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第92話 いってらっしゃいの雨

 旅立ちの朝の空は、薄い水色をしていた。


 船着き場へ向かう前に、わたしはひとりで湖に立ち寄った。アオに、どうしても伝えておきたいことがあったからだ。


 アオは、水面の上に座っていた。わたしを見ても特に驚いた様子もなく、最初からわたしが来るとわかっていたような顔をしている。


「今日、この町を発つんだ」


「知ってるわ」


「次は王都に向かうの。次の猫を起こしに行かなきゃ」


「ええ」


 アオは、いつものように毛づくろいをしている。あまりにもいつもどおりな態度に少し安心して、わたしもいつもと同じ調子で話しかけた。


「あのね、アオ……また、会いに来るからね」


 銀灰色の耳が、ピクリと動いた。


「次は起こしに来るんじゃなくて、歌を聴きに来るんだ。だって、アオはもう起きてるんだもんね。それで、鐘の声も、この町の鈴の音も、また一緒に聴けるといいね。……それを、伝えたかったんだ」


 アオはしばらく黙っていたが、やがて目を細めた。


「……好きになさい」


 それだけ言って、しっぽで水面をパシャンと叩く。この叩き方は、きっと、喜んでくれているんだよね。


「ノワも一緒に行っちゃうけど……寂しくない?」


「三百年待ってても大丈夫だったのよ。たかが数年や数十年くらい、なんてことないわ」


「そ、そっか」


「それに、これからは歌も毎日歌えるしね。誰かとの約束だからじゃなくて、わたしが歌いたいから歌うの」


 ……ほんと、このきれいで、ちょっと偉そうな雨の神さまには敵わないなあ。この先三百年経っても、きっと彼女はこのままなんだろう。


「そうだ、ミオ。ひとつだけ、頼まれてくれるかしら?」


 アオが毛づくろいをやめて、わたしを見た。


「次の子に会ったら伝えておいて。――リーメに雨が戻ってきたわよ、って。わたしからだって言えば、通じるはずだから」


「うん、わかった。伝えておくね」


「よろしい。……さあ、そろそろ行きなさい。言っておくけど見送りなんてしないわよ。そういう柄じゃないもの」


 そう言って、アオは背を向けて毛づくろいを始めた。


◇◇◇


 まだ朝早いというのに、船着き場にはすでに大勢の人が集まっていた。


 何人もの町の人が一緒になって、ラギの荷馬車を川舟に載せている。


「ほら、積んだ積んだ! ミオちゃんも早く乗って! 荷馬車を載せた舟は重いから、明るいうちにできるだけ進んでおきたいんだ!」


「王都でも雨粒飴、流行らせてくれよなー!」


「気をつけてねー!」


 ラギの声に、見送りの人たちの声が重なった。


「はい、弁当!」


 そう言ってずっしり重い包みを渡してくれたのは、〈雨やどり〉のおかみさんだった。


「あの黒い猫さまの干し魚も入れといたからね。……この町はもう、あんたの町でもあるんだ。いつでも帰っておいで」


「……はい!」


 その隣では、リコのおじいさんが煙管をくわえたまま目を細めていた。


「嬢ちゃん。世界じゅうの猫さまに、よろしくな」


「うん。みんな起こしてくる!」


「おう、こりゃ頼もしいな。神殿も、雨の神のことも、わしらがちゃんと見ておく。じゃから、安心して行ってくるといい」


 おじいさんと熱い抱擁を交わしつつ、わたしは周囲の人垣に目を向ける。


 ヴァルドたちは昨日の朝にはすでに発っていたため、もうどこにも見当たらない。


 そんな中、人垣の外に――教会の人たちの中でただひとりこの町に残った、ギドの姿があった。


 ギドは見廻りの途中だったらしく、立ち止まってこちらに軽く頭を下げていた。


 わたしも、小さく頭を下げる。果たして、向こうからは見えていただろうか。


 おじいさんから離れて舟のほうを見やると、リコが舟のへさきにいるノワをギュッと抱きしめていた。


「クロちゃんも、元気でね」


「……く、苦しいのである」


 ……今のは伝えないほうがいいよね。せっかくの感動の別れが台無しになりそうだし。


 リコはノワを放すと、さっさと岸に戻ってしまい、腕を組んで口をとがらせていた。


 それでも彼女は、泣かずにまっすぐわたしを見やった。


「――ミオ! いってらっしゃい!」


 とても、元気な声だった。


 そしてそのまま、いつもの早口で続ける。


「ねえミオ、水を通じて声を届けられるんでしょ? だったら、声でも歌でも、なんでもいいから流してよ! あたいには聞こえないってわかってるけど……それでも毎日、水辺で待ってるからさ!」


「――っ、うん! わかった! 毎回届くかはわかんないけど、水場を見つけたら、必ず水に歌を乗せるよ」


「絶対だよ! ……あと、あたいのこと、王都の猫さまにもよろしく!」


「うん、自慢するよ! 世界でいちばんの舟のこぎ手だって!」


 指切りは、一昨日の夜にもう済ませてある。あとは、笑って手を振るだけだ。


 わたしは舟に乗り込んで、へさきにいるノワのそばに立った。


 やがて、舟が船着き場を離れ始める。


 リーメのみんなが一斉に手を振り、家々の戸口の鈴がチリンチリンと鳴り出す。


 舟のへさきで、ノワが胸を張って言った。


「――ゆくぞ、娘よ。旅はまだ、始まったばかりである」


 橋の上の子供たちが「クロちゃんが鳴いたー!」と笑い、さらに大きく手を振った。


 そんなたくさんの手に、わたしとラギが手を振り返しているうちに――。


 やがて、どの手も豆粒みたいに小さくなってしまった。


◇◇◇


 川をさかのぼるにつれて、リーメの町並みが少しずつ遠ざかっていく。


 見慣れたはずの〈雨やどり〉の白い暖簾もすっかり見えなくなり、鐘楼のてっぺんも次第に屋根の向こうへと隠れてしまった。


 初めてリーメに来たとき、この町に雨の匂いはなかった。鐘は湖の底に沈み、雨の神さまは眠ったまま。三百年ものあいだ、雨は降っていなかったのだ。


 そのときのことを思い出していると、次の瞬間――。


 ぽつりと、何かが頬に当たった。


 空を仰ぐと、小さな雨粒が落ちてくるのが見えた。


 きっと、今ごろは町のほうでまた騒ぎになっているに違いない。


 ――まあ、通り雨程度であれば、問題ないとは思いますが。


 ハクがアオを診て口にした言葉を思い出し、わたしはつい笑ってしまった。


 見送りはしないって言ってたくせに、アオったら。


 と、そのとき、水を伝って声が届いた。


『泣いてなんかないわよ。……これはただの雨なんだから』


 ……うん。知ってるよ、アオ。


「――いってきます!」


 振り返って、思いきり叫んだ。町にも、鐘楼にも、湖にいるアオにも届くように。


 すると、もう一粒、雨が鼻の頭に落ちてきた。


 それはきっと――いってらっしゃいの雨だ。


 ノワも濡れた鼻先を空へと向けて、ぼそっとつぶやいた。


「……あやつの雨である」


「うん」


「……悪くない見送りである」


 わたしの胸元では、おばあちゃんの鈴が揺れていた。


 荷物には手帳と干し魚、それからおかみさんの弁当が、大事に仕舞ってある。


 次の行き先でも猫を起こして、その次の行き先でも猫を起こす。そうして世界じゅうを全部回ることができたなら、いつか――。


 ――この世界が猫でいっぱいになりますように。


 おばあちゃんは、毎朝祠を磨きながら、きっとそんなことを願っていたんだと思う。


 そして今、わたしも同じことを、心から願っていた。


◇◇◇


 ――それから、幾日も過ぎたころ。


 いくつもの川と町を越えた先、灰の教会の大聖堂で、一通の手紙が開かれた。


 読み進めていた指が、ある言葉の上で止まる。


 ――《猫語り》。


◇◇◇


 そして同じころ。遠く離れた村のはずれで、苔むした小さな祠の丸い扉が、音もなく指一本ぶんだけ開いた。


 その奥で、何かがゆっくり寝返りを打った。

今話で第一部は完結となります。ここまでお読み頂き、ありがとうございます。

第二部は10/30(金)から、水・金・日の週3回、朝6:40頃に更新していきます。

これからもどうぞよろしくお願いします。

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