第86話 鐘と鐘楼の再会
お祭り前夜、リコは自宅の灯りの下で、鈴をいつまでも布で磨いていた。
「明日は、この子にもいっぱい聞かせるんだ。鐘の音も、アオさまの歌も」
「リコ、その鈴、十分ピカピカになったしもういいんじゃないの?」
「いいの。あたいの気が済むまで磨くの」
楽しそうなリコを眺めながら、わたしは昼間に〈雨やどり〉のおかみさんに会ったときのことを思い出す。
あのとき、おかみさんは鍋の火を落としながら、わたしの前で一度だけ胸元を押さえて、静かにこう言った。
「いよいよ明日だね……待っててね、もうすぐ、鳴らしてあげるから」
――リコもおかみさんも、そして他の町の人たちも……みんな、明日のお祭りを今か今かと待ちわびていた。
わたしはハクの言いつけどおり早めに毛布へもぐり、ぐっすりと眠った。
そして、もうすぐ夜が明けるというころ。
目を覚まして戸口へ出ると、空を見上げていたリコのおじいさんが、煙管をくわえたまま、ぽつりと言った。
「――祭りじゃ」
◇◇◇
朝の船着き場は、人でいっぱいだった。
鐘はすでに、水際の台座からイカダの上に移されている。
イカダには何本もの太い綱が結ばれ、綱の先はそれぞれ湖に浮かんだ舟につながっている。舟の数は二十を超えていた。
そしてイカダの前方の水面には、アオが座っていた。
「アオ、ほんとにもう歌っちゃうの? 夜まで我慢って言ってたのに」
「湖にしか歌声は届かないようにするから大丈夫よ。稽古のときと同じ」
アオはこちらを見ずに、しっぽをくるりと巻いた。
「ミオ、みんなに伝えて。あの子は――雨を呼ぶ鐘は、わたしが歌に乗せて連れていくから、舟で引っ張らなくてもいい、ってね」
「え、歌で鐘を……? そんなことできるの?」
「できるの。舟は横についていてくれるだけでいいから」
わたしが大声でそれを伝えると、まわりの舟に乗った人たちは戸惑いのあまり顔を見合わせていたけれど、それでもアオの言葉に納得してうなずいてくれた。
リコの舟には、わたしとノワが乗っている。ノワは麻布の中から顔だけ出して、憮然とした顔をしていた。
「吾輩は好きで舟に乗っているのではないぞ。鐘がちゃんと元の場所に帰れるかどうか、王として見届ける必要があるのでな。……そのためには水の上に出ることも、やぶさかではないのである」
「はいはい。怖くなったら、麻布にこもってていいからね」
水が大の苦手なノワが、文句を言いながらも自分から舟に乗るようになったのだから、大きな進歩だ。
わたしに言われたとおり麻布の中にいそいそと戻っていくノワに、船着き場からハクが声をかけた。
「私は陸でお待ちしています。……王さま、舟酔いにはお気をつけて」
「余計な世話である!」
アオは騒がしい二匹の猫を見てやれやれとため息をつくと、そのまま鐘楼のほうへと向き直る。
そして、歌が始まった。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
アオの歌声が、湖の上を渡っていく。
稽古のときと同じように、湖の波がひとつの向きにそろい始める。そして今日は、そろった波がそのまま鐘楼のほうへ流れていく。
その波に合わせて、イカダがゆっくりと動き出した。
「うそ……舟が……軽い!」
「何もしてねぇのに、舟が進んでるぞ!」
綱はたるんだままなのに、イカダはひとりでに鐘楼のほうへ滑っていく。舟はただ、その両脇について進むだけだった。
「ミオ、こうなったらあたいたちも歌おう!」
「うん!」
――水のお宿で、夢をみな。
わたしとリコの声に、岸のどこかからまた別の声が降ってきて重なる。
歌はすぐに橋の上の子供たちへ、船着き場へ、そして〈湖畔市〉の通りへと広がっていく。おばあちゃんの子守唄は、今では町じゅうの人が知っている。
鐘は町の歌に乗って、三百年ぶりに自分の家へ帰っていく。
「……やはりリーメは、いい町であるな」
麻布の中から、ノワが小さく言った。
わたしは返事の代わりに、麻布の上からしっぽの付け根をなでた。
ノワは怒ることなく、ただしっぽをピンと立てるのみだった。
◇◇◇
イカダは無事、鐘楼の根元へと到着した。
鐘楼には足場が組まれ、てっぺんの梁には新しい吊り具と大きな滑車がついている。
「綱を取れ! ……いいか、引くぞ!」
リコのおじいさんの号令で、何十本もの腕がいっせいに綱を引く。
鐘が、ふわりとイカダを離れた。
人の背丈をはるかに超える鐘が、壁に沿ってゆっくりと持ち上がっていく。
てっぺんの梁のすぐ下で鐘が止まり、足場の上の船大工たちがそれを吊り具に掛けていく。
「……固定できたか?」
おじいさんが上を見上げてつぶやく。
その問いに答えたのは――人ではなかった。
リコの舟から足場へ飛び移った黒い影が、するすると駆け上がり、細い梁の上を歩いていく。
「クロちゃん!? なにしてんの、落ちるよ!」
「ちょっとノワ、危ないよ!」
「猫の王に向かって『危ない』とは何事であるか、失礼な」
ノワは振り向きもせず鐘の隣まで歩いていき、吊り具の根元を前足で、とん、とん、と二回叩いた。
しばらく耳を立てて、音を聴く。
「……よし。安定しておるようだな」
わたしがその言葉を伝えると、おじいさんは大きく息を吐き、てっぺんに向かって深く頭を下げた。
「猫さまのお墨付きなら、間違いなかろう」
◇◇◇
鐘を無事固定できたところで、わたしも足場を登っててっぺんへと向かった。
鐘楼のてっぺんまで登るのは初めてだ。これまでは根元で、水面に向かって鈴を振っていただけだった。
鐘の表面には青緑色の錆と、布を当てて綱を掛けた古い跡が残っていて、水の中で過ごした三百年がそのまま刻まれているようだった。
わたしはその表面に、そっと手を当てる。
「……おかえり」
鐘は、ひんやりとしていた。
「やっと、帰ってこられたね」
胸元の鈴を、小さく一度だけ振る。
チリン。
――ゴォン。
わたしにだけ聞こえる、いつもの返事。今回は台座に置かれていたころよりも、ずっとはっきりと聞こえた。
あとは、本番を待つのみだ。ハクに言われたとおり、睡眠もしっかり取ったので、準備は万端だ。
ふと、鐘楼のてっぺんから下を見ると、町が丸ごと見渡せた。〈湖畔市〉の屋台に、橋の上の子供たちに、船着き場の人の群れ。
そしてその前に広がる岸辺――町なかの広場よりもずっと空が広く見渡せる、いちばん雨のよく当たる場所。
その岸辺のすぐそばの水の上で、銀灰色の猫がこちらを見上げているのが見えた。
◇◇◇
日が傾くころには、岸辺も船着き場も人で埋まっていた。
辺りを見回すと、〈雨やどり〉のおかみさんの大鍋の隣で教会が持ち寄った薪が燃えていて、飴屋の屋台に教会の白い飴と空色の雨粒飴が一緒に並んでいる。
ここでは、教会の人も町の人も、みんな同じお祭りのお客さんだ。
その人垣の真ん中に、白い外套がぽつんと立っているのが見えた。
その人はもちろん――ヴァルドだ。
まわりの人たちが笑って、食べて、動き回るなか、彼だけは身じろぎもせず、ただ湖を見つめている。そばの灰色の外套の人たちの腰にも手にも、贈ったはずの鈴は見当たらない。……みんな、袖の中に仕舞ってあるのだろうか。
「ミオ、鐘楼にじいちゃんがいるの、見える?」
「見えるよ。てっぺんの、あの影でしょ?」
ふたりで鐘楼のほうを見やると、その向こう側に広がる空には、丸い月がのぼり始めていた。
船着き場の板の上には、麻布にくるまった黒い猫と、きちんと座った白い猫。そして湖の真ん中、月の光の映る水の上には、銀灰色の猫。
わたしはリコと並んで、水際のいちばん前に立っていた。
「娘よ。そろそろ準備はよいか?」
「うん。いつでも」
鐘楼のてっぺんでは、小さな人影が鐘を打つための太い木の棒を両手で握っている。
誰ともなく、岸辺のざわめきが、ゆっくりと消えていく。
夕暮れの湖は、声をよく通す。
向こうの鐘楼から、おじいさんの声がまっすぐ届いた。
「……鳴らすぞ!」




