第87話 空まで届け、猫の歌
ゴォォーン……。
それはわたしがこれまでに聞いたどんな音とも違っていた。
低くて太い音が、湖の上を渡ってくる。その音は船着き場の板を震わせながら、岸辺の人垣を抜けて町の屋根の上まで駆けていく。
町じゅうの誰もが声を上げることなく、音が町の端まで行き渡って夕暮れの空に溶けていくまで、ただ耳を澄ませていた。
「……これが本物の、鐘の音なんだ」
隣でリコがつぶやいた。
「すごい……こんなにすごいとは思ってなかった」
鐘を鐘楼に戻したら本物の音が聞ける――リコにそう話したあの日のことが、まるで昨日のことのように思い出される。
そして次の瞬間、岸辺の人垣が一斉に沸いた。
「鳴った!」
「鐘が鳴ったぞ!」
隣でリコも「じいちゃーん!」と、鐘楼に向かって両手を振っている。
歓声と拍手と、足を踏み鳴らす音がいっぺんに押し寄せてくる。稽古のときに〈湖畔市〉で聞いたどんな騒ぎよりも、何倍も大きい音の渦だった。
――わたしにとっては、ここからが本番だ。
わたしは胸元の鈴を握った。おばあちゃんから受け継いだ、古い雨乞いの鈴。
チリン。
鈴の音は、歓声の中であっさりと消えてしまったけれど、気にせず意識をお祭りの喧騒へと向ける。歓声も拍手も決して意識の外へ追い出そうとはせずに、聞こえるすべての音の、もっと奥へ……。
――ゴォン。
わたしにだけ聞こえる鐘の返事が、はっきりとこの耳に届いた。鐘楼のてっぺんで聞いたときよりも、さらにはっきりと聞こえた気がする。
「リコ、来た! 返事、聞こえた!」
「ほんとに!? この騒ぎの中で!?」
「うん、それはもうはっきりと。――鈴を三回、お願い!」
わたしが手を上げると、リコはもう鈴を構えていた。
チリン、チリン、チリン。
本番まで取っておいた、三回の合図だ。
最寄りの橋で旗が振られ、鈴が三回鳴る。そして次の橋でもまた、鈴が三回。合図は町の奥へ奥へと伝わっていき、しばらくしてから、今度は別の音になって戻ってきた。
町じゅうの戸口で、屋台の軒先で、子供たちの手元で、いっせいに鈴が鳴り始めたのだ。
――ちりん、ちりんと、鈴が呼ぶ。
まさにあの子守唄のとおりだと思った。
岸辺も橋も、〈湖畔市〉の通りも、どこもかしこも鈴の音でいっぱいだった。
「ミオ、まるで鈴の海だよ! 町じゅうが鈴になったみたい!」
「うん……うん!」
橋の上からは、サヨちゃんの大きな声も聞こえてくる。
「お姉ちゃーん! 鳴らしたよー!」
わたしは涙がこぼれそうになるのをこらえて、ノワを見た。
ノワは船着き場の板の上で麻布から全身を出しており、背筋を伸ばして座って、両耳をまっすぐ湖へ向けていた。騒ぎの真ん中にいるのに、少しも気を散らしていない。
「鐘と鈴と、この町の声が、すべてそろっておる。三百年ぶりに、すべての音が、ひとつになっておる」
「……ありがとう、ノワ。あとで、干し魚たくさんあげるね」
「当然の報酬である。……が、まあ、それは後でよい」
ノワは湖から耳を逸らさずに、そう答えた。
その横で、ハクが静かに言う。
「お膳立ては済んだようですね。……さて、あとは――」
二匹の視線が一斉に湖の真ん中へ向いたので、わたしもそちらを見やる。
東の空にのぼった満月が湖の真ん中に大きく映っていて、その月の光の上に、銀灰色の猫――アオが座っていた。
アオは町から聞こえてくる無数の鈴の音を、しばらく黙って聴いていた。耳をあちこちへ向けて、一つひとつの音を確かめているように見える。
それから水面に顔を寄せて、水をひとなめした。
その光景を見たハクが、満足そうに小さくうなずいている。
と、そのとき、アオがわたしのほうを向いて、力強く言い放った。
「ミオ! 聴いてなさい――わたしの、本気の歌を」
わたしは何も言わず、ただ一度、大きくうなずき返す。
アオがうれしそうにヒゲを揺らしたのが、遠くからでもわかった。
――湖の上で、銀灰色の猫が立ち上がる。
これまでの稽古では、アオはずっと座ったまま歌っていた。けれど今、その猫は湖の上に四本の足で立ち、まっすぐに空を見上げていた。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
これまで、何度も聞いた歌声。
でも、わたしにはそれが、まるで違う歌に聞こえた。
これまで湖にだけ届くように声を抑えていたからだろうか。
今この瞬間、空に向かって解き放たれた歌声は、紛れもなく、アオの本気の歌だった。
湖の波が一斉にそろい、水面に映った月からは揺らぎが消え、ひとつの丸い光になった。
辺りのすべてが止まったように感じられて……鈴の音だけが、歌に寄り添って漂っている。
空と湖が最も近くなる夜――アオが言っていた言葉の意味が、今になってようやくわかった気がした。
「ねえミオ……あんなアオさま、あたい、初めて見るかも」
「うん……わたしもだよ」
そのとき、空の高いところで何かが動く音がした。
実際に耳に届いた音だったのか、それともわたしの中に直接響いた音だったのかはわからない。ずっと高いところで、重たいものがゆっくりと向きを変えるような音だった。
わたしは息を止めて、空を見上げた。
ぽつり、と何かがわたしの頬に落ちて、冷たい感触を残していく。
続いてもうひとつ、ぽつり、とわたしの手の甲に落ち……それからリコの肩に、そして、船着き場の板にも落ちた。
「にゃっ」
突然の鳴き声に驚いて、わたしは咄嗟にノワのほうを見やった。
すると、その黒い鼻の先に、小さな水の粒がひとつ、ちょこんと乗っているのが見えた。
「ノワ、今『にゃっ』って言った?」
「言っておらぬ」
「言ったよ。最初の通り雨のときも、鼻に雨粒が当たって同じ声出してたよね?」
「ええい、思い出さんでよい!」
ノワは前足で鼻先をこすって、ぷいと顔をそむけた。
ハクがその横顔をちらりと見てから言う。
「せっかくですし、雨で体を洗ってはいかがですか、王さま」
「濡れるのは嫌である!」
「でも、毛づくろいの手間が省けますよ? 干し魚の匂いも、少しは落ちるかもしれません」
「それは吾輩の香りであると、何度言わせるのだ!」
そのやり取りにわたしはまた笑いそうになったけれど、隣のリコを見て、思わず息を呑んでしまった。
リコは、両手を空に向けて差し出していて――。
その小さな手のひらに、水の粒がひとつ、ふたつと落ちてくる。
「……ミオ」
「うん」
「雨だよね、これ」
「……うん。雨だよ、リコ」
リコがこれまでに見た雨は、どれもすぐにやんでしまう小さな通り雨だった。それでもリコは、初めて雨を見たとき、舟の上で小躍りしていたっけ。
でも今度の雨は、あのときとは違う。
数粒だった雨は、気がつけば数えきれないほどの粒になっていた。手の甲に、頬に、髪に。岸辺のあちこちからも、「あ」という小さな声がぽつぽつと上がり始めている。
アオの歌はまだ続いていて、わたしは耳を空へ向けた。
空のずっと向こうで、なにか大きなものがゆっくりとほどけていく音がする。
――来る。




