第88話 アオさまの雨だ!
――空が、ほどけた。
それまでぽつぽつと落ちていた雨粒が、次の瞬間には数え切れないほどの数になって、まっすぐに降ってきた。
ザアッという音が湖の上を丸ごと覆い、船着き場の板や岸の岩を叩く音がそこへ重なる。水面には無数の小さな輪が生まれては消え、月の光の中で湖全体が細かく踊っているように見えた。
わたしの髪も外套も、あっという間にぐっしょり濡れていった。
でも、誰もその場から離れようとはしなかった。
屋台の下に駆け込む人も、頭を抱えて逃げる人もいない。みんなぽかんと口を開けて、空から落ちてくる雨をただ顔に受け止めていた。
――そして、誰かが笑った。
それはすぐに岸辺じゅうに広がり、雨の音よりも大きな笑い声になった。
「あはは、ミオ、見て! あたい、もうこんなにびしょびしょ!」
「わたしもだよ! 髪なんてもう、雑巾みたいに絞れそう!」
リコは両腕を空に突き上げて、水際でぐるぐると踊るように回っている。
少し離れた屋台のほうからは、ラギの悲鳴みたいな声も聞こえてきた。
「ミオちゃん! これじゃ雨粒飴が溶けちゃうよ!」
「じゃあもう、今日の分はみんなに配っちゃえば?」
「ええ、僕の商売……まあ、いいか!」
ラギが開き直るのを見て、わたしはさらに笑った。
水際に視線を戻すと、ひとしきり踊ったリコが、湖の真ん中へ向かって――。
空が割れんばかりの、大きな声を上げた。
「アオさまの雨だああああああ!」
その声は雨の音を突き抜けて、橋の上まで届き――。
「アオさまの雨ー!」
橋の子供たちが、口をそろえて叫び返す。サヨちゃんの声も、その中に混じって聞こえた。
「アオさまの雨だ!」
「アオさまの、雨だああ!」
声は橋から岸辺へ、さらに〈湖畔市〉の通りへと広がっていった。大人たちもお年寄りも、そろって同じ言葉を口にしている。
どうやらこの雨にはもう、名前がついてしまったらしい。
わたしはふと、人垣の真ん中に目をやる。
そこには、ずぶ濡れのまま立ちすくむ白い外套――ヴァルドの姿があった。
片手を少し上げて、何かを言おうとしているように見える。
手紙に書いた言葉のとおり、感謝を述べようとしているのだろうか。
けれどその口が開くより先に、いくつもの「アオさまの雨だ」という声が、波のように岸辺を覆っていった。
上がりかけた手が、ゆっくりと下ろされていく。
そのとき彼がどんな顔をしていたのかは、雨にさえぎられて見えなかった。
◇◇◇
「あんた」
わたしを呼ぶ声がして振り向くと、〈雨やどり〉のおかみさんが水際まで下りてきていた。
前掛けも髪も、わたしと同じくらい濡れている。
おかみさんは胸元に手を入れ、何かを取り出す。
その手に握られていたのは、小さくて古い鈴だった。紐には何度も結び直した跡があって、長い時間を大事にされてきたことがひと目でわかる。
「この子にいちばん相応しい日に鳴らす、って言ったろ」
「それって、町にちゃんと雨が戻った日、のことですよね? つまり――」
「そう。あんな通り雨じゃなくて、本物の雨が降った、まさに今日、このときのことさ」
おかみさんはそう言って、鈴を顔の高さまで持ち上げ――。
チリン。
辺りが激しい雨音に包まれていても、その音は、わたしの耳にはっきりと届いた。
「……ばあちゃん。雨だよ」
おかみさんは湖のほうを見たまま、小さな声で言った。
それからわたしのほうへ向き直り、いつものように笑った。
「約束を果たしてくれて、ありがとうね」
「……はい。あ、でも、雨を降らせたのはアオで――」
「わかってるよ。雨の神さまにもあとで礼を言うさ。けど、あたしが願いを託したのは、他ならぬあんただからね」
そんな風に言われたら、わたしにはもう、何も言えない。
と、そのとき、すぐ横で別の鈴の音がした。
チリン。
おかみさんのものより少しだけ高い音。
音のほうを振り向くと、水際から数歩離れたところに、灰色の外套が立っていた。
――ギドだ。
袖から出した手に、町の人から贈られたあの新しい鈴が握られている。けれどよく見ると、紐だけは真新しい赤い紐に替えられていた。
ギドは人垣のほうには目もくれず、ただ湖だけを見ていた。
そして誰に言うともなく、ぽつりと言った。
「鈴の音は……忘れられそうに、ありません」
わたしは、息を呑んだ。
――結構。……鈴の音は、ちゃんと覚えられましたか?
あの日、教会堂の裏手の庭でヴァルドからギドに投げられた問いかけ。
わたしは水路からその様子を見ていたけれど、ギドがなんと答えたのかは、ずっとわからないままだった。
それが今、誰もいない湖に向かって、答えが口にされたのだ。
人垣の真ん中にいるあの白い外套には、たぶん届いていない。
もしかすると、届いたのは……わたしだけだったかもしれない。
わたしはギドのほうを見ないようにして、胸元の鈴を小さく一度だけ振った。
◇◇◇
「……あら」
湖の真ん中で、アオが耳をピクリと動かした。
もう、歌ってはいない。目を細めて、降ってくる雨をただ見上げている。
そしてその銀灰色の毛並みは、これだけの雨の中でも少しも濡れていなかった。
アオのしっぽが、水面をピシャッと叩く。
同時に、雨で満ちた湖の水を伝って、ひとつの声がわたしの中に響いた。
『――お姉さまの歌。ハルガからも、ちゃんと聴いておりましてよ、猫語りのお嬢さん』
おっとりとした、少し眠たげな、懐かしい声。
「……スズ!」
ハルガの祠で町のみんなの眠りを守っている、あの三毛猫の声だった。
アオは振り向かずに、ヒゲを揺らした。
「言ったでしょ。遠くでもう一匹、聴いてるって」
それから湖の水に向かって、少し意地の悪い声を投げかける。
「聴いているだけなんて、ずるいわよ。……まあ、あの子があくびでもしたら、ハルガの人間がみんな寝てしまうものね」
「あの寝坊助が、こんな夜に起きておるとは」
ノワが板の上で言った。
煤色の毛はすっかり雨を吸ってぺったりしており、その体はいつもの半分くらいの大きさに見える。
ふてくされた顔をしているのに、その目はさっきからずっと、空を見上げたままだった。
「ノワ、びしょびしょだね」
「……濡れてなどおらぬ」
「いや、どう見ても濡れてるじゃん……全身がぺったんこだよ」
「王は、濡れてなどおらぬのである」
その横で、ハクは長い毛を雨に打たれながら、平然と前足をそろえている。
「皆、ずいぶん濡れていますね。明日の朝、一人ひとり診て回りましょう」
「要らないわよ。わたしが降らせた雨なんだから」
アオが得意そうに言った。
◇◇◇
ゴォォーン……。
湖の向こうで、鐘がまた鳴った。
「ミオ、じいちゃんがまた鳴らした!」
「うん!」
鐘楼のてっぺんで、リコのおじいさんがもう一回鐘を打ったのだ。
雨の音にも負けない、大きな音だった。
その音に、町じゅうの鈴がいっせいに答えた。家々の戸口の鈴も、屋台の軒先の鈴も、子供たちの腰の鈴も、おかみさんの手の中の鈴も、ギドの手の中の赤い紐の鈴も。
そして雨が、その一つひとつの鈴を叩いて、鳴らしていく。
――全部返してもらおう。雨と、一緒に!
鈴狩りの日に、わたしがリコに言った言葉を思い出した。
もう、全部返してもらったんだ……雨と、一緒に。
わたしは空を見上げて目を閉じる。顔じゅうに当たる雨が冷たくて、笑ってしまうくらい気持ちがよかった。
そして次に目を開けたとき、人垣の切れ目から、白いものが見えた。
ヴァルドが、雨の中で深々と頭を下げていた。
町の人たちに向かってではない。鐘楼に向かってでもない。
その人は、雨の降ってくる空に向かって、長いあいだ頭を下げたままだった。
――それは、いったい誰に対してだったのか。




