第80話 リーメの象徴
おかみさんは一度咳払いをして、手紙の続きを読み上げた。
「――祭りには教会も加えていただきたく。警備の人手、炊き出しの薪、振る舞いの飴は、すべて教会で用意いたします。また、祭りの中で、恵みへの感謝を述べる機会をいただきたく存じます――」
集まっていた人たちが、一斉に静まり返る。湖から吹く風が手紙の端をぱたぱたと揺らす音だけが、やけに耳に響いた。
「――差出人、灰の教会リーメ教会堂、司祭ヴァルド。……以上だよ」
ヴァルド――いつも子供たちに飴を配っている、白い外套を身にまとった司祭。嘘や悪事に手を染めることなく、みんなに気づかれないうちに自身の望む形へ話を持っていくのが得意な……とても嫌らしい人。
最初に声を上げたのは、リコだった。
「なんで!? あいつら、みんなの鈴を取り上げたんだよ!? そんなやつらが〈雨迎え〉に参加するってどういうことだよ!」
「落ち着きなって。……確かにね。まったく、厚かましい話だよ」
おかみさんは手紙からリコへと視線を移すと、どこか歯切れが悪そうに言った。
「厚かましいけどね……でも、人手は欲しい。薪もいる。飴なら、子供たちも喜ぶ」
「そこなんだよね」
ラギが腕を組んで悩ましげな表情を浮かべている。
「断る理由が特に見当たらないんだよね、これ。書いてあること自体は、どれもありがたい申し出だし。でも全部受け入れちゃうと、いつの間にか〈雨迎え〉が教会主体の催しみたいになっちゃいそうで……嫌らしい手紙だよ、ほんと」
「まあ、教会には世話になったことがあるのも事実だしなあ」
船頭のひとりが頭をかきながら言う。
湖の入口の杭を外すとき、教会は反対しなかった。鐘を引き上げる準備をしているときには、飴の箱を届けてくれたりもした。
……それも、最初からこの事態を想定してのことなのだろうか。
この場の誰もが、教会に強く反対することができず、黙り込んでしまう。
そんな中、目を閉じてただじっとみんなの話に耳を傾けていたリコのおじいさんが、落ち着いた声で言った。
「返事を急ぐ必要はなかろう」
みんなの視線がおじいさんに集中する。
「まだ〈雨迎え〉の日までは時間がある。町のみんなで、よく考えて決めればいい。……なにも最初から教会を突っぱねるようなことはせんでもよかろう。せっかくの祭りなのじゃからな」
その言葉を聞いて、みんなの肩から少し力が抜けた。
そうだ、まだ時間はあるんだ。それまでじっくり考えればいい。
――もっとも、考えれば正解が出てくるとは限らないと思うけれど……。
◇◇◇
帰りの舟で、古い麻布の上に座ったノワが、月色の瞳を細めながら言った。
「――あのヴァルドという男は、教会をリーメの町の象徴そのものにしようとしておるのであろうな」
「象徴そのもの……?」
「雨の神を迎える祭りの日、鐘が鳴り、姫――アオが歌い、そして雨が降る。そのとき、司祭が皆の前で、その雨について――例えば、こう語るのである」
ノワの口ぶりに、胸がざわついた。
「――『これこそが、恵みの雨です』とな。するとその言葉は町じゅうの人間の心に、間違いなく響くであろう。あの男が欲しているのは、そうやって教会が町の象徴になる、その出来事そのもの。金も権力も要らぬ。この町で教会が『誰もがその声に耳を傾けるべき存在』になりさえすれば、それで良いのであろうな」
いつの間にか、ヴァルドが〈雨迎え〉の奥深くにまで入り込もうとしている。
鈴は無事取り返し、鐘も引き上げることができた。あと少しで、リーメの町は何もかもを取り戻せるというのに、それがすべて教会のおかげということになろうとしている。
「――ここで教会を受け入れたら、お祭りまで教会のものみたいにされるかもしれない。でも断ったら断ったで、町の人たちの負担が大きくなってしまう。……どうすればいいんだろう」
「どちらでもない方法を探せばよい」
ノワは小さくあくびをしながら、なんてことのないように言った。
「あの老人が言っておったように、まだ日はあるのである。それにな、娘よ。こちらには三百年ものあいだ水底で待ち続けた猫と、彼女が降らせる雨、そして、この町の者たちがおるではないか」
……ノワの言うとおりだ。わたしたちにはたくさんの仲間がついている。
――教会の手を借りた上で、これは町の人たちのお祭りなんだと、誰が見てもわかるようにできればいいのかな。
まだ形にはならないけれど、方向性だけは見えてきた気がして、わたしはノワと正面から向き合い、力強くうなずいてみせた。
◇◇◇
その日の夜、わたしは湖へと向かった。
アオは、鐘のそばで毛づくろいをしていた。銀灰色の毛並みには、もうすっかり艶が戻っている。
教会からの手紙の話をすると、アオは「ふうん」と鼻を鳴らしただけだった。
「そんなに象徴になりたいなら、好きにさせてあげればいいじゃない。……どうせなら、とびきり印象に残るような雨でも降らせてあげようかしら――例えば、司祭さんの真上とかに、ね」
そんなことを言いながら、ヒゲを揺らして笑う。
……冗談だよね?
まあそれは置いておいて、わたしはずっと気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、アオ。雨を呼ぶ鐘のことなんだけど」
「なあに?」
「昔、鐘を沈めたのは、教会の人たちなんだよね? わたし、それを聞いて最初は教会がアオや鐘のことをよく思ってないのかなって思ったんだ。……でも、鐘にはとても丁寧に布を当てた跡があって、それに湖の入口の杭なんかも、ずっと昔に打ち直した跡があって……」
そこまで聞いたところで、アオは毛づくろいをやめた。
「……教会の人たちは、何がしたかったのかな。鐘を沈めたかったはずなのに、その鐘を傷つけないように布まで当てて。神殿の封だって、力ずくなんかじゃなくて、一枚一枚丁寧に当て布がしてあった」
わたしは、湖の入口のほうへ目をやった。
「湖の入口の杭も、誰がやったのかはわからないけれど、ずっと昔にきちんと打ち直してある。……壊したかったのか、守りたかったのか――どっちが教会の本当の目的なのか、わかんなくなっちゃった」
わたしが言いたいことを言い切ると、アオは何も言わずに鐘のほうへ目を向けた。
その視線の先には、布を当てて吊った跡が、まだ鐘に残っているのが見える。
「――そういえば、教会についてはまだすべてを話せていなかったわね」
「え……?」
「確かに鐘を沈めたことは話したけど、そのとき誰が、どんな顔で沈めたのかまでは、まだ話してなかったでしょう?」
――誰が、どんな顔で……?
それはいったい、どういうことなんだろう。
「ま、その話の続きは、雨が降ってからにしましょう。……降ってからじゃないと、見せられないものがあるのよ」
アオはそう言うと、いつもの澄ました顔に戻った。
「約束するわ。わたしが約束だけは守る性分だってこと、よく知ってるでしょう?」
……うん、よく知ってる。
そこまで言われたら、待つしかない、よね。
◇◇◇
湖を後にする途中、舟の上から後ろを振り返ると、雨を呼ぶ鐘が月明かりの下で光っていた。
アオが三百年ものあいだ胸に抱いてきたふたつの約束は、どちらも果たされた。
わたしはそのアオと、今度は新しい約束をした。
――雨が降ったら、話の続きを聞かせてもらう。
だったら、わたしも約束のために頑張らないと。
次は、わたしたちが〈雨迎え〉を成功させる番だ。
「楽しみねえ、ミオ」
湖のほうから、アオの声が聞こえた。
名前を呼ばれるたびに、まだ少し胸の奥がくすぐったくなる。
「……うん。楽しみ!」
三百年ぶりに本格的な雨を迎える〈雨迎え〉まで、あとひと月。




