第13話 その病、猫なら防げたはずである
「飲むなって……宿に備え付けのただのお水だよ?」
「いや、匂いが変なのだ」
ノワは水瓶の縁に前足をかけて、もう一度慎重に鼻を近づけた。
「川の水であろうが、何やら嫌な匂いが混じっておる。舌の先がピリッとする類の……そうさな、古い武器庫のような匂いである」
「ぶ、武器庫? そんな匂い、嗅いだことないよ」
「騒がしいなぁ、どうしたのこんな夜に」
ラギが、眠そうに目をこすりながらふらふらとやってきた。そして、騒ぎの原因が水瓶だと理解するや、中をのぞきこみ――いきなり中に指を浸して、舐めようとした!
あとちょっとで指が舌に届くというところで、ノワが素早く前足で止めに入った。
「正気か、小僧」
「あ、今のはミオちゃんに聞かなくてもわかるよ。止めてくれたんだよね? でも、こういうときはまず味見をしてみるのが商人の基本かなって……」
「馬鹿者が。今のお前は商人であると同時に、王の荷物持ちでもあるのだぞ。己の立場をわきまえよ」
「えっと……王さまの荷物持ちとしての立場を忘れるな、だって」
「うぅ、わかったよ。ごめんなさい、ノワ様」
とにかく、水差しには口をつけずに寝ることにした。
ノワはひと晩じゅう、水瓶のそばから動かなかった。黒い置物みたいに座って、ときどき思い出したように鼻先をひくつかせていた。
◇◇◇
翌朝、起きてすぐに、水瓶の水の出どころをおかみさんに聞いてみた。
「これ? 白沢のお水だよ」
おかみさんは、寝ずの看病で赤くなった目のまま教えてくれた。
村の向かい、川向こうの崖の中腹から湧く清水を、ウルカでは白沢と呼ぶらしい。川の水は荷を運ぶものであり、白沢の水は人が飲むもの。この村では毎朝、渡し舟で川向こうに渡り、白沢の水を樽で汲んで持ち帰ってくるのが慣習になっているのだという。
「ここのお水で淹れたお茶は、リーメでも美味しいって評判なんだ。舟が止まってからは、汲み置きの樽でなんとかしのいでいるけどね……」
どうやら水瓶の水は、この村自慢の名産らしい。その水から変な匂いがするだなんて、言えるはずがなかった。
◇◇◇
その日、わたしは村人の看病を手伝って回った。
水を運び、手ぬぐいをしぼって、うなされている子の額に載せる。トト村でおばあちゃんがよく病人にこうしていたのを覚えていたので、テキパキとこなすことができた。ラギは、荷馬車から蜂蜜の壺と薬草の束を持ってきて、しぶしぶといった表情で村人に差し出していた。
「……これはあくまで出資だからね。あとで川蟹汁で返してもらうんだから」
口ではそう言いながら、壺は一番大きいやつ――つまり、わざわざ高価なものを選んで持ってきてくれたのだ。ありがとう、ラギ。
手ぬぐいを替えるたび、かつておばあちゃんが言っていたことを思い出す。
『看病はね、ただ病気を治すだけじゃなく、そばにいてあげて、安心させてあげることが大切なんだよ』
……うん。それなら、今のわたしにもできるよ、おばあちゃん。
そうして村を回っていると、途中、渡し守のおかしらの家で、サヨという女の子に会った。おかしらは寝込んでいるため会うことはできなかったが、代わりにサヨちゃんから、お話を聞くことができた。
サヨちゃんは、わたしより二つ下で、寝込んだお父さんの代わりに汲み置きの樽の番をしているのだという。
「白沢のお水はね、あそこから湧くの」
サヨちゃんが、窓の外を指さした。川向こうの崖、その中腹に、ぽつんと黒っぽい岩屋が見える。
――ちり、と。
昨日とは比べものにならないくらいはっきりと、あの細い気配を感じた。間違いない。気配の主は、あそこにいる。
「あのね、お姉ちゃん。半年くらい前にね……灰色のおっきい布をかぶった人たちが、舟で川の向こうに渡ってね、あの岩屋に鉛の板を貼っていったの。それで、これで村は安泰です、って言ってた」
「鉛の板……」
サヨちゃんはうつむいて、樽のふたを指でなぞった。
「それから……お水の味が変になった気がするの。みんなは気のせいだって言うけど……あたし、白沢のお水が大好きで、毎日いっぱい味わって飲んでたからわかるもん」
サヨちゃんはそう言って、しぼんだ声でさらに付け加えた。
「……教会の人は、お水は何も変わっていない、全部猫の祟りのせいだって言うの。じゃあ……あたしの舌が、おかしくなったってことなのかなぁ……」
わたしはその小さな手を、両手でぎゅっと握った。
「……サヨちゃんはどこもおかしくなんかないよ。ありがとう、この村の異変に、ちゃんと気づいてくれて」
サヨちゃんの目に、みるみる涙がたまっていった。半年間、ずっとひとりで抱えてたんだ。わたしと二つしか違わないのに、この子はずっとひとりで、戦ってきたんだ。
◇◇◇
その日の夜、宿の屋根の上で、ノワは長いこと川向こうの崖を見ていた。
「娘。やはりあの岩屋は、祠で間違いないのである」
「やっぱり……! じゃあ、この気配の主は」
「うむ。この気配には覚えがある。あれは《防疫》の《福》を持つ――病を防ぐ猫である」
病を防ぐ猫。
わたしがその言葉の意味を考えている傍らで、ノワはさらに続けた。
「本来ならこの流域の流行り病は、祠で眠っておるあやつの《福》が外に漏れ出ることで、かろうじて抑えておったのだ。その祠を鉛の板で塞げばどうなると思う?」
「流行り病を抑えてたものが、なくなって……」
月色の瞳が、すうっと細くなった。
「それだけではない。鉛というのは、それ自体が毒である。雨にさらされるたび、その毒が少しずつ泥水へ移り、湧き水に混じる。そんな水を飲み続けて、じわじわと力を削がれた体に流行り病なんぞが来てみよ。大抵の人間はひとたまりもあるまい」
村のために設置されたはずの鉛の板は、逆に村の病を悪化させていたのだ。
ということは、あの教会の人が配っていた清めの灰は、実際には何も清めることができないんじゃないか。村の人たちは、そんなものにすがって……。
「愚かなことよ」
ノワはふん、と鼻を鳴らした。怒っているとき、ノワはそんな音を出すのだと、最近知ったばかりだった。
「――この病、猫なら防げたはずである」
◇◇◇
「決めた」
わたしは屋根の上で立ち上がって、川向こうの崖を指さした。
「あの岩屋の猫を、起こしに行こう! 舟が出ないなら、わたしたちで川を渡るしかないよね」
「はあ!? この川を、僕たちだけで渡るっていうのかい?」
下の窓から、ラギが顔を出して目を丸くしていた。
「あのねぇ、そもそも舟はどうするのさ? 当たり前だけど、村のものを僕たちが勝手に使うわけにはいかないよ?」
「そこはほら……商人の知恵でなんとかならない?」
「えっ、僕!?」
「……であるな。渡る……しか、あるまいな」
わめくラギに対するノワの返事は、なぜか歯切れが悪かった。
「ノワ? どうしたの? しっぽがさっきから屋根をばんばん叩いてるけど」
「なんでもない。なんでもない……のである」
どう見ても、何かあるのは明白だった。
しっぽのせいで隠しごとが全然できないなんて、猫って自由に見えて、案外不便な生き物なのかもしれない。




