第96話 霧が晴れる朝
日が暮れると、子供たちは自分から家へ帰っていった。あの子たちにとって、もう祠の前で待ち続ける必要はなくなったということだろう。
村長さんは何も言わず、わたしたちのために納屋を開けてくれた。
ヒナはノワの背中に乗って眠った。ノワは迷惑そうに耳を伏せながらも、一度も振り落とそうとはしなかった。
――三百年前、どうしてこんな小さな子猫まで眠る必要があったの?
そう聞きたくて仕方がなかった。
でも、今の二匹を見ていると、何も言うことはできなかった。
◇◇◇
翌朝、納屋を出ても谷は白い霧の中だった。林檎畑も祠も、相変わらずぼんやりとしか見えない。
子供たちは早くも納屋の前に集まっていたけれど、昨日ほど元気がなかった。
「ヒナ、起きたのに……おひさま、出てきてくれないね」
そこへ村長さんもやってきて、白い空を見上げながら言った。
「子供らが言っとった。あれが猫だと。……こうして猫は出てきたというのに、日は差さんままか」
「それは……」
「わしも爺さまから猫の話は聞いとる。猫がおれば土地が良くなるんだとな。……だが、見ろ。何も変わっとらん」
わたしは何も答えられなかった。
トト村の畑は、ノワが力を使うとすぐに色を取り戻した。ハクのときも、目を覚ました次の日には村じゅうの病が治っていた。
でも、アオは違う。確かに目を覚ましてすぐに雨を降らせること自体はできたけど、あれはほんの短い雨だけだった。町に本格的な雨を降らせるまで、ふた月近くもかけて鈴の音や歌で少しずつ力を取り戻していったんだ。
猫が目覚めただけでは、その土地がすぐ変わるわけではないんだ。
当のヒナはというと、わたしの足元で辺りをキョロキョロ見回していた。
「おひさまのひかり、どこ? ヒナ、おひさまのひかりでねたい」
おひさまのひかり――ああ、日なたのことか。
「……ごめんね。今日はおひさまのひかり、ないみたい」
「きのうもなかった。おひさまのひかり、ずっとない……」
ヒナはしょんぼりして、わたしの足に体を寄せた。
「――娘よ。《福》は、猫が満ち足りてこそ土地に宿る。子猫ならなおさらである。よく寝て、食って、遊んで……だが、今のこやつが欲しがっておるものは――」
「……日なた」
「うむ。それが、この谷にはない」
わたしは白い空を見上げた。
ヒナが喜ぶ日なたを取り戻すには、《福》が要る。でも、その日なたがどこにもない。
――わたしにできることは……。
と、そのとき、ラギがわたしの顔をのぞき込んできた。
「ミオちゃん、何か考えてるね?」
「……うん。ちょっとだけ」
◇◇◇
わたしはノワとラギ、それに子供たちを伴って、川べりへと下りた。
――水の流れに、自分の力を預ける。
それは、リーメの湖でアオに教わったやり方だった。
力で無理に押し出すのではなく、自然の流れに音と想いを乗せる。ハクによれば、谷の霧は冷たい川から生まれるのだという。ならば、川の流れを借りて、霧を下流へ運べないだろうか。
わたしは川べりの石に膝をつき、鈴を取り出した。
「霧を、川下へ流してもらうの」
「……え?」
ラギの困惑する声を背中に聞きながら、鈴を鳴らし、その音を川の水にそっと乗せる。無理に押し出さず、流れに任せて谷の下へ……。
――けれど、霧は動かなかった。
まだ、足りないものがあるというのだろうか。
行き詰まったわたしは、何かにすがりつきたい思いで、足元でしょんぼりしているヒナを抱き上げて立ち上がった。
「ヒナ。おいで」
ヒナは抱っこされるのがうれしいようで、わたしの胸に鼻先を押しつけると、ごろごろと喉を鳴らし始めた。
さっきまで日なたがなくてあんなに落ち込んでいたのに、抱っこされただけでこんなにうれしそうにしてくれて……わたしのほうまで、胸の内がぽかぽかしてくる。
――そういえば昨日、祠の隙間から伸びてきたこの子の前足に触れたときにも、こんな温かさをくれたんだっけ。
そっか……足りないものって、ひょっとして――。
「ヒナ……その、ぽかぽかしたうれしい気持ち……わたしに少しだけ貸してくれる?」
そして、もう一度鈴を鳴らし、その音にヒナのごろごろを重ねて、川の流れに乗せた。
目を閉じていると、膝が少しふらついた。谷じゅうに力を届けるとなると、さすがに少しは消耗するらしい。
と、そのとき、ラギが後ろから肩を支えてくれた。
「……ミオちゃん。ねえ、見て」
ラギに言われて目を開けると――。
霧が、動いていた。
谷を覆っていた白い霧が、川と同じ向きにゆっくり流れていく。岩壁が見え始め、林檎畑の木々も一本ずつ姿を現した。
やがて谷の上に広がっていた白い空に切れ間ができ、そこから――日の光が差し込んだ。
林檎畑の斜面にも、祠の屋根にも、川べりの石にも……何日ぶりかわからない日の光が、谷じゅうに降り注いでいく。
「おひさまのひかり!」
ヒナがわたしの腕から飛び降り、川べりの大きな石へ駆けていった。
そしていちばん日の当たる場所でころんと横になり、前足を思いきり伸ばして目を閉じる。
「おひさまのひかり、ここにあった……」
ごろごろ、ごろごろ。
小さな体から、辺りに響くほど大きな喉の音が聞こえてきた。
「娘よ、考えたな。鈴の音を川の流れに乗せて、そこへこやつの――ヒナの満ち足りた想いを通すとは。ふむ、少しは認めてやってもよいのである」
ノワは、日なたに寝転ぶヒナを満足げに見つめながら言った。
「……ふふ。ありがと」
◇◇◇
程なくして、村の人たちが家から出てきた。
「おい……日の光だ。日が……差してる」
ひとり、またひとりと日の光の中へ出てきて、空を見上げる。それから林檎畑へ向かう人も現れ始めた。
林檎の実はまだ青かった。でも、《白蝕》で灰色になっていた葉の斑は、少しずつ薄くなり始めているようだった。
「……見ろ、葉っぱが」
「ああ。色が……戻ってきとる」
村長さんは畑の上まで登り、祠の前まで来ると、何も言わずに帽子を取った。
そんな光景をわたしの隣で眺めていたエマちゃんが、ぼそりと言った。
「……ヒナって、いい名前でしょ?」
「うん。本当に」
石の上では、ヒナがもう眠っていた。その隣には、いつの間にかノワが座っている。
「……悪くない日なたである」
「あれ、ノワも一緒に寝るの?」
「たわけ、王を何だと思っておる。王として、ヒナを見張ってやらねばならぬのである」
そう言いながらも、ノワはすっかり目を細めていた。
――これで終わりなら、めでたしめでたし、だったのに。
灰色の外套を着た人がひとり、谷の上から道を下りてきたせいで、せっかくの雰囲気が台無しになってしまった。
その人はわたしたちの前まで来ると、丁寧に頭を下げた。
「教会の者です。祠の封印に、参りました」
次回は11月8日(日)朝6:40頃に更新予定です。




