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第83話 なんのために歌うのか

 二日目の稽古でも、アオは波を半分までしかそろえることができなかった。


 その日の夜、わたしはずっとアオのことが気がかりで、なかなか眠ることができずにいた。


 目を閉じれば、彼女が水面をしっぽで強く打ったときの音と、空を見上げていたその小さな背中が、交互に浮かんでくる。


 結局、空が白み始めたころになっても目は冴えたままだったので、そのまま寝床を飛び出し、ひとりで湖へと向かうことにした。


◇◇◇


 明け方の湖は、まだ灰色に覆われていて、どんよりとしている。


 船着き場に立つと、ずっと向こうのほうから、かすかな声が聞こえてきた。


 ――ねんね、ねんね、雨の子や。


 アオの声だった。


 誰もいない湖の真ん中でひとり、小さな声で歌っている。昨日の稽古のときよりも、ずっと静かな歌い方だった。


 このままじっと聞いているだけじゃ、何も始まらない。


 わたしは係留してあるリコの舟に乗り、ゆっくりと湖へ漕ぎ出した。


 近づいてくる舟に気づいたようで、アオは歌うのを止めた。


「……見てたの」


「聞いてた、のほうが正しいかも」


「盗み聞きとは、いい趣味してるじゃない」


 アオはそう言って、わたしから顔をそらした。


 話すことは何もない――と言いたいのだろうけれど、そうはいかない。


「ねえ、アオ」


 わたしは舟の縁に手をかけて、水の上に座る銀灰色の猫に言った。


「わたしに雨を降らせることはできないけど……でも、歌を聴くことは、できるよ」


 アオは何も言わなかった。


 しばらくして、しっぽの先がピクリと動き、それからぽつりと口を開いた。


「三百年前はね――」


 アオは湖の向こうを見たまま話し始める。その視線の先で、空の端がゆっくりと明るみ始めていた。


「降らせようと思って雨を降らせたことなんて、一度もなかったの。ただ歌いたくなったから歌って、その結果雨が降っていた……ただ、それだけのことだったのよ」


「そう……だったんだ」


「町の人たちが家の戸口で鈴を鳴らして、わたしの歌を待っていた。わたしはそれがうれしくて、歌っただけ。雨を降らせようなんて考えもしなかった。そんなこといちいち考えなくても、雨は降ったんだもの」


 アオの耳が、少しだけ後ろに倒れる。


「だからね、ミオ。ちゃんと雨を降らせようと思って歌うのは――これが、初めてなのよ」


 ――初めてなのよ……三百年ぶりに本格的な雨を降らせる、なんてことはね。


 わたしは、あのとき聞いた言葉の意味を、誤解していたらしい。あれは、長いあいだ雨を降らせていなかったから力がなまっている、という意味ではなく……自分の意思で雨を降らせたことがそれまでなかった、ということだったのだ。


 アオはずっと、知らない道を、ひとりで歩こうとしていたんだ。


「――じゃあ、昔みたいにすればいいんじゃないかな」


「昔みたいに?」


「町のみんなが歌を待ち望んでいたからアオは歌いたくなって、歌いたくて歌ってたら、その結果雨が降っただけ――って、今アオが言ったでしょ。だったら、これからも町の人たちの鈴の音を聞いて、歌いたくなったときに歌えばいいんじゃないかな」


 わたしは自分の胸元の鈴を、ぎゅっと握りしめた。


「正直ね、わたしもアオが苦しい思いをしながら歌ってるところは、見たくないかなって思う。アオには楽しそうに歌ってほしいから……だからわたしも、その想いを込めて、鈴を鳴らすよ」


 アオがゆっくりと、わたしのほうを向く。


 青い瞳が、朝の光を映して少しずつ色を取り戻していく。


「……言うようになったわね」


「そう?」


「ええ。本当に――生意気な子」


 そう言ってアオは立ち上がり、しっぽを一度大きく振った。


「よく聴いてなさい。わたしの、本気の歌を」


 そのしっぽはもう、稽古のときのように水面を乱暴に叩くことはなかった。


「……朝から騒がしいのである」


 いつの間に乗っていたのか、舟の後ろの麻布の山から、ノワが片目だけ開けてこちらを見ていた。


◇◇◇


 船着き場に戻る途中、アオがふと、湖に川が流れ込んでくる方角へ目をやった。


「ねえ、ミオ。これから降らせようとしている本格的な雨はね、この湖だけに降るものじゃないのよ」


「え、そうなの?」


「雨雲は川をさかのぼっていくの。川上の町にも、山にも。……あなたたちがこれまで通って来た道にも降るわよ」


 川上と聞いて、わたしの頭にウルカの村のことが浮かんだ。サヨちゃんと、サヨちゃんのお父さんと、それから――。


 白猫の、ハク。


 ハクは前に、水を通してこの町へ声を届けてくれた。そして「そちらだけの問題では済まないかもしれません」と言って、この町のことを、ずっと気にかけてくれていたっけ。


「……知らせたいな。次の満月の晩に、アオが雨を降らせて、それが川上にも届くよって」


「あら。いいじゃない」


 アオは少し意外そうな顔をしてから、ヒゲを揺らした。


「わたしはね、わたしを待ってくれている人が多いほど、歌いたくなるの。さっき、あなたが言っていたようにね」


「それはそうなんだけど……でも、今からウルカに手紙を出したとして、届くのに何日かかるか」


「水を使えばいいじゃない」


 アオは、わたしの胸元の鈴を目で示した。


「あの白いのが声を届けてきたなら、あなたからも届けられるはずよ。鈴の音に、言葉を乗せてごらんなさい。――まあ、届くかどうかはあの子次第でしょうけど」


 そうか、その手があったか! ……まだまだ《猫語り》としての自覚が足りていないのかもしれない。


 反省は後回しにして、早速やってみよう。


 わたしは舟の縁から水面に手を伸ばし、胸元の鈴を小さく鳴らしてみた。


 チリン。


 鈴の音を水に乗せるのは、〈深流域〉の鐘に呼びかけたときと同じ。流れに逆らわず、流れのままに。その音に、言葉を重ねていく。


 ――ハク。次の満月の晩、この町で三百年ぶりに本格的な雨が降ります。川上でも、雨を見届けてください。


 音は水に乗って、見えないところまで流れていった。


 手を引き上げると、体の奥から少しだけ力が抜ける感じがした。鐘に呼びかけたときと同じ、《猫語り》の力を使ったあとの、あの感じだ。


「……一気に顔色が悪くなったわね」


 アオはすぐにわたしの異変に気づいたようだった。


「無理はしちゃだめよ。三つの約束、忘れていないでしょうね」


「……覚えてる。無茶をしない、具合が悪くなったらすぐやめる、夜は使わない」


「よろしい」


 体を休めつつ返事を待ってみたものの、特に何も返ってくる様子はない。


「そんなすぐには来ないわよ。川上は遠いもの」


 アオはそう言って、鐘の台座のほうへ戻っていった。


◇◇◇


 ハクから返事が来たのは、その日の夕方だった。


 稽古を終えて船着き場に腰を下ろしていると、アオのしっぽが、ピシャッと水を叩いた。


 同時に、水の中を通ってきた声が、わたしの中に響いてくる。


『――見届けるだけだなんて、もったいないではないですか、猫語りどの』


 少し笑っているような、丁寧な声――間違いなく、ハクの声だった。


「……ちゃんと届いてたんだ」


 わたしが思わずつぶやくと、隣でノワがむくりと顔を上げた。


「待て、娘。今、何を聞いたのだ?」


「あ、ノワは寝てたっけ。えっと……今朝、アオが雨を降らせることをハクに知らせたの。そしたらちょうど今、『見届けるだけだなんて、もったいない』って返事があって」


「……来るつもりか、あの白いの」


 ノワのヒゲが、へにょりと下を向いた。


 アオはというと、ヒゲを揺らして楽しそうに笑っている。


「あら。お客さまが増えるのね」


 満月まで、あと二十六日。

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