第90話 泣きながら、祈りながら
夜の湖は、昨夜と同じ場所とは思えないほど静まり返っていた。
お祭りのあとの町はすっかり寝静まっていて、聞こえるのは水路を流れる水の音だけ。家々の戸口の鈴たちも、今は大人しく眠っている。
わたしはリコの家をそっと抜け出して、船着き場までの道を歩いていく。隣では、ノワが何も言わずについてきてくれていた。今夜アオから呼ばれることは、最初からわかっていたらしい。
船着き場の板の端に腰を下ろすと、足のつま先のすぐ下まで水位が上がっていた。昨夜雨が降ったことで、湖はひと晩のうちにたっぷりと水をたたえている。
その満ちた水の上、月の光の中で、銀灰色の猫がこちらを見ていた。
「来たわね」
「アオ……いよいよ、見せてくれるんだね」
「ええ。やっと、雨を降らせることができたしね」
アオはいつもの調子でそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「ミオ。鈴を鳴らして、あの子の声を聴いてみなさい」
「あの子って……雨を呼ぶ鐘?」
「そうよ。わたしが雨を降らせたことで、あの子はついに力をすべて取り戻したの。そしてあなたはこのひと月で、あの子の声を聴く稽古を重ねてきた。今のあなたなら、あの子の声――その奥に秘められた想いまで、聴くことができるはずよ」
「力をすべて……雨が降ってからじゃないと見せられないっていうのは、そういうことだったんだ?」
アオが、こくりとうなずく。
「……でも、夜は力を使わない約束じゃなかったっけ?」
「今夜だけは特別よ。あの子が力を取り戻した今なら、あなたの負担はずっと軽いはずだもの。……それでも、少しでもおかしいと思ったら、すぐにやめなさい」
隣でノワが、黙って短くしっぽを振った。今夜だけは許す、という合図に見えた。
わたしはアオにうなずき返すと、言われたとおり、目を閉じて胸元の鈴を鳴らした。
チリン。
鈴の音が水に乗って、鐘楼のほうへと流れていく。
――ゴオン。
昨夜、お祭りの喧騒の中で聞いたときよりも、さらに太くて確かな反応が返ってきた。
そして、これまではその反応を聴いた時点で終わりだったけれど……今夜は、その低い音の奥底に、また別の音が潜んでいるのを見つけた。
水の音と、綱がきしむ音と、布のこすれる音。そして、その向こうから――。
人の声が、聞こえてきた。
ひとりではなく、何人もの人が低い声で、何度も何度も同じ言葉を繰り返している。何を言っているのかは聞き取れない。
でもそれが――祈りの言葉だということは、直感的に理解できた。
その祈りの声に、また別の声がいくつも混ざっている。
……泣いている声だ。声を押し殺して、それでもこらえきれずに、何人もの人が声を上げて泣いていた。
恨みや怒りといった感情は、その中にはひとつも感じられない。
わたしは、そっと目を開けた。
いつの間にか頬が濡れていて、それが自分の涙だと理解するのに少し時間がかかった。
「……ちゃんと聴けたみたいね」
アオが静かに言った。
「今あなたが聴いたのは、三百年前にあの子が沈められたときの記憶。誰が、どんな想いであの子を湖に沈めたか――その、答えよ」
わたしは声が出せなくて、ただうなずくしかなかった。
「泣きながら、祈りながら、それはそれは丁寧に。鐘を布でくるんで、綱の結び目をいくつもいくつも確かめて。……湖に落としたんじゃなくて――そっと下ろしたのよ。壊れないように、傷まないように、ゆっくりとね」
アオの言葉を聞いて、鐘が水底から引き上げられたあの日に見た、あの古い跡のことを思い出す。
――布を当てて綱を掛けた、丁寧な跡。
そういえば、〈水底の町〉の神殿の扉にも、当て布がしてあったっけ。わたしはあの布を捨てることができず、今も一枚ずつ畳んで荷物の中に仕舞ってある。
神殿の扉を封じたのも、鐘を水底に下ろしたのも、どちらも同じ人たちの手によるものだったんだろうか。
「……アオは、そのときはまだ眠っていたはずだよね? どうして知ってるの?」
「眠っていても、水の音と祈りの声だけは届いていたのよ。あの子が水底に下ろされていくときの音も、ね。そう……ずっと、ずっと、聴いていたわ」
「……今の、泣いていた人たちって……」
「――教会の者たちよ。あの祈りの言葉を聞いてわかったの。もちろん、当時の、だけどね」
沈めたのが当時の教会の人たちだということは、前にアオから聞いている。
それでも、わたしは思わず息を呑んだ。
「……待って。教会は、猫を封じて回って、リーメの町の人たちから鈴を取り上げたりまでした人たちだよ。そんな人たちが、どうして……泣きながら」
「そうね。なんだかおかしいわね」
それは、誰を責めるでもなく、誰かを笑っているわけでもなく――ただ、達観しているような声だった。
「その涙の理由――ううん」
アオはゆっくりまばたきをして、言い直した。
「……ここから先は、あの子たち自身の話。わたしの口から言っちゃうのは、よくないわね」
決して意地悪でそんなことを言っているわけではないことはすぐにわかった。
アオのその言葉からは――誰かから預かっているものを、大切に抱えているような……そんな想いが伝わってくる。
「……アオはさ。鈴のことも、鐘のことも『あの子』って呼んでるよね」
「ええ」
「それだけじゃなく――当時の、教会の人たちのことまで」
「わたしから見れば、みんな幼い子供だもの。あのころのあの子たちも、今のあなたたちも、みんなみんな、ね」
アオは目を細めて、すっかり暗くなっている町並みのほうを見やった。
「あの子たちはあの子たちなりに、必死だったのよ。それだけは、言っておくわ」
わたしは一度うつむいてアオの言葉を噛みしめたあと――もうひとつだけ、聞いてみることにした。
「じゃあ、湖の入口の杭のことは? 古い杭に木を継ぎ足して打ち直してあった、あの一本。前は知らないって言ってたけど……あれもやっぱり、当時の教会の人たちが?」
「それは知らないわ。わたしが眠っているあいだのことだもの」
アオはあっさりと言った。
「けれど……それもきっと、あの子たちが関わっているんでしょうね」
わたしはそのときふと、三百年前にノワが国じゅうの猫に「眠れ」と伝えて回ったという話を思い出して、思わず隣にいるノワのほうをのぞき見た。
ノワは板の上に座ったまま何も言わず、月色の瞳だけをずっと湖の底のほうへ向けている。しっぽは、ピタリと静止したまま、微動だにしない。
猫たちがなぜ眠らなければならなかったのか――まだ、その理由を聞かせてもらっていない。追々話す、と言われてそれきりだ。
今のノワのしっぽを見る限り、その「いつか」というのは、少なくともまだ先の話なのだろう。
「――鐘の声はね」
アオが、前足をそろえ直しながら言った。
「いつだって、聴く子の成長に合わせて、その形を変えるの。だからあなたがこの先もまた少し成長したら、あの子はさらなる想いを伝えてくれるはずよ」
そして、銀灰色のしっぽが、水面をパシャンとひとつ叩いた。
「はい、今夜はここまで。……子供は寝る時間よ」
「わたし、子供じゃないよ。もう十五だし」
「三百年生きたわたしたちに比べれば、まだまだ赤ちゃんみたいなものじゃない」
それを言われると、もう何も言い返せなくなるからやめてほしい……。
なんてことを思いながら、わたしは立ち上がってアオに「おやすみ」と声をかけた。
アオは返事の代わりに、ヒゲを揺らしただけだった。
◇◇◇
帰り道、わたしはノワと並んで、何も言わず、ただずっと歩き続けていた。
頭の中では、同じ問いがぐるぐると回り続けていた。
――泣きながら、祈りながら、丁寧に。
「……なんで、そんなに」
小さな声で口に出してみても、その問いに答えてくれる声は、どこにもなかった。




