第12話 病に倒れた村
朝になっても、あの猫の気配は消えていなかった。
南のほう。わたしたちがこれから進む先に、猫がいる……かもしれないのだ。
「気配の主が何者であれ、目的地は変わらぬ。このまま街道を進むのである」
昨日に続いて特等席に座ったノワは、そう言いつつ大きなあくびをした。落ち着いてはいるものの、その耳の先がずっと川下を向いているあたり、ノワも気にはなっているみたいだった。
「ミオちゃん、そんなに焦らなくても、もうすぐ着くよ。昼過ぎには渡し場の村――ウルカだ」
「渡し場?」
「舟を乗り降りする場所のことさ。ウルカでは、大きな舟で人も荷馬車もまとめて向こう岸に渡してくれるんだよ。リーメには川の向こうの街道を進む必要があるからね。そしてウルカといえば……ふ、ふふ」
ラギが商人の顔つきになって笑った。
「名物、川蟹汁。蟹の出汁に川魚のつみれを落として、熱々のところに葱をどっさり。渡し舟を待っているあいだ、旅人はみんな、あれで一杯やるんだよ」
「か、川蟹汁……」
お腹が正直にぐう~、と鳴った。朝ごはん、食べたばっかりなのに。
「蟹は良いぞ。おい、娘。吾輩の分は身をほぐして、皿に山盛りで頼むぞ」
「はいはい、わかってますよ」
言いながら、頭の中はもうお昼ごはんのことでいっぱいだった。蟹のお出汁。熱々のつみれ。渡し場まであと半日かぁ……長いなぁ。半日って、こんなに長かったっけ……。
◇◇◇
昼過ぎ。荷馬車は坂を下って、川べりにあるウルカ村に到着した。
村に入ってすぐ、わたしもラギも、そしてノワも、村の様子が変だとひと目で気づいた。
村が、静まり返っているのだ。
渡し場の桟橋のまわりには屋台小屋がずらりと並んでいたけど、どこも板戸を下ろしている。名物の川蟹汁を振る舞うのに使っているのであろう大鍋も、ひっくり返して干されたまま放置されている。桟橋には舟が三艘、綱につながれて揺れているだけ。人の声は全然聞こえてこず、川の音ばかりが耳に入る。
道には子供の姿がひとつもない。埃っぽい風だけが、閉まった板戸の前を通り抜けていく。
「……今日はお休みの日なのかな」
「村じゅう全部の店が一度に? さすがにそれはないと思うけど……あ、おばあさん、ちょっといいですか」
ラギが通りかかったおばあさんに声をかけた。おばあさんはわたしたちを値踏みするような目で見たあと、疲れた声で言った。
「旅の人かい。……悪いことは言わないよ。水だけ汲んだら、今日のうちに引き返しな」
「え? 渡し舟は――」
「止まってる。もう十日もね」
熱病だよ、とおばあさんは付け加えた。
ひと月半ほど前から、ぽつり、ぽつりと村人が病に倒れはじめ、この半月で、病人が一気に増えたという。熱が出て、お腹を下して、大人はなんとか起き上がれるけれど、子供とお年寄りはずっと寝たきりらしい。渡し守のおかしらも寝込んでいて、大舟を出せる者がいないとのことだ。
「宿は開いてるけどね。客なんてあんたたちくらいのもんだから、泊まりたきゃ好きにすればいい」
わたしたちは顔を見合わせた。舟が出せないとなると、当然リーメへは渡れない。
でも、それよりも。
――ちり。
胸の奥で、またあの気配がかすかに震えた気がした。もしかしてこの村に――猫が、いるのだろうか。
◇◇◇
村の広場に、人だかりができていた。
人だかりの向こうでは、灰色の外套に身を包んだ男の人が、荷箱を重ねた台の上に立っていた。
――その人の胸元には、灰色の輪の紋章が刻まれている。
「皆さん、思い出しなさい。北のハルガで何があったかを!」
思わず、ドキリとした。
「封じられていた獣が目覚めたのです。猫と呼ばれる災いの獣が! かつて大喪失を招いた獣が野に放たれ、その穢れが川を下ってこの村に流れ着いたとの報せが、我々教会のもとに寄せられました。皆さんを苦しめているその病は、猫がもたらした災いに他なりません!」
人だかりのあちこちでどよめきが起こる。籠を抱えたおばさんが隣の人に「こわいねえ」とささやいているのが聞こえた。
男の人は台を降りると、集まった人たちに小さな灰色の包みを配って回りはじめた。
「これは清めの灰といって、皆さんの病を鎮めてくれます。お代は要りません。これは教会からの慈悲そのものなのですから」
そう言って柔らかく笑いながら、ひとりひとりの手に包みを握らせていく。
受け取った人たちの顔がほんの少しだけほっとゆるむ。その顔を見ていると、なんだか胸の奥がざらざらとした気分になってきた。みんな、そんなものにすがってしまうくらい、追い詰められているのだろう。
みんな、違うんだよ。スズはハルガの町のみんながぐっすり眠れるようにしてあげただけなのに。決して災いなんかじゃないし、みんなを病気にしたりなんてあるわけ――
「ミオちゃん」
ラギが、無意識に一歩踏み出しかけていたわたしの袖を、強く引いた。ハッとなってラギのほうを向くと、彼は首を小さく横に振った。
「今あの中に飛び込むのは悪手だよ。僕らみたいなよそものが口を出したところで、火に薪をくべるようなもんだ」
「小僧の言う通りである」
フードの中から低い声がした。
「まずは様子をうかがうのだ。それにな、娘よ……猫が災いの獣などでないことは、《猫語り》であるお前がいちばんよくわかっておるだろう。今はそれでよいのだ」
それは……そうだけど……。
わたしは、唇をぎゅっと噛んでうつむいた。握った拳の中で、爪が手のひらに食い込んでいた。
と、フードの中から出た黒いしっぽが、わたしの頬に、ぽん、と当てられた。たったそれだけだったけど……わたしの中で渦巻いていた怒りの感情は、嘘みたいにすうっと引いていった。
◇◇◇
その晩は、桟橋近くにある「渡し亭」という宿に泊まった。広い板の間に、お客は本当にわたしたちだけしかいなかった。
「ごめんなさいねえ、こんなものしかなくて」
夕ごはんは、薄い麦の粥だった。おかみさんは何度も謝ってくれたけど、村人の看病で忙しい中で、こうして旅人へ膳を出してくれるだけでも十分すぎるくらいだ。
おかみさんの目の下には、濃い隈があった。ハルガの三日月亭のおかみさんも同じく隈があったが、あっちはそれでも大声で笑っていた。それに対し、こちらのおかみさんは、ずっと沈んだ表情をしている。それだけこの村が、病に追い詰められているということなのだろう。
夜中、薄い壁の向こうから、小さな子供のうなされる声が聞こえてきた。おかみさんの末の子だというその子供は、ひい、ひい、と細い息をして、ときどき母親のことを呼んでいた。そのたびに、廊下を走り回るおかみさんの足音がした。
スズがいれば、あの子のあくびで、せめて眠らせてあげることができるのに。
そんなことを考えていたせいで、わたしは一向に眠れそうになかった。
毛布にくるまったまま、天井の節を数えて、それにも飽きて、喉を潤そうと水差しに手を伸ばした――そのときだった。
ノワが、音もなく卓に飛び乗った。
鼻先を水瓶に寄せてひくひくと動かし、それから背中の毛をぶわりと逆立てた。
「娘。この水は飲むな」




