第94話 隙間の向こうのごろごろさま
昨夜、川の水を通して聞こえた小さな声が、朝になっても耳から離れなかった。
――あの子は、いったいどんな猫なんだろう。
そんなことを考えながら、わたしたちはガルドさんのところの若い船頭さんが漕ぐ舟に荷馬車を積み替え、さらに川をのぼった。
次の日の昼前になると、川の両岸に高い岩壁が続き始め、舟は深い谷へ入っていく。そこから先は一面の霧だった。
白い霧が川を覆い、少し先の岩さえぼんやりとしか見えない。太陽は出ているはずなのに、空全体が白い布で覆われたみたいだった。
「……寒い」
ラギはそう漏らしながら、寒そうに外套を体に巻きつける。
舟のへさきでは、ノワが麻布にもぐり込み、鼻先だけを出していた。
川べりには青々とした草が茂っているのに、少し離れた斜面の木々はどうも様子が違う。
斜面には林檎の木がたくさん並び、小さな青い実をつけていた。けれど、葉のところどころが灰色に変わっている――《白蝕》だ。トト村の畑で見たのと同じ色だった。
「着いたぞ。ここがオルム村だ」
若い船頭さんのひとりが、目の前に広がる景色を指してそう言った。
◇◇◇
船着き場には、年配の男の人がひとり立っていた。
背が低くて無口そうなそのおじいさんは、自分が村長だと名乗った。
それからわたしたちを順番に見て、最後に荷馬車の上のノワへと目をやった。
「……行商か」
「はい。ラギと申します。林檎の買いつけに――」
「林檎なら今年はない」
村長さんは短く答えた。
「見てのとおりだ。日が差さんから実が赤くならん。……そんな村に、おまえさんたちは何の用だ」
わたしは、一歩前に出て頭を下げた。
「すみません、祠を見せてもらえないでしょうか?」
村長さんの眉が、ピクリと動いた。
「……祠だと?」
「はい。子供たちが集まっているって聞いて、どんな祠なのか気になって」
村長さんはしばらく黙っていたが、やがて谷の上のほうを顎で示した。
「林檎畑の上だ。ひと月半ほど前から、子供らがあそこを離れようとせんのだ。親が言っても聞く耳を持たん」
「ひと月半も……」
「教会にはすでに使いを出してある。二、三日のうちには来るそうだ」
――また、教会か。
胸の奥が、キュッと縮むような思いだった。
「そんなおまえさんらが子供らを連れ戻してくれるなら、今夜は泊めてやってもいい。……それができんなら舟で寝てろ」
それだけ言うと、村長さんはさっさと行ってしまった。
「……感じ悪いなあ」
ラギが小さな声で言った。
でも、わたしにはなんとなくわかる……。
あの人は怒っているんじゃなくて、たぶん、何かを怖がっているんだ。
◇◇◇
わたしたちは霧の中、林檎畑の間に続く細い道をのぼっていった。
畑のいちばん上、崖の下に石の祠があった。膝くらいの高さで、苔に覆われた丸い扉がついている。トト村の丘にあった祠によく似ていた。
「へえ、この村の祠は封がないんだね」
ラギの言うとおりだった。
ハルガでもウルカでもリーメでも、祠の扉は教会の鉛で封じられていた。でも、この祠には何もない。教会の手は、まだこの谷まで届いていないらしい。
祠の前には六人の子供が座っていた。男の子と女の子が三人ずつ。いちばん小さな男の子が、鼻水を垂らしながら扉を見つめている。
扉の前には、青い林檎やパンの切れ端、萎れかけた花が並んでいた。子供たちが持ってきたお供え物だろうか。
「……だれ?」
いちばん年上と思われる女の子が立ち上がった。九歳くらいだろうか。赤い頬をして、両手を腰に当てている。
「ミオっていうの。……ねえ、ここで何を待ってるの?」
女の子は少し警戒した様子でわたしを見たあと、祠を指差した。
「あたしはエマ。あのね、ごろごろさまを待ってるの」
「……ごろごろさま?」
「ひと月半くらい前から『ごろごろ』って鳴ってるの。耳を当ててみて」
わたしは祠の前にしゃがみ、扉へ顔を寄せてみる。
丸い扉は、指一本分だけ開いていた。
その隙間から、温かい息のようなものが流れてくる。冷たい霧の中なのに、そこだけ日なたにいるようだった。
そして――聞こえてきた。
ごろごろ、ごろごろ。
それは一昨日の夜、ウルカの渡し場で川の水を通して聞こえたのと、同じ音だった。
「扉が開いたのは、昨日の朝なの」
隣で見ていたエマちゃんが、詳しく教えてくれる。
「それまではずっと閉まってて、音だけ聞こえてたの。でも、昨日の朝来たら少し開いてて……すきまから前足が出てたの。朝、ちょっとだけ霧が薄くなるでしょ? それで明るくなったところにね――」
「茶色くてふわふわしてた!」
「でもすぐ引っこんじゃったの」
まわりの子供たちも、興奮した様子で口々に話し始めた。
エマちゃんは扉を見ながら続ける。
「大人は怖がって見に来てくれないの。でも……ごろごろさまは怖くないもん」
「パンあげても食べないんだよ」
「林檎も。ずっと置いてあるの」
「お腹すいてるんじゃないかって、みんな心配してるの」
――トト村の丘での日々を思い出す。あのころの自分は、誰にも信じてもらえず、ひとりで祠の扉に話しかけていたっけ。
わたしはもう一度、扉の隙間に耳を近づける。
ごろごろ、ごろごろ。
『……あそぼ……』
あの夜と同じ、小さな声が聞こえた。
わたしは、隙間にそっと指先を近づけてみる。
すると――隙間の向こうから、小さな茶色い前足がちょこんと出てきた。
けれど、柔らかい肉球がわたしの指先に一度だけ触れると、またすぐに引っこんでしまう。
「……あ」
指先に残る、確かな温もり――。
遅れてのぼってきたノワが足元に来ると、エマちゃんたちが驚いたように目を見開いた。
けれど、ノワは気にする様子もなく、扉の隙間に鼻先を近づける。
「娘よ……これは子猫である」
「こ……ねこ……?」
「子供の猫、である」
ノワは祠から顔を離さず、低い声で続けた。
「三百年前に眠りについたとき、こやつはまだ子猫であり……成長が止まったまま、ずっと眠っておったようである」
――言葉が、すぐに出てこなかった。
そうか。三百年前に猫はみんな一斉に眠りについたんだから、そこには大人の猫もいれば、子供の猫も当然いたわけで……もしかすると、遊んでいる途中だった子も、いたのかもしれない。
わたしは立ち上がり、エマちゃんたちと祠の扉を交互に見やる。
「――起こしてあげよう。この子、ずっと遊びたがってる」
「……よいのか、娘よ」
ノワが、わたしを見上げて言った。
「猫を起こすには通常、鈴を鳴らして呼べばよい――のだが……こやつは、鈴を鳴らしても起きぬぞ」
次回は11月4日(水)朝6:40頃に更新予定です。




