み上げる。


「それじゃあ、また明日。この続きを話そう」


「うん、また明日!」


 キオとセドリックが椅子を直し、先に立ち上がって、夕陽が差し込む長い廊下へと出て行った。



 ルイも自分の本を片付けながら、セレネに柔らかな眼差しを向けた。


「今日は、セレネさんと精霊のお話ができて、本当に嬉しかったです。またいつか......こうして一緒に本を読めたらいいなって思います」


「ええ......私も、同じ気持ちです」


 セレネの素直な言葉に、ルイは夕闇の中に咲く白い花のように笑った。


「それでは、また!」


 ルイの足音も、遠ざかっていく。


 一人残されたセレネは、静かにキオたちの後ろ姿を見つめた。



 会話をしながら歩くキオ、ルイ、セドリック。


 彼らは肩を並べ、時折笑いながら、何かを熱心に話している。そのシルエットは、この古い学院の風景の一部として、驚くほど自然で、温かかった。



『彼女たちは......本当に、澄んだ心を持った子たちです』


 セレネの胸に、春の宵の風のような、ぼんやりとした感情が浮かんだ。


 ルイの飾らない優しさ。セドリックの真っ直ぐな純粋さ。そして、そんな二人と、一人の少年として心から楽しそうに語らうキオの横顔。



『キオ様は......あの子たちを、大切に思っていらっしゃる』


 それは、なぜだろう。


『それは......本当に、遠ざけなければならないことなのだろうか』


 その疑問は、小さな、けれど確かな違和感として、セレネの心の奥底に静かに沈殿した。





 セレネは、図書館を出た後、夕闇に包まれ始めた学院を抜け、まっすぐ教会へと向かった。


 冷え込み始めた夕暮れの街を歩きながら、頭の中は先ほどまでの図書館の温かな光景で支配されていた。


 教会の重厚な黒ずんだ木扉を開けると、そこにはひんやりとした空気と、使い古された蝋燭の煤、そしてお香の匂いが立ち込めている。


 セレネは、誰もいない祭壇の前に膝をついた。冷たい石畳の感触が膝に伝わる。彼女は指を組み、目を閉じて祈りを捧げようとした——その時。



「セレネ様」


 背後の暗がりから、静かな、けれど通る声が響いた。


 振り返ると、そこには夕闇を背景にして、自分と同じ白銀の髪を持つ少年、ルドルフ・ジルヴァが立っていた。



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