第9話 おやすみ、ハルガの町
「――今の音はなんだ! 礼拝堂の中か!?」
ふたつの足音が、まっすぐこっちへ向かってくる。
「に、逃げないと……! って階段からだと間違いなく見つかる……ああもうどうすれば!?」
ラギは混乱しながらも自分の商売道具だけは的確に回収している。
ノワですら身を低くして構えているが、もう一匹の猫――三毛猫のスズはのんびりと首をかしげるだけだった。
「あらあら。騒がしい夜ですこと……いけませんわねぇ、夜というのは――」
そして、すうっと息を吸って、優雅に言い放った。
「おやすみの時間、ですのよ」
ふわああ、と。
スズがそれはそれは大きなあくびをした。
石室の空気が、とろりと甘くなった気がした。まるで、あったかい毛布と日なたの匂いに全身が包み込まれているような感覚。
階段を駆け下りてきたふたりの教会の者は、途中でかくんと膝から崩れ落ちた。
「な、んだ……急に……ねむ……」
「み、見ろ……祠の前……ま、まだらの、獣が……」
「こら、寝るな……おれも、ねむ……」
ふたりはランタンを抱えたまま、階段の途中で丸くなり、すやすやと寝息を立て始めた。
「……えっ」
「あらぁ。ごめんなさいねぇ」
スズはぺろりと口の周りを舐めた。
「わたくしのあくびは、人々に《安眠》を授けますのよ」
「スズの《福》は健在のようだな。こやつの隣で夜更かしできた猫など、いまだかつて一匹もおらぬ」
ノワが半眼で言った。《安眠》の《福》。三毛猫スズの力を、わたしたちは身をもって知ることになった。ラギも教会の人たち同様に寝転がりそうになっていたが、頬をばちばち叩いて無理やり眠気を追い払っていた。
スズがラギへ顔を向け、ふわ、と短く鳴いた。
「あら、そちらのお兄さん、もしかして寝不足でしたの? それはごめんなさいね。あちらの方たちだけに《福》を授けたつもりだったのですけれど、睡眠が足りていないと《福》に巻き込まれやすくなりますのよ」
「えっと……寝不足の人はスズのあくびを聞くだけで眠くなっちゃうんだって。だから、巻き込んでごめんなさい、だって」
「はは……そりゃどうも。事が済んだら改めてお願いしたいね……」
投げやり気味に天を仰ぐラギであった。
◇◇◇
わたしたちはすぐさま礼拝堂を後にして、宿へと戻った。
荷物を部屋に置いてから建物の裏手に移動し、わたしは月明かりの下でスズとの正式な契約を交わした。
チリン。
「スズ……この町のみんなを、ぐっすり寝かせてあげて」
鈴の音とともに、手のひらからすうっと力が抜けていく。膝ががくんと崩れ落ちたものの、ノワがその小さな体でわたしを素早く支えてくれた。
「この短期間で二匹もの猫の力をその貧相な体で受け止めたのだ、無理もない。よくやったぞ、娘よ」
そして、わたしの願いを聞いたスズは、三毛模様の体に月の光を宿し、ふわりと輝きを放った。
――その夜、ハルガの町の人たちは、ひと月ぶりに朝までぐっすり眠ったという。
特に寝不足というわけではなかったわたしも、宿の固い寝台の上で、深くて心地のいい眠りにつくことができた。契約の儀でくたくたに疲れてた体に、スズの《福》はとてもよく沁みた。
◇◇◇
それから、町の様子は目に見えて変化していった。
まず、三日月亭のおかみさんの目からは、隈が綺麗さっぱり消えていた。
「ゆうべは夢すら見ずにとにかくぐっすり眠れてさぁ! あんなに寝れない日が続いたのに不思議なもんだねぇ。ほら、あんたの分、いっぱいパン焼いといたよ!」
さらに三日後――。
市場の果物屋さんは、あくびの代わりに鼻歌を歌うようになっていた。角で怒鳴り合っていたおじさんたちは、屋台で仲良く肩を並べて麦酒を飲んでいた。夜泣きしていたという赤ちゃんも、今や乳母車ですやすや眠っていた。
一匹の猫が目を覚ましただけで、町そのものが生まれ変わったようだった。
「ね、ノワ。見て、みんな笑ってる」
「うむ。存外、悪くない眺めである」
フードの内側に隠れた王さまも、まんざらでもなさそうに言った。
ただ、町が活気にあふれる一方で、広場ではちょっとした騒ぎが起きていた。教会の人たちが、台の上で声を張り上げている。
「静粛に! 町の安眠は教会の七日祈祷の功徳である! 皆、教会に感謝を――」
「祈祷なら十日も前からやってただろ」
人だかりの中で誰かがぼそりとそう言った。
「実際に眠れるようになったのは三日前からだったなぁ」
「三日前に誰かが礼拝堂の祠の封印を解いたからだって、水車小屋のじいさんが言ってたぞい」
「おいおい、礼拝堂の祠は呪いの巣なんじゃなかったのか? それで教会が鉛で封じたんだろ? それじゃ話が逆じゃないか」
どっ、と笑いが起きた。教会の人たちはみんなゆでだこみたいに顔が赤くなっていた。
「な、鉛を剥がした狼藉者は必ず見つけ出す! いいか、祠は呪いの――」
「いやあ、不思議なこともあるもんだなあ!」
ひときわ大きな声を上げたのは、人だかりの端にいたラギだった。それはあまりにも棒読みで、教会に怪しまれないか気が気じゃなかった。あとで文句を言わないと……。
◇◇◇
この町での目的は達成できたので、わたしとノワは教会に目をつけられる前に、明日には町を発つことにした。
日が暮れた後、わたしは礼拝堂の祠の上でちょこんと座るスズに尋ねた。
「スズは一緒に来ないの?」
「わたくしはここに残りますわ。猫にはそれぞれ守るべき場所がありますの。わたくしの《福》はここで――この町の皆の眠りを守るためのもの。それに……旅になんて出てしまったら――」
ふわ、とスズがあくびをする。
「――寝る時間がなくなってしまうではないですか」
「そっか……そっかあ」
ちょっとだけ湿っぽい声になってしまった。
寂しい。旅を進めていくと猫がどんどん増えていき、そのうちたくさんの猫に囲まれながら旅をすることになるのだろうと、なんとなく考えていた。でも、この旅は単純なものではないらしい。
でも、納得もしていた。この町はスズが守っているからこそこんなに元気なんだろうし、それは三百年も前からずっと続いていた関係なのだろう。そんなスズを、町から無理やり引き離すわけにはいかないのだ。
わたしは、最後にたっぷりスズのお腹の匂いを吸わせてもらえることになった。ふわふわで、お日様の匂いがする。この先の旅でも、こんな幸せな思いができるのかと思うと、俄然やる気が出てきた。
「猫語りのお嬢さん」
別れ際、スズはわたしの耳元でこっそり言った。
「王さまをよろしくねぇ。あの方、あのとおり強がりですけれど――ほんとうは誰より寂しがりですのよ」
◇◇◇
その頃。
町の教会では、ろうそくだけが灯る祭壇の前で、若い助祭ががたがたと震えていた。
報告を聞き終えても、司祭は祭壇に向かったまま振り返ろうともしなかった。長い巡礼から昨日戻ったばかりだというのに、疲れた様子は少しも感じられず、ただただ静かに何かを思案しているようだった。
「――祠の封印が解かれ、三色のまだら模様の毛に覆われた猫が現れた……ですか」
柔らかな声だった。
怒鳴られるよりも、その静けさのほうが、助祭にはずっと恐ろしく感じられた。
「至急、上へ文を出すように……三百年ぶりに《猫語り》が現れました、とね」




