第84話 白猫先生、水の都へ
それから二十日ほどのあいだ、稽古は毎日続いた。
アオは今ではほぼ完璧に波をそろえられるようになり、わたしのほうも〈湖畔市〉の人混みの中にいても鐘の反応をしっかり拾えるようになっていた。
町のみんなの準備も、着々と進んでいた。リコのおじいさんは船大工の人たちと一緒に、鐘楼の足場と吊り具の整備をすでに終えたという。
町の子供たちは毎日橋の上で合図の鈴を鳴らす練習をしているし、ラギや〈雨やどり〉のおかみさんも〈湖畔市〉を引き続き盛り上げてくれている。
そんな〈湖畔市〉の端では、ギドが毎日のように、町のみんなが奏でる賑やかな音に黙って耳を傾けていた。
満月の日まで、あと七日。
◇◇◇
その日の朝、川上から一隻の舟が到着した。
「お姉ちゃん!」
舟から真っ先に飛び降りてきたのは――なんと、あのサヨちゃんだった。
ウルカで会ったときよりも、少し背が伸びている。それでも、あの頃のままの勢いで抱きついてきた。
「サヨちゃん!? どうしてここに……!」
「えへへ、来ちゃった。お姉ちゃんがまた来てくれるのを待ってるつもりだったんだけど……」
そこまで言うとサヨちゃんは振り返り、舟の先端を指差す。
――そこには、白い猫が座っていた。
その猫は長い毛並みを風になびかせ、ゆっくりと船着き場を見渡している。
「もう一匹いる!!」
リコの声が船着き場に響き渡った。
「ミオ、見て! 白いの! 白い猫がいる!」
渡し守のおかしら――サヨちゃんのお父さんのガルドさんが、船着き場に舟をつなぎながら苦笑いした。
「このところ毎朝、白沢さまが渡し舟のへさきに座り込んじまってな。向こう岸に着けても降りねぇで、川下のほうをずっと睨んでにゃあにゃあ鳴くばかりときたもんだ。これはもう、川下へ連れてけってことだろうと思ってよ。……村の守り神さまの願いとあっちゃ、俺ぁ断れねぇ」
白沢さまと呼ばれた猫は、舟から船着き場へ軽く飛び移ると、まず足元の水に鼻を近づけた。
そして、水をひとなめ。
「ほう、水の都ですか。……ふむ。質のいい水ですね。鉛の匂いもありません」
他の人には、ただの鳴き声にしか聞こえない声。けれどわたしには、とても懐かしい声に聞こえた。
「――ハク、久しぶり」
「お久しぶりです、猫語りどの。お元気そうで何よりです」
「まさか本当に来てくれるなんて……ビックリしたよ」
「はて、ちゃんと申し上げたではないですか。見届けるだけではもったいない、と」
そう言いながら、ハクは丁寧に頭を下げ、そして麻布の山のほうへ目を向けた。
「――王さまもお久しぶりです」
「……ふん」
麻布の中から、ノワが顔だけ出して鼻を鳴らす。
「しっかり毛づくろいはされていますか、王さま」
「余計な世話であると、前にも言ったはずである」
「では失礼して」
ハクはスッと近づき、ノワの首のあたりの匂いをかいだ。
「……干し魚の匂いが強すぎます」
「それは吾輩の香りである!」
わたしはつい吹き出してしまった。ウルカで別れたときとまるっきり同じ、懐かしいやり取り。
リコもサヨちゃんも何を言っているのかはわからないはずなのに、二匹の様子を見ておかしそうに笑っている。言葉がわからずとも、猫というのはこうしてみんなを笑顔にできるのだから、なんとも不思議な生き物だ。
ひとしきり笑ってから、わたしはサヨちゃんとガルドさんに、この町で起きていることを話した。
七日後の満月の晩、三百年ぶりに本格的な雨がこの湖に降るということ。
そしてその雨雲は川をさかのぼって、ウルカにも届くということ。
ガルドさんは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「……三百年ぶりの雨、か。こっちの町じゃ、雨は年寄りの昔話にしか出てこねぇって聞いてたが、そいつぁ見ものだな」
「あたしも見たい! ね、いいでしょ?」
「村の舟の渡しは若い衆に任せてきた。白沢さまがそのために俺たちをこの町に連れてきたってんなら、断る理由もねぇやな」
「じゃあ、サヨも橋で鈴を鳴らす係やりなよ! あとであたいが教えてあげる!」
リコの申し出に、サヨちゃんは目を輝かせて何度もうなずいた。会ったばかりのふたりは、早くも友達になったようだった。
◇◇◇
ハクが来たことにいち早く気づいていたらしいアオは、落ち着いた様子で湖の上をゆっくりと歩いてきた。
そして船着き場のそばで立ち止まり、ハクをじっと見つめる。
ハクもアオの視線に応え……二匹はしばらくのあいだ、黙ってお互いを眺めていた。
「――お久しぶりでございます。今はウルカで、ハクと名乗っております」
先に口を開いたのは、ハクだった。
「お目覚めの気配は、川上の水にも届いておりました。三百年ぶりに目覚めた、リーメの《雨》。では失礼して、お体の調子を拝見――」
「勝手に触らないで。引っかくわよ」
「仕方ありませんね。ではこのまま目だけで失礼して……」
ハクは少しも動じずに、アオの毛並みから目の色、耳の向きまでを順番に見ていった。
「……三百年の眠りから覚めたばかりだというのに、広範囲にわたって本格的な雨を降らせるほどの力をお使いになるつもりですか。まったく、無茶をなさる」
「無茶かどうかは、実際に降らせてみないとわからないでしょう?」
「ひとまず、私の診立てを申し上げます」
ハクは姿勢を正して言った。
「一度きりの力の行使であれば、大丈夫でしょう。ただし、二度使おうというのであれば、私が止めます。間違いなくお体がもちません」
「誰が二度も降らせると言ったの」
「万が一に備えておくのも、私の仕事ですので」
アオのしっぽが水面を軽く打った。怒っている、というわけではないらしい。
「医者というのはこういうものである。慣れるしかあるまい」
麻布の中からノワが言い、アオは「知ってるわ」とだけ返した。
と、そのとき、ずっとそばで見ていたリコとサヨちゃんが、わたしの袖をぐいぐい引っ張ってきた。
「ねえミオ、今、何て言ってたの!?」
「えっと……ハクが、アオの体を診てくれてて。とりあえず今度雨を降らせるのは問題ないんだって」
へー、とリコたちが感嘆の声を上げていると、ちょうど荷揚げを終えたリコのおじいさんがやってきた。
そして見慣れない白い猫の存在に気づくなり足を止め、それから、その場に膝をついて深く頭を下げる。
「……猫さまが、もう一匹……」
「どうぞ、頭を上げてください」
ハクは困ったようにヒゲを揺らして言った。
「私は相手の調子を診ることくらいしかできない、ただの猫です。ありがたがられるようなものでは――猫語りどの、そう伝えていただけませんか」
わたしがそのまま伝えると、おじいさんは頭を上げて、それでもしばらく、ハクのことを拝むように見ていた。
◇◇◇
その日の夕方、船着き場には、見たことのない光景が広がっていた。
板の上に黒い猫と白い猫が並んで座り、そのすぐそばの湖の上に、銀灰色の猫が座っている。猫が三匹もそろったところを見るのは、わたしも初めてだった。
その三匹はというと、みんなそろって同じ方向を見ていた。
猫たちの視線の先にあるもの――それは、湖の向こうにそびえ立つ鐘楼の、てっぺん。
あと七日で、あそこに鐘が帰ることになっている。
「……ようやく、三匹か」
ノワがぽつりと言った。
三百年前、この世界からいっせいに消えた猫が、今、ここに三匹いる。
果たして今のノワの心境は、いかほどのものか。
「いいえ、四匹よ」
アオが、湖の向こうを見たまま言った。
「――遠くでもう一匹、聴いてるわ」
「え?」
わたしが聞き返しても、アオはそれ以上何も言わず、ただヒゲを揺らして笑っていた。




