第85話 三匹の猫が並ぶとき
満月まで、あと三日。
今日はお祭りの前に、最後の稽古――稽古の総仕上げをする日だった。朝はアオが湖で、昼からはわたしと町のみんなが、それぞれ本番と同じやり方で通してみることになっている。
ハクはこの町に来てからというもの、毎朝アオの稽古を見に来ていた。お祭り当日にアオが万全の状態で臨めるようにしっかり診ておきたい、とハクのほうから申し出てくれたのだ。
今朝もリコの舟の先端には、ハクがきちんと前足をそろえて座っている。その後ろでは、ノワが麻布から顔だけを出していた。
「舟に猫が二匹、湖の上に一匹。なんだかすごい眺めだね、ミオ」
「うん。わたしもまだ慣れないよ」
リコの言うとおり、湖の真ん中ではアオがこちらに背を向けて座っている。
「アオさま、今日はなんだか機嫌よさそうだね」
「え、わかるの?」
「しっぽの振り方。あたい、毎日見てるからね」
言葉がわからなくても、リコはリコなりにちゃんと猫の様子を見ているらしい。
「アオ、いつでもいいよ」
わたしが声をかけると、アオは振り向かずに答えた。
「今日は、完璧に波をそろえてみせるわ。よく見ていてちょうだい」
しっぽがくるりと前足に巻きつく。
そしてアオは、静かに歌い始めた。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
アオのまわりの小さな波が、静かに同じ向きへとそろい始める。
ここまでは、今までの稽古と同じだ。けれど今日は、それだけでは終わらなかった。
輪が広がるように、そろった波が湖の外側に向かってどんどん伸びていき……やがて湖の水面全体が、ひとつの波と化して、ゆらゆらと動き始めた。
「……ミオ。舟が、揺れなくなった」
リコの言うとおりだった。いつもゆらゆらと揺れているはずのリコの舟が、まるで地面の上に置かれているみたいに、微動だにしていない。
水面に映った鐘楼の影も、まったく揺れていない。湖全体が大きなひとつの生き物になって、ゆっくりと息をしているようだった。
遠くの橋の上では、合図の鈴を鳴らす練習をしていた子供たちまでもが、いつの間にか声をひそめて湖を見つめている。
ノワは麻布から身を乗り出し、しばらく湖の様子をじっと眺めてから、ぽつりと言った。
「……悪くないのである」
ノワはそれだけ言って、また麻布の中へ戻っていった。
いつも偉そうなこの王さまが「悪くない」とまで言うのは、つまり、本当はすごく感心しているということだ。
それから程なくして、アオの歌が静かに終わりを迎える。
そろっていた波は糸がほどけるようにして、少しずつ元のばらばらな揺れに戻っていく。
アオは、いつものようにしっぽで水面を打つことなく、代わりにゆっくりとこちらを振り向いて、ヒゲを揺らした。
「――どうだった?」
「……すごかった。本当に、湖がひとつの波になってた」
「そう、よかった。ま、これがわたしの本当の実力よ」
そのとき、舟の先端でハクが身を伸ばし、水面に鼻を近づけてひとなめした。
「……アオどの。さすが、《雨》の《福》を司る猫ですね。お見事でした」
ハクはアオのことを、いつの間にか「アオどの」と呼ぶようになっていた。
「あら。お医者さまが、患者をおだてるようなことを言ってもいいのかしら?」
「医者である前に、私も一匹の猫ですから」
ハクはすまして答えてから、少しだけ声の調子を変えた。
「それで――お体の具合は?」
「平気よ。これくらいでへばるようなら、三百年も眠っていないわ」
「それは理屈になっていませんが……まあ、よろしい」
「で、あろうな」
ノワが麻布の中からひと言添える。
どういうつもりで「で、あろうな」と言ったのかはわからなかったけれど、三匹の中では、どうやらそれで話が通じたようだった。
◇◇◇
午後からは、わたしの番だった。
今日の〈湖畔市〉は、三日後のお祭りに向けて、これまででいちばん賑わっている。屋台の数も人の数も、初日の倍はありそうだった。
「ほんとに、こんな人混みの中で聞こえるの?」
「目をつぶればなんとか。でも、今日は目を開けたままやってみるね」
わたしはリコに自信を持って答えると、人混みの真ん中に立って、胸元の鈴を小さく振った。
チリン。
行き交う人々の話し声、荷車の軋む音、屋台の呼び声、子供たちの笑い声。それらの音をかき分けるようにして、もっと奥のほうを探っていく。
――ゴォン。
「うん、聞こえた!」
リコが「よっし!」と小さくこぶしを振った。
もう目を閉じなくても、鐘の声はちゃんと受け取れるようになった。お祭り当日は今日よりもさらに騒がしくなるだろうけれど、これなら大丈夫だと思えた。
と、そのとき、人混みの向こうに灰色の外套が見えた。
「あ、ギドだ」
「ほんとだ。……今日は〈湖畔市〉の中まで見に来てるんだね」
ギドは雨粒飴の屋台の前に立ち、銅貨を数枚置いて、空色の飴をひと掴み分受け取ると……そばで見ていた子供たちの手に、ひとつずつ配り始めた。
子供たちは最初だけ少し顔を見合わせたけれど、「鈴を返してくれた人だ」と誰かが言ったのを皮切りに、次々と手を差し出して飴を受け取り始めた。
ギドはそんな子供たちの様子を見て、少しだけ口元をゆるめた。
やがて買った飴をすべて配り終えると、今度は鈴屋さんの屋台の前まで歩いていく。
けれども、鈴を買うことはなかった。店主といくらか言葉を交わしたあと、一本の赤い紐だけ受け取って、袖の中へ仕舞った。
「紐? ねえミオ、あれ、何に使うんだろ?」
「……さあ?」
ギドはそのまま〈湖畔市〉の端まで歩いていき、いつものように、黙って町の音に耳を傾け始めた。
◇◇◇
夕方には、合図の鈴を鳴らす練習が通しで行われた。
お祭りの本番で使う合図はひとつだけ。鐘が鳴って、わたしが鐘の返事を聞き取れたら、鈴を三回――「町じゅうの鈴を鳴らして」の合図だ。実際に三回鳴らすのは本番まで取っておくと決めて、今日は一回で通してみることになっている。
「いくよ。じゃあ、一回鳴らして!」
船着き場でリコが鈴を一回鳴らすと、いちばん近い橋の子供が旗を振って、鈴を一回鳴らす。その音を聞いた次の橋の子供が、また一回。
そうやって合図は町の奥へと伝わっていき、しばらくして、町のいちばん端から子供の声が返ってきた。
「届いたぁー!」
声を張り上げているのは、サヨちゃんだった。いつの間にか、リーメの子供たちの中にすっかり溶け込んでいる。
「サヨ、声大きいなあ」
リコは感心した様子でそう言うと、湖のほうへと視線を移す。
その視線の先――水際の台座のそばには、鐘を載せて運ぶための大きなイカダが、もう組み上がっていた。
◇◇◇
日が暮れかけたころ、船着き場の板の上に、また例の光景が広がっていた。
黒い猫と白い猫が並んで座り、そのそばの湖の上に、銀灰色の猫が座っている。
「アオどの」
ハクが、湖のほうを向いたまま言った。
「本番では、歌う前に水をひとなめして、喉を潤しておくといいですよ」
「……医者って、ほんとに口うるさいのね」
「それも医者の仕事ですので」
「吾輩も前に同じことを言われたのである」
麻布の中からノワが言い、アオが「知ってるわ」と返す。
「猫語りどのも、ですよ」
ハクの琥珀色の瞳が、今度はわたしに向けられた。
「残りの三日は、とにかくよく眠ることです。寝不足では、《猫語り》の力も鈍ってしまいますよ」
「う……わかりました、先生」
三百年ぶりに顔をそろえた三匹は、こんな調子でこれからも付き合っていくらしい。そしてわたしも、どうやらその中に数えられているらしかった。
――満月まで、あと三日。




