第95話 ごろごろさまに名前を
鈴を鳴らしても起きない。
ノワにそう言われ、わたしは胸元から取り出した鈴を握ったまま、祠の前で考え込んだ。
「どうして? ハクのときは、鈴を鳴らして『起きて』って言ったら、扉が開いたよ?」
「白いのは、眠ったときにはもう大人であった。誰かに呼ばれれば、自分のことだとわかる。……だが、こやつは違う。人間に呼ばれるということがどういうことか理解する前に、眠りについたのだ。『起きて』と言われても、自分のことだとわからぬ。ゆえに、目を覚ましかけてはまた眠る――舟の上でお前が感じたとおりである」
「じゃあ、ノワが呼べば? スズのときみたいに」
「誰が呼ぼうと同じである。王の声であろうと、自分が呼ばれているとわからぬ者の耳には届かぬ。……こやつには、まだ名がないのだからな」
「……名前?」
「うむ。こやつを起こすには、まず名をつけて呼んでやらねばならぬ。名ならなんでもいいというわけではない。こやつを待っていた者が、心を込めてつけた名が要る」
確かハクのときは、わたしが名前をつける前に、自分で扉を開けて出てきたんだった。そして名前をつけてあげたのは、そのあと……。
でも、この子は違うんだ。
「……『ごろごろさま』、じゃだめなの? みんなそう呼んでるよ?」
「それは、祠から聞こえる音につけた呼び名であろう。こやつ自身に贈られた名ではない」
「そんな……あれ、でも扉はもう開いてるよ? これって『ごろごろさま』って呼ばれたからなんじゃないの?」
「それは単に寝ぼけて押しただけであろう。……本当に名だと認識しておれば、とっくに祠から出てきておるはずである。ともかく、名をつけてやらんことには話にならん」
ノワはそれきり知らん顔をして、毛づくろいを始めてしまった。
「ねえ、さっきから気になってたんだけど……その黒い子、何なの?」
エマちゃんがわたしの袖を引きながら言った。
そういえば、ノワのことをまだ説明していなかった。
「この子はノワ。猫っていう動物だよ。なんて説明すればいいのかな……えーっと、三百年前にみんな眠ってしまったんだけど、ノワは最近目を覚ましたの」
「……猫?」
エマちゃんだけでなく、他の子供たちも驚いた顔でノワを見つめた。
「――ひょっとして、ごろごろさまも猫なの?」
「うん、猫だよ」
「そうなんだ……。それで、ノワはさっきから何て言ってるの?」
子供たちには、ノワの言葉がただの鳴き声にしか聞こえていないのだ。
「えっとね……ごろごろさまを起こすには、名前が要るんだって」
「名前?」
「うん。だから、わたしが名前をつけて――」
そこまで言って、わたしは口をつぐんだ。
目の前には六人の子供たちがいる。ひと月半ものあいだ、毎日ここへ来て、扉の前に林檎やパンを置いてきた子たちだ。ごろごろさまが目覚めるのを待っていた時間は、わたしよりもずっと長い。
「ううん。……みんなでつけよう」
「みんなって、あたしたち?」
「うん。ごろごろさまの名前、みんなでつけてあげてほしいな」
エマちゃんは目を丸くすると、他の子供たちを振り返った。
◇◇◇
名前を決めるとなった途端、思った以上に大騒ぎになった。
「ごろごろ!」
「それじゃ今までと変わんないじゃん。まるまるは?」
「じゃあ、りんご! りんごがいい!」
「ぱんのほうがいいよ!」
「……娘よ。食い物の名はやめよ、と言っておけ」
ノワはそんな小言を漏らしていたけれど、通訳するまでもなかった。子供たちは思いつくままに名前を出しては誰かに却下され、また別の名前を考え……いつの間にか食べ物の名前からは離れていた。
ラギは畑の石垣に腰かけて、笑いながらその様子を眺めていた。
「ハクのときは、白いからハク、だったもんね」
わたしはついムッとなり、ラギに言い返す。
「わかりやすくていいじゃん! それよりラギも何か考えてよ」
「僕が考えると商品の名前になっちゃうからやめとく」
そんな中、エマちゃんだけは黙っていた。腰に手を当て、丸い扉の隙間をじっと見つめている。
「……ひなた」
エマちゃんがぽつりと言うと、子供たちがいっせいに静かになった。
「扉のすきまから、明るいほうに向かって前足を出してたでしょ。……ここは霧ばっかりで、日なたなんてほとんどなくて……それでも明るいところに出てこようとしてたから――」
エマちゃんは、わたしを見て言った。
「ヒナって、どうかな?」
「――っ、うん! ヒナ! いい名前だと思う」
◇◇◇
日暮れ前、霧が少しだけ薄くなったころ、わたしは祠の前に膝をついた。
背後には六人の子供たちが並び、その後ろにラギが立っている。
ノワはわたしの隣で、扉をじっと見つめていた。
鈴をひとつ鳴らすと、澄んだ音が耳に響いてくる。
「ヒナ」
隙間の向こうで、ごろごろという音がぴたりと止まった。
「――起きて。一緒に遊ぼ?」
もう一度鈴を鳴らしたところで――。
丸い扉が、音もなく動き始めた。
指一本分だった隙間が、ゆっくり広がっていく。
そして、中から転がり出てきたのは……茶色い毛玉だった。
毛玉は地面でころんと一回転すると、起き上がって大きなあくびをした。
よく見ると、毛には濃い色の縞模様がある。子猫というだけあって、これまで会ったどの猫よりも体が小さく、金色の丸い目をぱちぱちさせている。
「……あそぼ?」
子猫は首をかしげてそう言うと、わたしの膝にぴょんと飛び乗り、顔を見上げた。
両手ですくい上げると、驚くほど軽かった。お腹はぽかぽかと温かく、薄い耳は向こう側が透けそうなくらいだ。
三百年も眠っていたなんてとても信じられない、ただの、小さな猫だった。
「あそぼ!」
言うなり、子猫はわたしの手を蹴って、隣にいたノワの顔めがけて飛びかかった。
「ぶっ――」
黒い顔に茶色い毛玉がへばりつく。
「こら……王に飛びつくでない」
「王さま! 王さま、あそぼ!」
「あそばぬ!」
子猫はノワの頭によじのぼり、嬉しそうにごろごろと喉を鳴らし始めた。
ノワは子猫を頭に乗せたまま、嫌そうに耳を伏せている。
「出てきた! ちっちゃい!」
「ごろごろさまだ! ヒナだ!」
わたしの背後では子供たちが歓声を上げていた。
子猫はノワの頭から飛び降りると、今度は子供たちのほうへと駆けていく。
鼻水を垂らした男の子の足にじゃれつき、別の子の靴の革ひもを引っぱる。子供たちが笑い声を上げるたび、子猫はますます嬉しそうに駆け回った。
「ノワ様より、ずっと人なつっこいね」
ラギが楽しそうに笑っている。
ノワの「比べるでない」という返事は、もちろんわたしにしか聞こえていない。
やがて子猫は、エマちゃんの足元で立ち止まり――その顔を見上げ、しっぽをピンと立てる。
エマちゃんがそっと手を伸ばすと、子猫はその手に頭をすり寄せた。
「……あったかい」
――そのとき、林檎畑の下の道に、村長さんが立っているのが見えた。
村長さんは遠くからこちらをじっと見つめたまま、動こうとしなかった。
◇◇◇
ひとしきり遊んだあと、子猫はエマちゃんの膝の上で丸くなった。
金色の目が、とろんと細くなっていく。
エマちゃんが、膝の上をのぞき込んで言った。
「ヒナ、もう寝るの?」
「……ねむい」
ヒナは小さくあくびをして前足で顔をこすると、眠そうな声で言った。
「王さま……ヒナ、ちゃんとねたよ……王さまが、ねむれって、いったから……」
声はそこで途切れ、やがて、小さな寝息へと変わった。
わたしは隣のノワを見やる。
ノワは毛づくろいの途中で、動きを止めていた。
くしゃくしゃになった頭の毛を撫でようとしていた前足が、宙で静止している。
三百年前、ノワがこの子にも「眠れ」と言ったのだという事実が、今になってわたしの胸に重くのしかかってきた。
次回は11月6日(金)朝6:40頃に更新予定です。




