第10話 さよなら、ハルガの町
朝、町の教会には、鈴を転がすような小鳥の声が響いていた。
司祭が、窓辺に降りたスズメへパンくずを撒いて与えている。その所作はとても静かで、優雅であった。
「ヴァルド司祭さま。その……此度の失態、なんとお詫びすれば――」
司祭ヴァルドは、背後で頭を垂れる助祭を振り返り、微笑んだ。
「顔を上げなさい。あなたのせいではありませんよ」
「で、ですが、封印は解かれ、挙句、狼藉者は取り逃がし……」
「ですから、それはあなたのせいではない。相手が悪かった、それだけのことです」
ヴァルドは祭壇の前に立ち、灰色の輪の紋章を見上げた。
「猫の声を聞く者――《猫語り》……なぜ今になって……」
「し、司祭さま。あの祠は、いったい何なのですか? 呪いの巣というのは――」
「あなたは知らなくてよろしい」
いつもと変わらない柔らかい声のはずなのに、助祭は氷水を浴びたように黙ってしまった。
「ひとつだけ覚えておきなさい」
ヴァルドは、スズメにもう一粒パンくずを与えた。
「祠は、決して解き放ってはならないものです。たとえ何があっても……。あなたはひとまず、祠の封印を解いたという旅人を捜しなさい」
そう言い残し、司祭は教会を後にした。
◇◇◇
出発の朝、わたしたちは三日月亭の前で、荷物の最終確認をしていた。
「よし、干し魚が六十本、毛布に握り飯に、そして地図……あれ、荷物が増えてる?」
わたしの荷物の横に、見慣れない木箱がひとつ積んである。首をかしげていると、ラギが荷馬車をガラガラ鳴らしながらやってきた。
「おはよう、ミオちゃん! いい旅立ちの日になりそうだね!」
「……ラギ? その荷馬車、あなたもどこかへ行くの?」
「南だよ。水の都リーメ」
「奇遇だね、わたしたちも――えっ?」
ラギは荷台をバンバン叩いて、胸を張った。
「僕、決めたんだ。君たちに投資する!」
「投資……?」
「だって、猫が目覚めただけで、町ひとつがこんなに景気良くなったんだよ? 商売が成功する場所を猫が教えてくれてるようなものじゃないか。こんなおいしい商売の種、放っておけるわけないでしょ」
早口でまくし立ててから、ラギはちょっとだけ声を落とした。
「……それにさ。町のみんなに笑顔が戻ったの、悪くなかったし。ああいうの、もっと見たいなって」
フードの内側で、ノワが低い声で鳴いた。
「ふん。手ごろな荷物持ちが増えたか」
「ラギ、よかったね。ノワがあなたを荷物持ちとして認めてくれたみたい」
「荷物持ちじゃなくて出資者ね! っていうか、ノワ様のために干し魚を六十本も持っていくんなら、僕の荷馬車がないと大変でしょ? 僕がいると助かると思うけどなぁ」
「ふむ、確かに……よかろう、行商人。お前には特別に、吾輩の隣に座る栄誉をやろう」
もう一度低い鳴き声がして、わたしはラギにその言葉を伝えてあげた。
「特別にノワの隣に座っていい、だって」
「おお、ありがとうございます、ノワ様」
そういえば、ラギがいつの間にか「ノワ様」と呼んでいる。ノワもまんざらではないらしく、しっぽがこれ以上ないくらい上機嫌に揺れていた。現金な王さまだな……。
◇◇◇
町の南門へ向かって大通りを進んでいると、白い外套をまとった中年の男の人とすれ違った。
見るからに物腰が柔らかそうなその人は、道端で子供たちに飴を配っていた。
なんとなく教会の人なんじゃないかと思い、わたしは目を伏せてそのまま通り過ぎようとした……のだが、敷石の段差につまずいてしまい、腰の鈴がチリンと鳴ってしまった。
「――おや」
男の人が、こちらに視線を向けた。
「可愛らしい音色ですね。旅のお守りですか?」
「は、はい。祖母の形見で」
「それは、それは。大事になさい。これから南へ向かわれるのですか?」
「え、ええと……はい。リーメのほうへ」
「ほう、そうですか。リーメは水がきれいで、とても良い町ですよ。それでは、良い旅を」
男の人はにこりと笑い、それきり視線を外して、再び子供たちに飴を配り始めた。
なんてことない立ち話だったはずだが、フードの中に隠れていたノワは、しばらく石みたいに固まったまま微動だにしなかった。
「……ノワ? どうかしたの?」
「――娘よ。今の男の匂いを覚えておけ」
「匂い?」
「灰と、香の匂いである。あれは……教会の幹部連中がまとう匂いだ」
◇◇◇
町の門には、おかみさんが焼きたてのパンを持って、見送りに来てくれていた。
「――あんたたちなんだろう? この町を救ってくれたのは」
ドキッとした。今回の一件にわたしたちが関与していることがバレたら、目覚めた猫の存在がいずれ教会に伝わってしまうかもしれない……。
「あ、いえ、あの、わたしたちは――」
「はは――そうだったね。あんたたちはただの旅人さん、だったね」
おかみさんはそれ以上追及することはせず、ただにっと笑いながらわたしのフードを直してくれた。
「――ここはいい町だったろう? また来ておくれよ、旅の人」
おかみさんにあたたかく送り出され、わたしは大きく手を振りながら、門をくぐった。
ふと視線を感じ、門の見張り台を見上げると――通りからは死角になる梁の上に、丸くなっているふわふわの三毛猫の姿があった。
「スズ! 見送りに来てくれたの?」
「ん……ふわ……あなたたちにはお世話になりましたしねぇ……」
相変わらず眠そうだったが、それでもわざわざ見送りに来てくれたのだと思うと、胸の奥がじんわりとあたたかくなってくる。
「行ってくるね、スズ。この町の人たちを、よろしくね」
「ええ。猫語りのお嬢さんと王さまも、水の都までお気をつけて」
スズは目を細め、それからひっそりと大事なことを教えてくれた。
「リーメの水のほとりには――わたくしたちの大切なお姉さまが眠っておりますのよ」
◇◇◇
荷馬車はガラガラと音を立てて、灰色の街道を南下していく。
後ろを振り返ると、ハルガの町はすっかり小さくなっていた。
御者台でラギの隣に座りながら、わたしはおばあちゃんの手帳を開いた。水の都リーメに、印がついている。そのページの余白には、癖のある懐かしい字でこう書き添えてある。
『七猫の一は水のほとりに眠る』
「はじまりの七猫の一匹目……スズの言ってた『お姉さま』のことだよね」
「であろうな」
わたしの膝の上で、ノワは目を閉じたまま答えた。
「……よりにもよって、あやつがリーメに眠っているとはな」
「よりにもよって、って……どんな猫なの?」
「会ってみればわかる。ただ……そうだな」
ノワは片目だけ開けて、欠けた左耳を前足でひとつ掻いた。
「この耳が欠けた原因の半分は、あやつの仕業である。なんともおてんばな姫でな」
「えっ、その耳って、他の猫にやられたんだ!? ……残りの半分は?」
「――三百年前のあの日……いや、その話はまた今度である」
それきり、王さまは寝たふりを決め込んでしまった。
でも、「また今度」と言ってくれたので、いつかは話してくれるということだ。それまで気長に待とう。
旅を始めて、早くも二匹目の猫が目覚めた。この調子で、あっという間に猫が増えていき、世界があったかくなっていくものだと、このときのわたしは呑気に考えていた。
――水の都で待つ「お姉さま」がとんでもない猫だと、このときはまだ知る由もなかった。




