第77話 ふたつの約束
――カヤ。
おばあちゃんの名前を聞いて、わたしは膝を抱え直した。
まさか今日その話を聞かせてくれるなんて思ってもいなかったので、驚きと緊張で全身が固まってしまう。
夜明け前の湖は水も空もまだ暗い青色で、雨の神さまの銀灰色の毛並みだけが、その中ではっきり浮かび上がっている。
「前に話したでしょう? 神殿の扉の前で、三日間ずっと歌っていた娘がいたって」
「……うん。それがおばあちゃんだったんだよね」
「ええ。まだ若かったころのカヤよ」
雨の神さまが、わたしの胸元に視線を移す。
「その鈴、鳴らしてみて」
わたしは言われるがまま鈴を取り出し、そっと鳴らす。
チリン。
「……そう。その音よ」
雨の神さまは目を閉じて、懐かしむような声で言った。
「この三百年間、わたしがつい目覚めかけてしまうほど近くまで鈴の音が届いたのは、カヤのときと、あなたのときの……二回だけ」
わたしは、手のひらの鈴を見下ろした。
小さくて、長く使われたせいで縁が少しすり減っている。
この鈴を、若いころのおばあちゃんもこの湖で鳴らしていたのだという。
「あ、そういえば前に話を聞いたときにも思ったんだけど……おばあちゃんは水抜きのときに扉の前まで来てたんだよね? でも、扉は封じられたままだったのに、どうやって雨の神さまに歌声を届けたの?」
「ああ、それはね――扉の前で、ただ歌っていたわけじゃなかったからよ。あの子も、あなたと同じ力を持っていたの」
雨の神さまが神殿の方角を見やりながら答える。
「それって、《猫語り》の力のこと?」
「そう。本人が自覚して使っていたのかはわからないけれどね。ともかく、カヤは鈴の音と歌声を、わたしのところまで届けようとしていたの。……最初に聞こえてきたときは、正直、うるさい子だなと思ったわ」
「え、そんな、ひどい……」
「二百年以上も、ほとんど何も聞こえない静かなところで眠っていたんだもの、仕方ないじゃない。でも……別に嫌ではなかったわよ」
雨の神さまは、懐かしむように目を細めた。
「そして二日目の夜。わたしが『うるさい!』って言ってしまったあとでね、カヤがこう聞いてきたの――『あなた、どうして起きないの』って」
「……それには、なんて答えたの?」
「――まだ、よ」
それは、とても聞き覚えのある言葉だった。まだ雨の神さまが湖の底で眠っていたころ、橋の上から呼びかけていたわたしに聞こえてきた、寝言のようなあの声――あれは寝言なんかじゃなくて、三百年ずっと変わらない、ちゃんとした返事だったんだ。
「わたしは、王さまを待っていたから。王さまは、必ず起こしに来ると約束してくれたんだもの。だったら、王さまが来る前に起きるわけにはいかないじゃない?」
「でも、ちょっとくらい起きてあげてもよかったんじゃ……」
「だめよ」
雨の神さまは、きっぱりと言い切った。
「それじゃあ、王さまとの約束を破ることになるじゃない。それだけは、絶対に嫌だったの」
わたしは、台座の端にいるノワをのぞき見た。
ノワは、少し気まずそうに顔をそむけて、毛づくろいをしながら言った。
「……ならば、娘が最初に呼びかけたときに起きればよかったであろうに。吾輩もすぐそばにいたのである――」
「だめ。ちゃんと王さま自身が神殿まで来てくれないと」
「……ずいぶん厳しいのである」
「三百年待ったのよ? それくらい当然じゃない」
ノワはそれ以上、何も言い返そうとはしなかった。
そんなノワを見て、雨の神さまは楽しそうにくすくす笑いながら、さらに話を続けてくれる。
「話を戻すけれど……カヤはね、本当に賢い子だったわ。わたしが『まだ』と答えて、王さまとの約束のことをほんの少し話しただけで、大体の事情を察してくれたみたい」
「え、そうなんだ。そのときおばあちゃんはなんて言ってたの?」
「三日目の朝、こう言っていたわ――『わかった。じゃあ、わたしからもひとつ約束。いつかこの鈴を受け継ぐ子が、その王さまって猫と一緒にあなたを起こしに来るから……それまで、待っててね』って」
わたしは思わず、息が止まりそうになった。
「……それって」
「ええ。あなたのことよ」
雨の神さまは、静かにうなずいた。
……そうか。雨の神さまはそれ以来、ふたつの約束を胸に抱いたまま、わたしとノワがこの町を訪れるのをずっと待っていたんだ。
そしてあの日、とうとうその瞬間がやってきたのだ。
ノワが水の中へ飛び込み、神殿を塞いでいた最後の封印を外して――。
わたしが、おばあちゃんの鈴を鳴らして――。
そして、雨の神さまに、こう呼びかけた。
――おはようっ!
雨の神さまも同じ光景を思い出していたのか、うれしそうに笑いながら言った。
「ずっと楽しみに待っていた約束のときが、一度にやってきたんだもの。あんなに気持ちのいい目覚めは、生まれて初めてだったわ」
あのとき、雨の神さまがうれしそうだった理由が、ようやくわかった。
わたしは何も知らずに、ただ雨の神さまに起きてもらいたい一心で鈴を鳴らしていたけれど――。
わたしが言った「おはよう」は、おばあちゃんがずっと昔に交わした、約束の続きでもあったんだ。
雨の神さまは優しい眼差しで、わたしの鈴を見つめていた。
「カヤの鈴が、ちゃんと次の子へ渡っていてよかったわ。カヤがもういないのは残念だけれど……まったく、いい子ほど、先にいなくなるのよね。困ったものだわ」
わたしはつい目頭が熱くなってしまい、うつむきながら袖で目元をぬぐった。
雨の神さまは、今度は町のほうへと視線を向ける。
「――ねえ、知ってる? あの子が歌っていた子守唄は、元々はリーメの歌なのよ」
「この町の?」
「ええ。『雨の子や』って歌うでしょう? 昔は、子供を寝かしつけるときによく歌われていたの。カヤはこの町に来たとき、町のお年寄りあたりから教わったんじゃないかしら。それで、歌を覚えて、故郷へ持って帰っていった」
「……そういうことだったんだ」
わたしは、おばあちゃんの膝の上で、あの歌を覚えた。
おばあちゃんが作った歌だと思っていた。この町に来てから、もしかして、とは思っていたけれど――。
でも本当は、このリーメの町で生まれた歌だった。だから、誰にも教わっていないのに最初からそらで歌えるなんていうおばあさんがいたんだ。
あの子守唄は、リーメからおばあちゃんへ伝わり、そしておばあちゃんからわたしへ受け継がれた歌だったのだ。
「……どうしておばあちゃん、そんな大切なこと、わたしに黙ってたんだろう」
「さあ。あのころから、自分のことをあまり話さない子だったもの」
ふと台座のほうを見ると、ノワは何も言わずにじっと月を見上げていた。
――おばあちゃんについて、聞きたいことはまだまだたくさんある。
でも、今晩だけですべてを聞くのは難しそうだ。
気がつけば、東の空が少しずつ明るくなってきている。
雨の神さまが、大きく伸びをした。
「ああ、ずいぶん話したわね。一気にいろんなことを思い出して、少し疲れちゃったわ」
「……最後にひとつだけ聞いていい?」
「なあに?」
「おばあちゃんは、雨の神さまのことをなんて呼んでたの?」
雨の神さまは少し首をかしげ、それから笑った。
「最後までずっと、『あなた』だったわね」
「名前では呼んでなかったの?」
「だって、わたしには名前がないもの」
「……え、そうなんだ?」
名前がない――。
今さらになって知った重大な事実に、わたしは空が明るくなってからも、ずっと胸の奥がモヤモヤしたままだった。




