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第11話 新たな猫の兆し

 ハルガの町を出て二日目。


 その日の朝は、車輪のきしむ音とラギの悲鳴で始まった。


「ノワ様! だからそれ、僕の商品なんだってば!」


 荷台の隅にきっちり積んであった毛織物の山のてっぺんで、ノワは前足を畳んで丸くなっていた。あまりにも堂々とした居住まいで、わたしにはそれがすごく自然な光景に見えた。


 ラギの懇願に、ノワは満足げに短く鳴いて答える。わたしには「うむ、良い毛織物である。王の座にふさわしい」と聞こえた。


「良い毛織物で、王の座にふさわしいんだって」


「ふさわしくても駄目なの! リーメで売る大事な反物――ああっ、毛が! 黒い毛がいっぱいついちゃった!」


「ラギ。猫はね、その場で一番いい寝床を見つける天才なんだって。ふかふかで、お日さまが当たって、揺れが少なくて――」


「猫の解説はいいから、早くノワ様をどけてよぉ!」


 ノワが「午後には娘の膝に移動するから安心するのである」と鳴く。


「午後にはどいてくれるんだって」


 しれっとわたしの意思が無視されている……まあいいけど。


 ちなみにノワを膝に乗せてあげると、しっぽの付け根を三十秒間、好きに撫でていいことになっている。そう考えると全然悪くない取引に思えてくる……猫の魅力にすっかり堕ちちゃってるな、わたし。


 ラギはというと、ノワの説得を諦める代わりに、売り物にならない毛織物の端切れを木箱に敷きつめて「特等席」をこしらえた。王さまは特等席に興味を示し、その上にぴょんと乗って検分するようにぐるぐる回ってから、ふん、とその場で丸くなった。特等席はちゃんと気に入ってくれたらしい。


「……最初からこうしておけばよかった」


 ラギのぼやきに、ノワが短く鳴いて答えた。


「これも立派な出資であるぞ、だってさ」


◇◇◇


 もうすぐお昼というところで、街道は大きく曲がって川岸へ近づき、そこからは流れに沿って続いていた。その大きな川は、南のリーメまで人と荷物を運ぶ大事な役割を担っているらしい。川の水面はきらきら輝いていて、久しぶりに「生きている色」を見た気がした。


 その色を見て、昨日から気になっていたことが確信に変わった。


「ねえ、ノワ。やっぱり、川のそばにだけ緑が残ってるよね?」


 街道の右手、川に近い岸辺には、緑色の草が生い茂っていた。左手に見える丘は、もうすっかり灰色なのに。


「それにね、川の上流のほうが、緑色が濃い気がするの。ハルガのあたりより、このへんのほうがちゃんとした緑色って気がする」


「ふむ」


 特等席で横になっていたノワが、片目だけ開けて言った。


「よく見ておる。娘よ、その観点は重要だ。今後も覚えておいて損はないぞ」


「よかった、わたしの考えは合ってるんだね。ってことはやっぱり《白蝕》って、お水に弱いの?」


「さてな。吾輩、雨の日は寝ると決めておるゆえ、水のことはよく知らぬ」


 またしても、教えてくれる気はないらしい。そこまでしゃべったなら最後まで教えてくれればいいのに……。


 がっくりと肩を落とすわたしに代わって、ラギが首をかしげながら応えてくれた。


「あー……確かにミオちゃんの言うとおりかも。行商人の間では『飢えたら川を下れ』って言うんだよね。川沿いの村は作物が無事な場合が多いって言われてるからなんだけど、なるほど……そういうことなのかな」


 わたしは荷物からおばあちゃんの手帳を出して、七猫の地図のページを開いた。


 水の都リーメの印。それからさらに遠く離れた他の場所の印。それらをあらためて俯瞰してみると……印のほとんどが、川か湖のそばにある。


 猫と水。


 ひとまず、頭の片隅に置いておくことにした。


◇◇◇


 日が暮れて、川原の近くで野営することになった。


 焚き火を起こしてから、三日月亭のおかみさんにもらったパンをあぶりつつ、ラギの干し杏を分けてもらう。あったかいパンと甘酸っぱい杏。旅のごはんも二人と一匹で囲めば、立派なごちそうになる。


「ノワも食べる? パンの耳」


「王の夕餉は干し魚と決まっておる。ときに娘よ……魚の蓄えは十分であろうな?」


「六十本のうち、もう五本食べちゃったでしょ。残り五十五本だから、リーメまで保たせるなら、一日二本までなら大丈夫かな」


「に、二本だと……? せめて三本――」


「いいけど、リーメに着く前になくなっちゃうよ?」


「ぐぬぅ……ま、毎日二本食べたくなるとは限らぬだろう。明日は一本だけにするゆえ、今日は三本にするのである」


「そんなこと言って、明日になったらまた三本食べたいって言うに決まってるじゃん……」


 その後もノワの粘り強い交渉は続き、双方の落としどころを探り合った結果、「特別な日だけ三本食べる」という結論に落ち着いた。とはいえ、特別な日とやらを決めるのはノワらしいので、果たしてリーメまで保つかどうか怪しいものだが……。


 焚き火の向こうでは、ラギが小さな紙束に何か書きつけている。備蓄の在庫に関する覚え書きだそうだ。「干し魚、消費早し」と書かれているのが見えて、わたしは申し訳ない気持ちになった。


 北の空の下を振り返ると、かすかにハルガの町が見える。


 スズ、元気かな……あの子のことだから、きっと今も町のどこかで、すやすやと幸せそうに寝てるんだろうな。


◇◇◇


 その夜は、わたしが番をすることになった。


 ひとりで番をするのは、旅に出て以来初めてだった。焚き火の爆ぜる音と川の流れる音以外、何も聞こえない。どちらの音も、こうしてちゃんと聞くのは初めてな気がする。


 ラギは荷馬車の下で毛布にくるまって、もう寝息を立てている。焚き火に小枝を足して、わたしはなんとなく南の川下の闇に目をやった。


 そのとき。


 ――ちり、と。


 音でも、匂いでもない。胸の奥のずっと深いところを、細い細い糸で撫でられたような、変な感じがした。


「ノワ。起きてる?」


「……王の眠りを妨げるとは何事である」


「ごめんね。えっと……今、変な感じがしたの。南のほう。ずっとずっと遠くから、ちり、って感じの何かが届いた気がして」


 ノワの耳が、ぴんと立った。


 そして特等席から音もなく降りてきて、わたしの隣に座り、同じ川下の闇を見る。


「娘。それは匂いだったか? それとも音が聞こえたのか?」


「どっちでもないの。なんて言えばいいのかな……気配? 猫を撫でてるときのあのあったかい感じにちょっとだけ似てる」


「――ほう」


 月色の瞳が細くなった。


「猫と契約を重ねたことで、ようやく《猫語り》として鼻が利くようになってきたか。猫は猫の気配を知る。猫語りもまたしかりである」


「じゃあ、これって……あっちのほうに猫がいるってこと?」


 思わず立ち上がりかけて、ノワに「落ち着け」としっぽで膝をぺしんと叩かれた。


「でも、ノワ。あのね……」


 言葉にしようとすると、胸のあの変な感じがまた、ちり、とうずいた。うまく言えなくて、わたしは外套の胸元をぎゅっと握った。


「この感じ――なんだかこの猫、苦しそうなんだ」

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