第93話 川をのぼる舟の上で
今話より第二部になります。毎週水・金・日の朝6:40頃に更新していきます。
かつてこの世界が『地球』と呼ばれていた頃、人間は猫という動物と生活を共にしていたという。
そして猫は、人のそばで眠るのがいちばん好きな獣だった――おばあちゃんが遺した口伝の、最初の二節だ。
でも、猫は単なる伝説上の動物などではない。
今も、この世界に生きているのだ。
――わたしは《猫語り》のミオ。黒猫のノワと旅をしている。こう見えてノワは猫の王さまなんだとか。
猫の声を聴く力と、おばあちゃんの形見の鈴を使って、各地の祠に眠る猫を起こして回る――それがわたしの使命であり、わたしのやりたいこと。
これまでに起こした猫は、ノワを入れて四匹。
そして五匹目の気配は、思っていたよりずっと近くにあった。
◇◇◇
わたしたちの舟はリーメを出たあと、水路を抜けて広い川に出ていた。
ラギの荷馬車を載せた平底の舟を、二人の船頭さんが長い竿で川底を突いて押している。川の流れに逆らっているので、進む速さは人が歩くのと大して変わらない。
舟のへさきには麻布が敷いてあり、その上でノワが丸くなっていた。
「……娘よ。あとどれくらいで陸に上がれるのだ」
「ウルカまで三日くらいだって。そこで舟を乗り換えるの」
「三日……」
ノワは麻布に顔を埋めた。水が苦手な猫の王さまにとって、三日間の船旅はとてもつらいらしい。
それでも、舟には少し感心しているようだ。
「舟はよい。水に触れずに水の上を進める。吾輩が認める、人間の発明のうちで唯一まともなものである」
「じゃあ、そんなに丸くならなくてもいいのに」
「それとこれとは話が別である」
荷馬車の上では、ラギが帳面を見ながら何やら計算していた。
「ミオちゃん、王都までの路銀はギリギリだよ。でも大丈夫。向こうで雨粒飴が売れれば取り返せるから」
「まだ王都に着いてもいないのに……」
「目的地に着く前から商売は始まってるものなんだよ」
舟に乗ってまだ半日なのに、同じ話を聞くのはこれで三回目だった。
◇◇◇
昼過ぎ、わたしは荷馬車の陰でおばあちゃんの手帳を開いた。
手帳に描かれたはじまりの七猫の地図によると、リーメから川をさかのぼった先に、王都グランセルの印がある。次はそこで眠る猫を起こすつもりだ。
――リーメに雨が戻ってきたわよ。
アオに頼まれた伝言を、心の中で繰り返す。次の猫に会ったら、必ず伝えなきゃ。
手帳を閉じかけたとき、胸の奥に、ふっとくすぐったい感触を覚えた。
これって……猫の気配だ。
わたしは、遠くに眠る猫の気配も感じ取れるようになった。旅を始めた頃は方角がわかる程度だったけれど、今では気配の大きさや眠りの深さまでわかる。
今の気配は、これまで感じたことのあるどの気配とも、まるで違っていた。
アオの気配はとても大きかったし、ハクの気配は細くて、熱にうなされているようだった。それらに比べると、この気配は小さくて、ずいぶん軽い気がする。
「……ねえ、ノワ。これ、ちょっとおかしいかも」
「何がである」
「川上のほうに猫がいるみたいなの。すごく小さな子で……眠ってるはずなのに、眠ってないみたいというか」
麻布からノワが顔を上げた。
「眠っているのに眠っていない、とは?」
「うまく言えないけど……起きたくて、何度も寝返りを打ってる、みたいな感じかな」
ノワは川上へ顔を向け、しばらく考え込んでから、ぽつりとつぶやいた。
「……寝ぼけておるな」
「猫が……寝ぼけてる?」
「しかも、子供の寝ぼけ方である。目を覚ましかけては、また眠る。それを繰り返しておるのであろう」
「子供って……」
「詳しいことまではわからぬ。近くまで行けばはっきりするであろう」
そう言うと、ノワはまた麻布に顔を埋めた。
◇◇◇
舟がウルカの渡し場に到着したのは、リーメを発ってから三日目の夕方だった。
渡し場では、小さな女の子がぴょんぴょん跳ねていた。
あれは――サヨちゃんだ。胸元の鈴を、わたしに向かって元気いっぱい鳴らしている。
「お姉ちゃーん! あたし、ちゃんと毎日鳴らしてるよ!」
その言葉が本当だということは、もちろん知っていた。この三日間、舟の縁から水に手を浸すたびに、川上からチリン、と小さな音が届いていたのだ。
「ほんとだ! ちゃんと聞こえてたよ、サヨちゃん!」
その後ろには、彼女のお父さんのガルドさんが腕を組んで立っていた。
「舟はここで乗り換えだ。ここから上は、うちの若いのが漕ぐ。流れが速くて、その舟じゃ上がれねぇからな」
「ありがとうございます」
渡し場の杭には、白い猫が前足をそろえて座っていた。
「五日ぶりですね、猫語りどの」
「ハク! 元気そうだね!」
「私はいつでも元気です。それよりも」
ハクは川上に目をやった。
「前にお話しした、子供たちが祠の前で何かを待っているという村についてですが――オルムという、林檎の村だそうですよ」
「オルム……林檎の村?」
わたしが思わず聞き返すと、ガルドさんが横から口を挟んだ。
「オルムか。この川をずっと上がった先の村だ。だが、今年の林檎はてんで駄目らしいな。日が差さねぇせいで、林檎が赤くなる前に落ちちまうらしい」
「日が差さない……?」
「それにな、子供らが祠から離れねぇんで、村の年寄りたちが教会に使いを出したそうだ」
教会と聞いて、胸がヒヤリとした。各地の祠を封じて回っている、灰の教会のことだ。
ガルドさんの話を聞いて、ハクが続ける。
「あの村では、冷たい川の上に霧が出て、谷から消えないようです。下ってくる水をなめると、霧の味がするのですよ」
「霧の味?」
「その霧が日を遮っているのでしょう。人間の体にとっても決して良いとは言えません。……それでもあなたたちは、オルムに行くのでしょう? くれぐれも患者を増やさないようにしてくださいね」
「増やさないよ。むしろ減らしに行くんだから」
麻布の上で、ノワがのそりと顔を上げた。
「白いの。相変わらず口うるさいのである」
「王さま。舟の上でも毛づくろいは続けてくださいね」
「断る。水の上でできるものか」
ハクはヒゲをひとつ揺らしただけだった。
◇◇◇
その夜、なかなか眠れず、わたしはひとりで舟の渡し場へ向かった。
……つもりだったけれど、ノワが足元についてきていた。
「夜は力を使わぬ約束である」
「……ちょっと声を聴くだけだよ。鈴は鳴らさないから」
ノワはしばらく黙り、しっぽを一度だけ振った。リーメでも見せてくれた、今夜だけは許すという合図だ。
川の水は、ハクが言ったとおり冷たかった。
手を水に浸して目を閉じる――リーメで覚えたやり方だ。
鈴は鳴らさず、川が運んでくる音にだけ耳を澄ませる。
水が流れ、石に当たる音がする……その向こうから、かすかな音が聞こえてくる。
ごろごろ、ごろごろ。
猫が気持ちのいいときに喉を鳴らす音だ。ノワもたまに聞かせてくれる。
――けれど聞こえたのは、それだけじゃなかった。
『……あそぼ……』
小さな、小さな声だった。
次回は11/1(日)の朝6:40頃に更新予定です。




