第75話 スリスリスリスリ
翌朝の船着き場は、いつもより静かだった。
昨夜は遅くまで宴が続いたせいか、町の家々も起き始めるのが遅い。
雨を呼ぶ鐘だけは、朝の光の中で昨日と変わらず台座の上に鎮座していた。
――そしてその近くの水面には、雨の神さまが座っていた。
「おはよう、雨の神さま」
「……おはよう、声結びさん」
「えっと……その、昨夜はよく眠れた?」
「ふふ、なにそれ。猫はいつだって眠ってるわよ」
そんな、冗談なのか本気なのかよくわからないことを言って、それきり彼女は目を閉じてしまった。
――昨夜、雨の神さまは鐘とどんな話をしたのだろうか。
わたしには想像もつかなかったけれど、銀灰色の毛並みには少しだけ艶が戻っているようなので、少なくとも昨夜は悪くない時間を過ごせたんじゃないかと、なんとなく思った。
◇◇◇
その日は昼から、鐘の状態を確かめることになっていた。
「引き上げて終わりってわけじゃない。祭りでちゃんと鳴らせる状態か、きちんと見ておかんとな」
リコのおじいさんの指示で、鐘のまわりに作業用の足場が組まれた。
三百年も湖の底にあった鐘だ。ヒビが入っていれば音は歪むだろうし、最悪、鳴らした拍子に割れてしまうかもしれない。だから、みんなで慎重に表面を調べていく必要があるのだ。
そんな中、ノワは台座の端に座って、いかにも自分も仕事をしているかのような顔で鐘を見ていた。
「監督役は吾輩に任せるのである。鐘の不調など寸分も見落とさぬゆえ、お前たちは全力で励むとよい」
「はいはい。ノワのことは頼りにしてますよー」
わたしがノワとそんなやり取りをしている横で、ラギが鐘を見上げて言う。
「ねえミオちゃん、軽く叩いて音を鳴らしてみれば、どこが悪いかすぐ見つかるんじゃない?」
「こら、祭りの前に勝手に鳴らすんじゃない」
リコのおじいさんに強い口調で止められ、ラギは思わず肩をすくめた。
このまま地道に調べていくしかないのかな――なんてぼんやりと考えていると、いつの間にかみんなの視線がわたしに集まっていた。
「え、え、なになに? わたしの顔に何かついてる?」
「いや、ミオちゃんなら、鐘の様子を調べられるんじゃないかと思ってさ」
「…………あ、そっか、《猫語り》の力なら――」
みんなの意図をすぐに理解し、早速、胸元の鈴を鳴らして鐘に呼びかけた。
チリン。
――ゴオン。
すぐに、しっかりした反応が返ってきた。わたしにだけ聞こえる、いつもの返事だ。
水底にいたときのような濁りも揺れもなく、大きくてはっきりとした響きの音だった。
「大丈夫。ちゃんとした返事が返ってきたよ。音に変な響きもないみたい」
「……そうか。そいつはよかった」
おじいさんの表情が、ふっとやわらいだ。続いてまわりからも、安心したような声が上がる。
「よかった……。手の皮がむけるまで頑張った甲斐があったよ」
「おつかれ、ラギ! ご褒美に雨粒飴を山ほどあげるよ!」
「リコちゃん、それ僕の商品だからね」
とりあえずひと安心できたところで、今度は鐘の内側を調べていく。
中には大きな金属の棒が、中央からぶら下がっていた。
「鐘の中って、こんなふうになってるんだ」
「これが鐘を鳴らす部分じゃ。これがないとそもそも音は出せんからな」
リコが感心している横で、おじいさんが金属の棒を吊っている革を確かめた。
指で触れると、端がぼろりと崩れる。
「これは交換が必要じゃな。三百年も水に浸かっとったんじゃから当然か。祭りまでに新しいものを用意しよう」
「革を扱ってる店なら、あたい、知ってるよ!」
「なら、頼めるか?」
「任せて!」
革さえ替えれば、鐘の内側も問題なさそうだ。
ただ、そのあと話し合いを続けていく中で、鐘の表面についた青緑色の錆を落とすかどうかという点で、少し意見が分かれることになった。
表面を磨けば昔の色に近づくかもしれない――というのが、賛成派の言い分だ。
けれど、おじいさんは首を横に振った。
「この錆の色は、三百年ものあいだ、鐘が水底で頑張ってくれた証じゃ。三百年の重みを忘れないためにも、このままにしておくべきじゃろう」
最終的には誰もがおじいさんの意見に納得し、表面は必要なところだけを掃除し、色はそのまま残すことになった。
これで今度こそ何もかも解決かな、と思って鐘を眺めていると、ふと、昨日見つけたあの跡に目が止まった。
わたしたちが布を当てた場所とは別に、鐘をぐるりと取り巻いている古い跡。布を当てて綱を掛けたような、丁寧な跡だ。
三百年前にこの鐘を沈めた人たちも、傷つけないように布を当てていた――ということなのだろうか。
――わたしはその跡から、しばらく目が離せなかった。
◇◇◇
鐘の点検が終わったあと、みんなで〈浮き台〉を解体することになった。
二十隻の舟をつないでいた太い綱が外され、舟は一隻ずつ持ち主のところへ戻っていく。浮き樽や滑車も、それぞれ元の場所に片づけられていった。
その光景を、ラギがしみじみとした様子で眺めている。
「なんか、ちょっと寂しいね」
「仕事が無事終わった証だろ。ほら、汁のおかわり!」
「おかみさん、僕まだ一杯目を食べてるんですけど……」
「何言ってんだい。働いた分だけしっかり食べなきゃダメだよ!」
おかみさんにぐいぐい押されるラギがおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。
それからしばらくして、〈深流域〉の様子を見に行っていたリコの舟が戻ってきた。
「渦、見てきたよ。今はもう、元どおりぐるぐる回ってた。でも……昨日までよりちょっと穏やかだったかも」
リコのおじいさんはその報告を聞くと、〈深流域〉のほうへ視線を移した。
「もう、あそこには雨を呼ぶ鐘がないからかもしれんな」
特に根拠があるわけではなさそうだったけれど、わたしもなんとなく、そんな気がした。
◇◇◇
夕方、借りていた道具を返し終えた帰り道。
鐘の前を通りかかったところ、まわりには誰もおらず、鐘がひとりで夕日の光をその表面に浴びてきらきらと輝いていた。
――と、そこへ、雨の神さまが湖の上を、岸際までトコトコとやってくる。
雨の神さまは周囲を確かめるように見回してから、そっと鐘へ近づいた。
そして、水面から首を伸ばし、頬を鐘の表面にすり寄せる。
スリスリ。
スリスリスリ。
スリスリスリスリ。
その光景を前にして、わたしは思わず足を止めた。
鐘が、雨の神さまにとってとても大切なものであることはわかっている――つもりだった。
……どうやら彼女の鐘への想いは、わたしが想像していた以上だったようだ。
このままそっと引き返すべきだろうかと思った、次の瞬間。
雨の神さまの耳が、ピクリと動いた。
わたしはそっと数歩下がってから、いかにも今来たばかりだという顔をして歩き出した。
「あ、雨の神さま。こんなところにいたんだ」
「あら、声結びさん」
「今日の検査ね、全部大丈夫だったよ。ヒビもなかったって」
「知っているわ。あなたとこの子のやり取りは聞こえていたもの」
「そ、そっか。……いい返事だったよね」
「ええ、本当に」
雨の神さまがあまりにもいつもどおりすぎて、逆に彼女の考えが読めない。
「それはそうと、お祭り、楽しみだね」
「そうね。あなたたちも、ちゃんと準備しておきなさい」
「うん。任せて」
雨の神さまは何事もなかったように水面の上に座り直した。
――よし、さっき見た光景は全部忘れよう!
……それからリコの家に帰るまでのあいだ、わたしの頬はずっと緩みっぱなしだった。
◇◇◇
その夜。
リコの家で、ノワがいつも以上に丁寧に毛づくろいをしていた。
ヒゲをなでつけ、胸の毛をなめ、欠けた耳の後ろまできれいにしている。
「……どうしたの急に? おめかし? どこか行くの?」
「うむ。今夜は戻らぬかもしれぬ。気にせず先に寝ているのである」
ノワはそれだけ言って戸口まで歩いていくと、そこで一度立ち止まる。
そして月色の瞳が、鐘のあるほうへと向けられた。
「三百年ぶりに話したいことがあるのは、あの姫だけではないのである」
そう言って、ノワは夜の船着き場へ歩いていった。




