第91話 司祭さまの置き土産
翌朝、広場の掲示板にはこんな紙が一枚、新しく貼り出されていた。
――灰の教会リーメ教会堂の者一同、明朝の舟にてこの町を発ちます。
今朝早くに貼られたらしく、貼り紙の前には人だかりができていた。
「……教会の人たち、帰っちゃうのか」
「まあ、無事雨も降ったことだしなあ」
足元で、ノワがヒゲを揺らしながら言った。
「告知を出すのが好きな連中であるな。ただ単に帰るだけだというのに、わざわざこのような紙を貼るとは」
「はは……それにしても、本当に帰っちゃうんだね、あの人たち」
それから〈雨やどり〉の前を通りかかると、おかみさんが腕組みをして、掲示板のほうをにらんでいた。
「あの白い司祭さま、帰るんだってね。最後にうちの汁の一杯でも食わせてやりたかったよ。三百年ぶりの雨の味を覚えて帰りな、ってさ」
怒っているみたいな言い方だけれど、本当は全然怒っていないのはすぐにわかった。
この町の人たちは、そういう人ばかりなのだ。
◇◇◇
昼下がり、わたしは船着き場へと足を向けた。
教会の人たちとは関わらない――ずっとそう決めてきたけれど、あの晩、雨が降る空に向かって頭を下げるヴァルドを見てからというもの、本当にこのままでいいのかという思いが頭から離れずにいた。
だからわたしは今日、思い切って一歩を踏み出すことにしたのだ。ノワは、特に止めようとはしてこなかった。
船着き場では、灰色の外套の人たちが木箱を舟に運び込んでいる。
その列の奥に、白い外套をまとったヴァルドがいた。
「……雨の神さまの、あの子だ」
近くにいた見物人のひとりが、わたしに気づいてささやく。
その声が聞こえたのか、ヴァルドもこちらを向いた。
目が合ったので、わたしは人垣から一歩前に出る。
するとヴァルドも舟のそばを離れ、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「――ご機嫌よう」
こんなに近くで話すのは、湖の水抜きの前に橋の上で呼び止められたあの朝以来だ。
「先日は良い雨が降りましたね」
「……はい。とても」
「この町は、良い水に恵まれ、心地の良い鈴の音にも包まれて……本当に、良い町です」
まるで世間話をするような口調だったけれど、その表情はどこか真剣だった。
「司祭さまは、明日にはこの町を離れるんですよね?」
「ええ。私にも務めがありますので」
ヴァルドは湖へ目を向け、しばらく水面を眺めていた。
そして再びこちらを向くと、静かに続けた。
「――この町は、私の手に余ります。あとはもう、ありのままを本部へ報告することにします」
「ありのまま、って……」
「見聞きしたことをそのまま伝える、ということです」
その言葉を聞いて、背筋が冷えた。
――ヴァルドより上の人たちは、その報告を聞いて、どう思うだろうか。
今から報告を止めるのは、無理だろう。ならばせめて、これだけは聞いておかなければならない。
「雨が降ったあの晩……司祭さまは、誰に向かって祈っていたんですか?」
ヴァルドは一度だけまばたきをしてから、いつもの穏やかな声で答えた。
「祈りというものに、宛先などありませんよ」
答えになっているような、なっていないような……。
もう少し詳しく話を聞けないかと考えていると、突然、人垣から小さな子供が駆け出してきた。
その子供はヴァルドの前で立ち止まると、握っていた手を勢いよく差し出した。
「あげる! アオさま色の飴!」
手のひらにあったのは、空色の雨粒飴だった。「アオさま色」とは、雨上がりの空の色のことで、いつの間にか子供たちがそう呼ぶようになったのだ。
ヴァルドは子供の前にかがんで、両手で飴を受け取った。
「……頂戴いたします」
飴が白い袖に仕舞われるのを見て、子供は満足そうに走っていった。
子供に飴をあげるヴァルドは何度も見てきたけれど、もらうところを見るのは初めてだ。
ヴァルドはわたしに軽く頭を下げてから、元の場所へ戻ろうとして――。
途中でふと、足を止めた。
「――鈴は、大事になさい」
その言葉を聞くのは、これで何度目だろう。今回もいつもどおりの穏やかな声で、忠告なのか励ましなのか、やっぱりわからないままだった。
ヴァルドは白い袖にそっと手を添えてみせると、そのまま荷物を運ぶ人たちのもとへ戻っていった。
そして、ある人物の前で立ち止まる。
灰色の外套を着たその人物は――ギドだった。
少し離れていたけれど、彼らの声はわたしの耳にもはっきりと届いた。
「――あなたは残りなさい。この町の音を、その耳に焼き付けるのです」
ギドは背筋を伸ばして、「はい」と答えていた。
その返事には、迷いがなかった。命じられるまでもなく、最初から自分でそう決めていたのだろう。
ヴァルドが次の荷へ視線を移すと、ギドも見廻りに戻っていった。
◇◇◇
帰り道、ノワが珍しく自分から口を開いた。
「……娘よ」
「ん? なあに?」
「あの男――結局最後まで何も求めてこなかったな」
「……うん、そうだね」
ノワは、船着き場を振り返った。
「果たしてあの者が、上に何と報告するのか……吾輩にも、まったく読めぬのである」
ノワもわたしと同じで、ヴァルドのことは結局何もわからずじまいだった。
わたしたちはモヤモヤした気持ちを抱えたまま、リコの家へ歩いた。
◇◇◇
その夜、わたしはリコの家にある板の間で、おばあちゃんの手帳を広げた。
次にどこへ向かうか、そろそろ決めなくちゃ。
手帳の地図には、はじまりの七猫の居場所を示す七つの印がある。ひとつはここリーメで、残りの六つはどれもここからは遠い。いちばん近いのは……川をずっとさかのぼった先の印だった。
「……王都だ。王都グランセル」
声に出すと、ラギが真っ先に身を乗り出してきた。
「王都!? ミオちゃん知ってるかい? あそこには大市場があるんだ。……そうだ、雨粒飴! アオさま色の雨粒飴、あれ絶対に王都でバカ売れするよ」
「えぇ……もう商売の話?」
「い、いやだなあ、そんなんじゃなくて……そう、旅の路銀の話だよ! まだ先は長いんだし、蓄えは必要でしょ?」
リコは地図に描かれた川を指で辿り、王都の印の場所で止めた。
「ふうん。……遠いんだね」
少し寂しそうな声だったけれど、すぐに顔を上げていつもの明るい調子で言った。
「王都にも、猫っているの?」
「たぶん――ううん、きっといるよ。だから、これから起こしに行かなくちゃ」
すると、リコは小指をスッと差し出してきた。
「あたい、今度ミオと会ったときは、王都の話を飽きるまで聞かせてもらうからね! 約束だよ、指切り!」
「――っ、うん! 指切り!」
わたしたちは、小指を絡めて、いつかまた会うことを約束する。
夜が更けてリコとラギが寝床に戻ると、板の間にはわたしとノワだけが残った。
と、そのとき、手帳に記された王都の印――その脇に、何やら走り書きがしてあるのを見つける。でも、水に濡れてしまったのか字がかすれていて、ほとんど読めない。
「ノワ、これ読める?」
「猫は、人の字は読まん主義である」
「読めないんだ?」
「読まん主義である、と言った」
そう言いながら、ノワは手帳に鼻先を寄せ、王都の印を見て――月色の瞳をわずかに細めた。
「王都……あの騒がしい町か」
「知ってるの?」
「猫の王が、この国の都も知らんでどうする」
ノワはヒゲを得意げに揺らしてみせる。
「出立は明後日である。旅立ちには干し魚を多めに――である。忘れるでないぞ」
「何それ、初めて聞いたんだけど」
「今考えたのである」
わたしはやれやれとため息をつきながら、手帳を閉じて荷物のいちばん上に仕舞った。
――そういえば、アオにずっと言いそびれていたことがあるんだった。
旅立つ前に、ちゃんと伝えなくちゃ。




