第79話 鐘楼へ帰る日を決めよう
次の日の朝、船着き場には、町じゅうから大勢の人が集まっていた。
雨を呼ぶ鐘を鐘楼へ戻す日取りを決めるからと、リコが町じゅうに知らせて回ってくれたおかげだ。
リコのおじいさんが木箱の上に立ち、台座の上の鐘を指差して言った。
「この鐘は、雨の神をお迎えする祭りの日に、鐘楼へ戻すことにした。当日はみんなで鐘を鐘楼まで運んで吊り上げる。そして日暮れになったら、いよいよ鐘を鳴らす――三百年ぶりにな」
直後、集まった人たちが一斉に歓声を上げた。中には盛大に拍手をする人もいれば、隣の人と思いきり抱き合っている人もいる。
そんな中から、ひと際大きな声が飛んできた。
「でも、あんなに大きな鐘を鐘楼まで運べるのかい? 水から引き上げるのとは、わけが違うと思うんだけど」
それは、〈雨やどり〉のおかみさんの声だった。
おじいさんは、落ち着いてその問いに答える。
「太い綱と丸太を使って、少しずつ動かすことになる。さらに鐘楼のてっぺんまで上げるには、滑車も要るな。……今度は水の力を借りるわけにもいかんから、引き上げのときよりもさらに多くの人手が必要になるじゃろう。みんな――手伝ってくれるか?」
人々は一瞬、しんと静まり返ったものの、次の瞬間には再び大歓声が巻き起こった。
「当たり前だろ!」
「ここまで来て、手伝わないわけないじゃないか!」
「食事なら、あたしに任せな!」
おかみさんまで声を張り上げ、周囲の歓声はどこまでも大きくなっていった。
「よし。祭りはひと月後の満月の日にしよう。早速、今日から準備を始めていくぞ!」
それからは、祭りに向けた相談があちこちで始まった。鐘を運ぶ道に板を敷くこと、鐘楼に足場を組むこと、吊り具の調子を確かめること。〈湖畔市〉に店を構えている店主たちも、祭りの日に何を売るか話し合っている。
ちなみに、この祭りにはいつの間にか〈雨迎え〉という名前がついていた。
リコのおじいさんが「雨の神をお迎えする日じゃ」と言い、リコがそれを「雨迎えの日だよ!」と触れて回り、〈湖畔市〉の子供たちが「あめむかえ、あめむかえ」と歌うように繰り返しているうちに、そう呼ぶのが当たり前になっていたのだ。
まだひと月――いや、あとひと月しかない、のかもしれない。
◇◇◇
船着き場の人だかりが解散したあと、わたしはリコとラギに昨日のことを話した。
「実はね、雨の神さまに、名前をつけたんだ。……アオっていうんだけど」
「アオ……アオさま……」
リコはその名を繰り返し口にするや、パッと顔を輝かせた。
「いい! いい名前じゃん!」
そう言うなり船着き場の端まで走っていくと、湖へ向かって叫んだ。
「アオさまー!」
すると、湖の上にいた銀灰色の猫が、ゆっくりとこちらを向くのが見えた。
――なーお。
「返事した! ミオ、今、返事したよね!?」
「うん、したね」
実際には、「ちゃんと呼び捨てにしないで『さま』をつけてくれたのは素直に感心するわ。褒めてあげる」と言っていたのだけれど、喜ぶリコに水を差すのも悪いと思ったので、それは伝えないでおいた。
一方でラギは、腕を組みながら何やら考え始めていた。
「アオさまかあ。……ねえ、『アオさま御用達の雨粒飴』って看板に書いていい?」
「えっ、さ、さすがに勝手に名前使ったら怒られるんじゃないかな……」
「じゃあ、『アオさま印の雨粒飴』なら? アオさまの顔を飴の表面に彫るんだよ」
「いやそれもダメでしょ……」
そんなわたしたちのやり取りを聞いて、リコのおじいさんが笑った。
「いい名前じゃな。しかし、わしはこれからも雨の神と呼ばせてもらうがな。長いことそう呼んできたもんじゃから、急には変えられんよ」
それは全然問題ないと思う。アオも、きっと気にしないだろう。
◇◇◇
昼過ぎになると、リコのおじいさんは「ちょっと行ってくる」と言ってひとりで舟を出し、湖の底の神殿へと向かっていった。
四十年前に途絶えていた神殿の掃除を、おじいさんは鐘の引き上げの合間にも続けていた。協力してくれる人も増え、掃除は順調に進んでいた。
おじいさんが戻ってきたのは、日が傾き始めたころだった。
「……ついに終わったよ。神殿の掃除がな」
おじいさんは濡れた髪のまま船着き場へ腰を下ろし、湖を眺めながら言った。
「終わったって、もしかして神殿全部?」
「ああ。これで、隅々まできれいになったぞ。さすがに四十年分の汚れとなると、なかなか手強かったがな」
冗談めかして笑っていたけれど、その声はいつもよりどこか落ち着いていた。
と、そこへ、アオが湖の上を歩いてやってきた。
彼女は船着き場のそばで立ち止まると、おじいさんを見上げる。
「なーお」
「……雨の神よ、どうなされましたか?」
わたしは、おじいさんにアオの言葉を伝えた。
「――『神殿の守り手よ。長いあいだ、よく務めてくれたわね』……だって」
すると、おじいさんはすぐに膝をつき、深く頭を下げた。
「……ありがたいお言葉、頂戴いたしますぞ」
四十年前に果たせなかった務めを、ようやく終えられ、アオに認められた――それがおじいさんにとってどれほど重い意味を持つのか、わたしには想像もつかない。
顔を伏せたままのおじいさんを、わたしはただ、見守るしかなかった。
――やがてアオは、鐘楼のほうへと目を向けた。
「あの鐘楼はね、昔から雨を呼ぶ鐘を鳴らすために建てられたの。町のどこにいても、鐘の音がよく聞こえるように。ふふ、三百年ぶりにあそこから鐘の音が響くのを、楽しみにしているわ」
アオは、嬉しそうに目を細めた。
「もちろん、町の鈴も一緒にね。前に話した三つめ――忘れていないでしょうね?」
◇◇◇
夕方、〈雨迎え〉の支度の相談を終えた帰りに、雨を呼ぶ鐘のそばを通ったときだった。
鐘の前に、誰かがひとりでぽつんと立っているのが、目に留まる。
その、見覚えのある灰色の外套に身を包んだ人は――。
ギド、だった。
その手には何も持っておらず、いつも持っていた帳面も、今日は見当たらない。
ギドは目を閉じ、じっと鐘を見上げていた。
鐘に向かって耳を傾けているようにも見えたけれど、今は鐘が鳴っているわけでもない。
鐘から少し離れた物陰で、しばらく様子をうかがっていると……。
やがてギドは、ゆっくり目を開け、そして、深く頭を下げた。
それは、鈴を一軒ずつ返して回ったときと同じく、とても丁寧なお辞儀。
程なくしてギドは顔を上げ、そのまま教会堂のほうへと歩いていってしまった。
――鈴の音は、ちゃんと覚えられましたか?
以前、ヴァルドがギドにそう尋ねているのを、わたしは教会堂の裏手の水路から見ていた。
結局、その問いにギドが何と答えたのかは、今もわからないままだ。
――あの人が今、何を考えているのか、少し聞いてみたい気がした。
◇◇◇
翌朝、船着き場で〈雨迎え〉の準備について話し合っていると、教会堂から使いの修道士がやってきた。
修道士は封のされた手紙を一通だけ置くと、さっさと帰っていった。
封には、教会の灰色の印が押されている。
「今度は何だい?」
そう言って〈雨やどり〉のおかみさんが率先して封を切り、みんなの前で手紙の内容を読み上げていく。
「なになに――『このたび、雨を呼ぶ鐘が無事に引き上げられたことを、教会としても喜ばしく思います。町の皆さまのご尽力に、深く敬意を表します』……ずいぶん殊勝なことじゃないか。さて、ここからが本題のようだ。えーっと……『つきましては、来月の祭りについて』――祭りってのは〈雨迎え〉のことだね――」
そこで、おかみさんの声が止まった。
その眉が、ゆっくり中央へ寄っていく。
「……どうしたの?」
リコが横から手紙をのぞき込んだ。
おかみさんはすぐには答えず、黙って手紙の内容に最後まで目を通していた。
それから顔を上げ、わたしたちを見回す。
……その表情を見ただけで、あまりいい知らせではなさそうだとわかった。




