第78話 その名は雨上がりの空の色
リコの家に戻って毛布に入ってからも、わたしはしばらく眠れずにいた。
――雨の神さまには、名前がない。
確かによく考えてみれば、「雨の神」という呼び名はあくまで彼女の立場を表すもので、名前そのものではないのだ。
そしておばあちゃんに至っては、「あなた」としか呼んでいなかったのだという。
それはなんだかとても……さびしいことじゃないだろうか。
◇◇◇
結局眠れたのは日がすっかり昇ってからのことで、次に目を覚ましたときにはもう昼を過ぎてしまっていた。
体を起こして外に顔を出すと、ノワが軒先の日なたで丸くなっていた。
「ねえ、ノワ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何用だ。吾輩の昼寝を邪魔するものは、何人たりとも許さぬぞ?」
「えっとね……猫の名前って、こっちからつけてもいいものなのかな?」
ノワの耳が一瞬ピクリと動き、次いで片目がそっと開かれる。
「――誰の話である」
「雨の神さまだよ。名前がないって言ってたでしょ。だから、その……名前をつけてあげたらどうかなって思ったんだけど……やっぱ、失礼かな?」
ノワは一旦体を起こし、改めてわたしに向き直る。
「それは本人次第である。人間がつけた名を気に入る者もおれば、己の考えた名前以外受け付けぬ者もおる」
「雨の神さまはまだ名前がないんだから、自分の名前にこだわりがあるってわけじゃないんだよね? あ……でも、今まで名前がなかったってことは、人間がつけようとした名前がどれも気に入らなかったってことなのかな?」
「それも本人にしかわからぬ。直接聞いてみるしかなかろう」
「そっか……うん、そうだよね」
なら、まずは――名前を考えないと始まらないよね。
銀灰色の毛並み。少し偉そうな喋り方。意地っ張りだけれど、三百年間ノワとの約束を守り続けた猫。
そして、あの、きれいな青色の瞳。
わたしはふと、故郷にいたころに、雨上がりの雲の切れ間から見えた空のことを思い出した。
雨のあとの、澄んだ青。
これからのリーメでは、そんな空が何度も見られる日が来るに違いない。
だとしたら――。
「……アオ」
口に出してみると、不思議なくらい、すぐになじんだ。
◇◇◇
その日の夕方、わたしはノワを連れ、リコに舟を出してもらって湖へとやってきた。
「ほら、行っといで。雨の神さまに、大事な話があるんでしょ?」
「え……なんでわかったの?」
「だって、顔に書いてあるし。あたいは舟で待ってるから、ほらほら」
「う、うん――ありがとう、リコ」
船着き場で舟を降り、ひとりで雨の神さまのもとへ向かう。リコは気を利かせてくれたのか、舟を少し沖へ出していった。
雨の神さまは、いつものように湖の上で毛づくろいをしていた。その銀灰色の毛並みには、少しずつ艶が戻ってきている。
「あら、声結びさん。どうしたの、そんな緊張した顔をして」
「あ……わかっちゃう?」
「わかるわよ。あなたは表情に出やすいもの。それで、なあに?」
わたしは一度、深く息を吸った。
「あのね。あなたに、贈りたいものがあるの」
「贈りたいもの? この前の飴みたいに、また何か見せてくれるのかしら?」
「ち、違うよ!」
わたしが必死に否定するので、雨の神さまはキョトンと首をかしげる。
「えっとね…………名前を、贈りたいの」
そこで雨の神さまは、毛づくろいをしていた前足をようやく止めた。
「……名前? わたしに?」
「うん。名前がないって言ってたじゃない? 今まで『雨の神さま』って呼んでたけど、もうこうして仲良くなれたんだし、名前で呼び合えたらいいなって思って。あ、もちろん、嫌だったら断ってくれてもいいんだけど……」
雨の神さまは、しばらく黙ってしまった。
やがて、少し横を向き、耳だけをこちらに向けてから言う。
「……聞くだけなら、聞いてあげるわ」
しっぽの先が、水面を一度叩いた。
どうやら緊張しているのは、わたしだけではないらしい。
「――アオ」
雨の神さまの耳が、ピクリと動いた。
「雨が上がったあとの空の色から取ったんだ。あなたの目のことを考えていたら、そんな色のことを思い出したの」
「……アオ……アオ――ね」
その名を、何度も口の中で確かめるようにつぶやく。
そして、しっぽがまた、水面を叩いた。
「……悪くないわ」
その言葉を聞いて、全身から一気に緊張が抜けていった。
よかった……気に入ってくれた……んだよね?
じゃあ、これからはもう、アオって呼ぶことにするよ? いいよね?
わたしが新たな名を呼ぶ準備を心の中でしていると、雨の神さま――もとい、アオは、ようやくこちらを向いてくれた。
「なら、わたしもいつまでも『声結びさん』とばかり呼んでいるのは変よね」
「え?」
アオは、わたしの目をまっすぐ見ながら言った。
「――ミオ」
その猫は、初めて、わたしの名を呼んだ。
「……もう一回言って」
「なぜよ」
「いいから」
「ミオ」
胸の奥が、かつてないほど熱くなった。
――「雨の神さま」ではなく、アオ。
――「声結びさん」ではなく、ミオ。
ようやくお互いのことを、名前で呼び合えるようになった瞬間だった。
「ミオ。光栄に思うことね。なにせこのわたしの、名付け親になったのだから」
「……うん。とっても、誇らしく思うよ」
「ちょっと、泣きながら言わないでちょうだい。わたしが無理やり言わせてるみたいじゃないの」
「な、泣いてないよ! それに、心からの言葉だし!」
「あらそう。じゃ、そういうことにしておいてあげる」
わたしは慌てて目元を袖でゴシゴシと拭いた。
少し離れたところに停めた舟から見ていたノワが、静かに言った。
「……ふむ、良い名である」
「あら。どうしてわたしの名前に、あなたの認可が必要なのかしら」
「そ、そんなつもりで言ったのではない! ただ褒めただけである! 素直に受け取らぬか!」
「言われなくとも、ちゃんと受け取ってるわよ。ねえ、ミオ?」
「う、うん、そうだね――アオ」
お互いの名前を呼び合えたことがうれしくて、内側から笑いがこみあげてくるのを、わたしは抑えることができなかった。
◇◇◇
日が沈み始めるころ、アオは台座の上に乗った雨を呼ぶ鐘を見上げた。
それから、鐘楼のほうへと目を向ける。
「さあ。そろそろ次の仕事を始めましょうか」
「次の仕事?」
「この子を、いつまでもここに置いておくわけにはいかないでしょう?」
アオは鐘を見上げ、満足そうに目を細めた。
「三百年ぶりに、あの鐘楼へ帰してあげましょう」




