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第76話 あの日、すべての猫が眠った

 ノワが出ていったあと、わたしは毛布にくるまり、しばらく天井を見ていた。


 三百年ぶりに話したいこと、か……いったい、どんな話をするんだろう。また喧嘩になったりしないだろうか。


 そんなことを考えているうちに、結局わたしはいても立ってもいられなくなり、上着を羽織って船着き場へと向かっていた。


 ちょっとだけ……ちょっとだけ、様子を見るだけだから。


 なんて言い訳をしているあいだに、湖が見えてくる。


 月の光を浴びた水面が、きらきらと輝いていて、とてもきれいで……。


 そんな湖を背にして立つ鐘は、いつにも増して神秘的な雰囲気を漂わせていた。


 その鐘のそばでは、雨の神さまが水面の上に座り、そこから少し離れた、鐘の台座の端にはノワが座っている。お互い、向かい合ってはいるものの、何かを話している様子はなかった。


 わたしはふたりに気づかれないよう、船着き場の手前で足を止めた。


「――盗み聞きは感心しないわよ、声結びさん」


 ……雨の神さまにはお見通しだったようだ。


 けれど、その一方でノワは――心底驚いた様子でこちらを振り返っていた。


「む、娘……!? なぜここに!?」


「ご、ごめん! すぐ戻るから――」


「いいから。いらっしゃい」


 雨の神さまは、わたしのほうへと向き直った。


「ひとりくらい聞いている人がいたほうがいいわ。この王さま、昔から都合が悪くなるとすぐ逃げようとするんだから」


「おい、何を言う。吾輩は逃げてなどおらぬ」


「あら。じゃあこれまでの三百年は?」


 痛いところを突かれたのか、ノワは急に押し黙ってしまった。


 わたしは遠慮しながら、船着き場の端に腰を下ろすことにした。


◇◇◇


「それで、何から話すの?」


 雨の神さまに聞かれ、ノワは少し迷ってから口を開いた。


「……あの日のことである」


 雨の神さまの目が、スッと細くなる。


「なるほど、いいわよ。声結びさん、あなたもよく聞いておきなさい。あなたがここまで来ることになった理由とも、関係している話だから」


 わたしはごくりと喉を鳴らすと、緊張しながらノワが話し出すのを待った。


 ノワはやれやれと言いたげにため息をつくと、月を見上げながらぽつぽつと語り始める。


「まず娘に前提となる話をしておかねばな。――三百年前、吾輩は、国じゅうの猫たちのもとを回っておったのである」


「え……何のために?」


「眠れ――と皆に伝えるために」


 わたしは、思わず息を止めた。


 ……え、眠れ? どういうこと?


「あの日、猫は皆、眠らねばならなかったのである。なぜそうする必要があったのかは……これはまた追々話そう。……今夜は、吾輩とあやつの話をしに来たのでな」


「……すべての猫が? スズも、ハクも……それに、ノワ自身も?」


「うむ」


 理解が、追い付かなかった。


 どうして? なんのために? 誰がそんなこと決めたの?


 聞きたいことが、次々と湧き出てくる。


 言葉に詰まっていたわたしに気を遣ってくれたのか、雨の神さまが話を続けてくれた。


「――わたしは嫌だと言ったわ。この町は、雨と一緒に暮らしていたの。水路には舟が行き交って、雨を呼ぶ鐘が鳴れば、みんなが空を見上げた。そんな町を残して眠れなんて、簡単に受け入れられるわけがないでしょう?」


「……良い町であった。お前だけは、最後まで嫌だと言っておったな」


「当たり前じゃない。逆に他の猫たちの聞き分けが良すぎるのよ、まったく」


 ……なんだか、ふたりしか知らない世界の話をしていて、わたしだけ置いてかれてる気がする。


 そこへ口を挟んでいいものかと悩んだけれど――それでもやはり、話の先が知りたくて、わたしはふたりに尋ねた。


「でも……最後には雨の神さまも、眠ったんだよね?」


 その問いにうなずいたのは、ノワだった。


「約束をしたのである」


「約束?」


「必ず、起こしに来る。王の名において、そう約束した」


 すると、雨の神さまが前足を持ち上げて言った。


「そんな王さまに、わたしは返事の代わりにこうしてやったの」


 ――ぺしっ、と。


 雨の神さまの前足が、ノワの頭を軽く小突いた。


「痛いのである! あの日を再現するだけなら本当に叩く必要はなかろう!」


「あら。だからずいぶん手加減したつもりだったのだけれど」


「そもそも叩くなと言っておる! 左耳を引っかかれたときなどは特に痛かったのである!」


「……左耳?」


 そういえば、と、わたしはノワの欠けた左耳をのぞき見た。


 確か、その傷の半分は雨の神さまの仕業だって、前に言ってたっけ。


「あら。あのときは、つい爪が少しだけ出てしまっただけよ」


 雨の神さまは、悪びれた様子もなく言った。


「でも、その耳のおかげで、ちゃんとわたしとの約束を覚えていられたんでしょう?」


「この耳のせいで、忘れようとしても忘れられなかったのである」


 ノワはなんとも不服そうな顔でそう答えた。


 雨の神さまはそんなノワを見ておかしそうにけらけら笑うと、ふっと優しい顔つきになって鐘へと向き直る。


「……本当に、長いあいだ待っていたわ」


 その声は、とても静かだった。


「最初の百年は、ずっと怒っていた気がする。でも次の百年くらいは、何かあったんじゃないかって、王さまのことをずっと心配していたわ。そしてそのあとは……そうね、もう意地になってたと思う」


 雨の神さまは、再び少しだけ笑って言った。


「約束を信じるのをやめたら、待っていた三百年が全部むなしくなる気がしたの」


 ノワが、咄嗟に口を開く。


「あの日のあと、吾輩は――」


「言い訳は聞かないわ」


 雨の神さまは、ノワの言葉をピシャリと遮った。


「言い訳を聞いてしまったら、わたしはきっと、王さまを赦してしまうもの。だから、聞いてあげない。三百年分、貸しにしておくわ」


「……貸し、であるか」


「ええ。これからたっぷり返してもらうから、覚悟しておきなさい」


 そう言いながら、彼女はもう一度前足を伸ばす。


 ――ぺしっ。


 今度は本当に軽い一撃だった。


 ノワは叩かれた頭を、そのまま深く下げた。


「……遅くなったのである」


 雨の神さまは、しばらく黙ってノワの頭を見つめたあと、いつもの声で言った。


「……顔を上げてちょうだい。まったく、遅すぎよ。……でも、こうしてちゃんと、迎えに来てくれた」


 ノワが顔を上げると、雨の神さまと目が合った。


「しかも、あれほど水が嫌いなのに、神殿まで潜って、挙句の果てに最後の封印を外してくれるなんて」


「……少々、乱暴になってしまったのである」


「バカね。今のは純粋に褒めてあげたのよ」


 それから、雨の神さまとノワは、並んで鐘を見上げた。


 こうしてふたりが言い争わずに並んでいるのを見るのは、初めてかもしれない。


 ――わたしはもう、帰ったほうがいいのかもしれない。


 そう思って立ち上がろうとすると、雨の神さまに呼び止められた。


「待ちなさい、声結びさん」


「え……なに?」


 振り返ると、青い瞳がまっすぐわたしを見つめていた。


「今度は、あなたが話を聞く番よ」


 雨の神さまは、わたしの胸元にある鈴へと目を向けて言った。


「あなたの鈴と――カヤの話をしましょう」

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