第82話 アオの稽古
「わたし、明日から稽古を始めるわ」
その日の夕方、湖へ寄ったわたしに、アオは唐突にそう言った。
「アオが……稽古?」
「そう、わたしが稽古」
アオは前足をなめながら、当たり前のように続けた。
「ミオ。わたしもね、初めてなのよ……三百年ぶりに本格的な雨を降らせる、なんてことはね」
初めて――言われてみれば当たり前だ。そもそも三百年も眠りにつくなんてこと自体、生き物にとってはまずあり得ないことなんだから。
アオの言葉が、重く胸に落ちてくる。
彼女はずっと前からこの町にいて、雨のことなら何でも知っているのだから、わたしたちはただ支度を進めさえすればいいのだと、どこかで思い込んでいた気がする。
「それに、日取りもこれ以上動かせないの。あのおじいさんが満月の日を選んでくれて、ちょうどよかったわ」
「満月の日だと、何かいいことがあるの?」
「満月の日はね、水が月に、最も強く引っ張られる日なの。湖の水も――そして、空の水もね」
アオは空を見上げた。日が暮れかけた空には、まだ月は出ていない。
「満月の日は、空とこの湖が、お互いに最も近くなる夜なの。三百年分の雨を降らせるなら、その日しかないの。逃したら、次の満月までまたひと月。……さすがにそんなには、待てないでしょう?」
「……そう、だね」
アオはヒゲを揺らして笑ってから、不意に真面目な顔になった。
「ただ、ひとつ困ったことがあるのよ。本番まで雨の力をため込んでおく必要があるから、それまで雨は一滴も降らせちゃいけない。当然、鐘を鳴らしてもいけないし、空に向かって歌ってもいけない。――だから、歌の練習もできない以上、わたしが当日やることはほとんどぶっつけ本番になるの」
それは……確かに困るかもしれない。
わたしが言葉を探しているうちに、舟の上でノワがあくびをした。
「ならば、雨が降らないようにした状態で稽古をすればよいのである」
「降らないようにした状態で稽古?」
「姫が雨を降らせる際は、空の水に向かって、力を乗せた声を届けるのであろう。であれば、〈深流域〉の渦を抑えたときのように、湖の水にだけ届くよう加減しながら練習すればよい。歌で湖の波をきれいにそろえられるなら、本番でもきっと空の水に声を届けられるであろうよ」
アオがノワを横目でのぞき見た。
「……王さまにしては、まともなことを言うわね」
「だから王さま『にしては』、とはなんであるか!」
……二匹が相変わらず仲良さそうなのは置いておいて。
ともかくこうして、〈雨迎え〉に向けた稽古の形が決まった。
アオは歌で湖の波をそろえる稽古。
わたしはお祭りの日の騒ぎの中で、鐘が届けてくれるであろう小さな反応を聴き取る稽古。
ちなみにノワは、お祭りの日に鐘と鈴の音が、アオの歌声とちゃんとそろっているかどうかを聴き分ける係の担当となっている。また、鈴については、鐘の引き上げ時に使った町の合図網を、リコたちが中心になって引き続きやってくれることになっていた。
「この吾輩の耳を使うというのであれば、それ相応の報酬はいただくのである」
「はいはい。また干し魚をたくさんあげますよ」
◇◇◇
翌朝、早速アオの稽古が始まった。
アオが湖の真ん中まで出ていくと、何をするのかと町の人たちが船着き場に集まってきた。
「なーお」
「……えっと、みんな。アオが、稽古は見世物じゃないから、って」
わたしがそう伝えると、みんなは残念そうにしつつも、素直に引き下がってくれた。
今、アオのまわりにいるのは、リコの舟に乗ったわたしとノワだけ。ノワは麻布から顔を出して、両耳をピンと立てている。
アオが湖の真ん中で座り、しっぽを前足にくるりと巻くと――。
静かに、歌い始めた。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
わたしの耳にはれっきとした歌として聞こえるその声が、水面を渡っていく。
少しずつ、波の動きが変わり始める。
アオを中心にして、小さな波がゆっくりと同じ向きにそろっていく。
「……わあ」
その不思議な光景に、わたしは思わず声を上げた。
けれど、そろいかけた波は、途中でピタリと止まってしまった。
水面の一部が、バラバラの方向に揺れ続けている。
「半分、といったところか」
ノワが落ちついた調子で言った。
「半分は波がうまくそろったようだが、もう半分は見事にばらけておるようである」
アオは一旦歌うのを止めると、少し間を置いて、またもう一度歌い始めた。
ばらけていたもう半分の波をそろえようと意識したのか、確かにそちらの半分の波はちゃんとそろったが、今度は逆に最初の半分のほうがばらけてしまった。
一旦歌を止めては、また歌い始める――それを三度、四度と繰り返していく。
しかしどれだけ歌っても、波がそろうのはいつも半分だけで、湖全体がひとつの波になることはついになかった。
そして何度目かの歌の途中で、アオのしっぽが水面を強く打った。
パシャン、と大きな音がして、そろいかけていた波が全部バラバラに崩れる。
「……今日はもう、おしまい」
アオはそう言うと、こちらに背を向けて、湖の奥のほうへ歩いていってしまった。
何も言い訳せず、振り返りもしない。確かにいつものアオの態度だけれど……。
でも、しっぽの先をあんなに強く水に打ちつけるアオは、初めて見た気がする。
◇◇◇
午後からは、わたしが稽古をする番だった。
場所は〈湖畔市〉のど真ん中。〈雨迎え〉に向けて店の数も人の数も増えていて、今はちょうど昼過ぎのいちばん賑やかな時間だ。
「ほんとにここでやるの?」
リコが屋台の列を見回して言う。
「お祭りの日は、もっと騒がしくなるでしょ? だから、今のうちに慣れておかないと」
わたしは人混みの真ん中に立ち、胸元の鈴を小さく振った。
チリン。
鈴の音は、すぐに人の声に埋もれて消えてしまう。
鐘からの、返事を待つ。
……何も聞こえない。あちこちの屋台の呼び声と、子供たちの笑い声と、荷車の音ばかりが耳に届く。
「ダメだった?」
「うーん……もう一回!」
わたしは目を閉じて、あたりの騒がしい音の数々に耳を傾けた。
この〈湖畔市〉にあふれかえる音を意識から消すのではなく、あえてその音の中に、意識を向けるのだ。
チリン。
しばらくして――人々の声の中の、もっと奥のほうから。
――ゴォン。
小さいけれど、確かに鐘からの返事だった。台座の上で、鐘がわたしの鈴に応えてくれたのだ。
「聞こえた?」
「……うん。ちょっとだけ」
リコが自分のことみたいに嬉しそうな顔をした。
まだ、ちょっとだけ――でも、間違いなく聞こえた。
本番までに、この「ちょっと」をもっと大きくしなくちゃ!
◇◇◇
日が傾いたころ、わたしはもう一度、湖へ寄ってみた。
アオは、まだ湖の真ん中にいた。
歌ってはいない。ただ水の上に座って、暮れかけの空をじっと見上げている。
「……放っておけ」
舟の上から、ノワが低く言った。
「あれはあれなりに、ちゃんと考えておるのである。今はただ、本人に任せておくしかあるまい」
ノワの言うことももっともだと思い、わたしは声をかけず、ただ船着き場からその姿をじっと見ていた。
銀灰色の猫が、ひとりで空を見ている。
その背中が、いつもより小さく見えた。




