第89話 アオさまの目と、おんなじ色
目を覚ますと、戸口の外から水の音がしていた。
雨の音……ではなかった。
外をのぞいてみると、屋根のへりから落ちるしずくの音と、近くの水路をいつもより勢いよく流れる水の音とが重なったものだった。
戸を開け、上を仰ぎ見ると、空はきれいに晴れ上がっていた。
雨上がりの空は、一度洗ってから干したみたいに、隅々まで澄み渡っている。故郷の丘で見たあの色と同じ――ううん、あのときよりも、もっと深い青をしていた。
「……ミオ、見て」
先に外へ出ていたリコが、空を見上げたまま言った。
「空の色……アオさまの目と、おんなじ色だ」
「……うん。おんなじだね」
アオに名前をつけたとき、わたしが思い浮かべたのは、まさにこの空の色だった。
けれど本物の雨上がりの空を、この町で実際に目にするのは、今朝が初めてだ。
道のくぼみには水たまりができていて、朝早くから子供たちが代わる代わる飛び込んでは笑い声を上げている。
どの家も戸口の鈴はまだ濡れたままで、風が吹くたびに、昨夜の演奏の続きのように小さく鳴った。
◇◇◇
リコと一緒に水汲み場へ行くと、白い猫が石の縁に前足をそろえて座っていた。
その猫――ハクは、汲んだばかりの水に鼻を近づけてひとなめすると、しばらく目を閉じていた。
「おはよう、ハク。……どう? 何かおかしなところはない?」
「おはようございます、猫語りどの。――体調を崩した人は、ひとりもいないようですね」
ハクはそう言って、満足そうにヒゲを揺らした。
「町の人は皆、昨夜あれだけびしょ濡れになったというのに、今もピンピンしています。水の味も、いっそう良くなっていました。……本当に、良い雨が降りましたね。あとは降らせた張本人の体さえなんともなければ、何も言うことはないのですが」
その張本人である猫――アオは、どうせ今も湖の真ん中で、澄ました顔で毛づくろいでもしているのだろう。
ハクはわたしと一緒に船着き場まで歩いていくと、湖に向かって声をかけた。
「アオどの。診察のお時間です」
「あら、朝から口うるさい先生ね」
そうは言いながらも、アオは水の上をゆっくりと歩いてきて、船着き場のそばで止まった。
ハクはこの町に来た日と同じように、アオの毛並みから目の色、耳の傾き具合までを順番に見ていく。
「……ふむ。毛の艶もあり、目の色も澄んでいる。お体の調子は問題ないようですね」
「当たり前でしょう。わたしが降らせた雨で、わたし自身がどうにかなるわけないじゃない」
「それはそうですが、それでも――」
ハクは、姿勢を正して言った。
「あれだけの雨を降らせるのは、今後しばらくはお控えなさい。少なくとも、次の満月までは」
「……言われなくても、しばらく降らせるつもりなんてないわよ」
「そうですか。まあ、通り雨程度であれば、問題ないとは思いますが。……以上が、医者としての私の診立てになります」
アオのしっぽが水面を軽く打った。
「ねえミオ。ハクは、今なんて言ったの?」
リコが袖を引いて聞いてきたので、わたしは手短に通訳する。
「アオの体はなんともないんだって。でも、本格的な雨を降らせるのはしばらくだめで、通り雨くらいなら問題ないんだとか」
「そ、そっかあ……アオさまがなんともなくてよかったぁ……」
リコが胸をなで下ろしたのを見て、アオは「大げさな子ね」とでも言うように目を細めた。
◇◇◇
その日の昼前、ハクは町のはずれにある、川の水が湖へ流れ込んでくる場所まで、わたしたちとウルカの親子を連れてきた。
そこで水をひとなめして、ハクは静かに言った。
「川上に降った雨が、ちょうどこちらまで流れ着いてきたようですね」
「ちゃんと向こうでも降ったんだね、よかった。でも、もうここまで流れてきたんだ?」
雨雲は川をさかのぼる――アオはそう言っていた。ハクの舌のおかげで、それが今、証明されたのだ。
わたしがそのことを伝えると、ガルドさんは腕を組んで、にやりと笑った。
「そうか。なら、帰ったら村の連中に話してやらなきゃいけねぇな。三百年ぶりに降った本格的な雨を、俺たちは真下で浴びてきたんだぞ、ってな」
「みんなに自慢しなきゃね、お父さん」
「ああ、もちろんだ」
そのガルドさんの隣で、ラギがふと思い出したように言った。
「そういえばミオちゃん。〈湖畔市〉の道の先……湖からいちばん遠く離れたところにある畑の辺り、見た?」
「? ううん、まだだけど」
「うろ覚えなんだけどさ。あの辺の麦、前は色が薄かったのに、今朝は心なしか緑が濃くなってる気がしたんだよね」
ラギの言葉を聞いて、この町に来た日に確かめた、あることを思い出す。
――《白蝕》は、水辺を避ける。
雨が降るということは、それだけ水辺が広がる。水辺が広がれば、その分だけ《白蝕》は外へ押しのけられる――と、いうことなんだろうか。
あくまで、わたしの推測に過ぎないけれど。
ひとまず、ラギの話は頭の片隅に置いておくことにした。
◇◇◇
午後になって、ウルカの舟が船着き場を離れることになった。
「サヨちゃん、これ、お土産」
ラギが差し出したのは、〈湖畔市〉の鈴屋さんの小さな鈴だった。
「〈湖畔市〉の店主一同からだよ。帰ったらたくさん鳴らしてあげて」
「わあ! ありがとう!」
サヨちゃんは鈴を両手で握りしめると、わたしに向かってきっぱりと言った。
「あたし、ウルカに帰ったら毎日鳴らすからね。いつでもお姉ちゃんが聴けるようにしておく!」
「サヨちゃん……」
「お姉ちゃんも、またウルカに遊びに来てね。白沢さまと一緒に待ってるから!」
「――うん! きっとまた寄るよ!」
サヨちゃんはわたしやリコと抱き合って、それから名残惜しそうに、いつまでも手を振り合った。
最後に舟へ乗り込もうとしていたハクが、直前で足を止め、船着き場の板の上でノワのほうを見やった。
「王さま。毛づくろいは、しっかりなさってくださいね」
「しつこい。余計な世話である。……帰ったら、お前もウルカの見張りをしっかりやるのだぞ」
「言われるまでもありません」
それからハクは、湖のほうへ向き直った。
「アオどの。今朝も言いましたが、本格的な雨を降らせるのは、しばらく控えてくださいね」
「わかったわよ。ほんとに口うるさい先生ね」
アオのしっぽが、水面をパシャンと打った。それが照れ隠しだということは、ハクも気づいているようだった。
最後に、ハクはわたしのほうを向いた。
「猫語りどの。ひとつ、お耳に入れておきたいことがあります」
「え、なに?」
「ウルカを発つ前のことです。川上から下ってきた渡し守が、妙な話をしていました。なんでも、ウルカよりさらに川上の村で、祠の前に子供たちが集まって、何かを待っているのだとか」
――祠の前に、子供たちが……?
「それが何なのかは、私にもわかりません。ですが……猫語りどの。これはどうやら、あなたのお仕事のようですよ」
ハクはそう言い残すと、舟のへさきへ飛び乗り、きちんと前足をそろえて座った。
やがて、舟は船着き場を離れていく。
へさきの白い猫は、来たときと同じ姿勢で、まっすぐ川上を見つめたまま、あっという間に小さくなっていった。
◇◇◇
その日の夜、寝床に入ろうとしていたわたしの中に、湖の水を伝って声が届いた。
『――ミオ』
アオの声だった。
『約束の続きよ。雨も降らせたことだし――やっと、見せてあげられるわ』




