↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
75/92

第75話 スリスリスリスリ

 翌朝の船着き場は、いつもより静かだった。


 昨夜は遅くまで宴が続いたせいか、町の家々も起き始めるのが遅い。


 雨を呼ぶ鐘だけは、朝の光の中で昨日と変わらず台座の上に鎮座していた。


 ――そしてその近くの水面には、雨の神さまが座っていた。


「おはよう、雨の神さま」


「……おはよう、声結びさん」


「えっと……その、昨夜はよく眠れた?」


「ふふ、なにそれ。猫はいつだって眠ってるわよ」


 そんな、冗談なのか本気なのかよくわからないことを言って、それきり彼女は目を閉じてしまった。


 ――昨夜、雨の神さまは鐘とどんな話をしたのだろうか。


 わたしには想像もつかなかったけれど、銀灰色の毛並みには少しだけ艶が戻っているようなので、少なくとも昨夜は悪くない時間を過ごせたんじゃないかと、なんとなく思った。


◇◇◇


 その日は昼から、鐘の状態を確かめることになっていた。


「引き上げて終わりってわけじゃない。祭りでちゃんと鳴らせる状態か、きちんと見ておかんとな」


 リコのおじいさんの指示で、鐘のまわりに作業用の足場が組まれた。


 三百年も湖の底にあった鐘だ。ヒビが入っていれば音は歪むだろうし、最悪、鳴らした拍子に割れてしまうかもしれない。だから、みんなで慎重に表面を調べていく必要があるのだ。


 そんな中、ノワは台座の端に座って、いかにも自分も仕事をしているかのような顔で鐘を見ていた。


「監督役は吾輩に任せるのである。鐘の不調など寸分も見落とさぬゆえ、お前たちは全力で励むとよい」


「はいはい。ノワのことは頼りにしてますよー」


 わたしがノワとそんなやり取りをしている横で、ラギが鐘を見上げて言う。


「ねえミオちゃん、軽く叩いて音を鳴らしてみれば、どこが悪いかすぐ見つかるんじゃない?」


「こら、祭りの前に勝手に鳴らすんじゃない」


 リコのおじいさんに強い口調で止められ、ラギは思わず肩をすくめた。


 このまま地道に調べていくしかないのかな――なんてぼんやりと考えていると、いつの間にかみんなの視線がわたしに集まっていた。


「え、え、なになに? わたしの顔に何かついてる?」


「いや、ミオちゃんなら、鐘の様子を調べられるんじゃないかと思ってさ」


「…………あ、そっか、《猫語り》の力なら――」


 みんなの意図をすぐに理解し、早速、胸元の鈴を鳴らして鐘に呼びかけた。


 チリン。


 ――ゴオン。


 すぐに、しっかりした反応が返ってきた。わたしにだけ聞こえる、いつもの返事だ。


 水底にいたときのような濁りも揺れもなく、大きくてはっきりとした響きの音だった。


「大丈夫。ちゃんとした返事が返ってきたよ。音に変な響きもないみたい」


「……そうか。そいつはよかった」


 おじいさんの表情が、ふっとやわらいだ。続いてまわりからも、安心したような声が上がる。


「よかった……。手の皮がむけるまで頑張った甲斐があったよ」


「おつかれ、ラギ! ご褒美に雨粒飴を山ほどあげるよ!」


「リコちゃん、それ僕の商品だからね」


 とりあえずひと安心できたところで、今度は鐘の内側を調べていく。


 中には大きな金属の棒が、中央からぶら下がっていた。


「鐘の中って、こんなふうになってるんだ」


「これが鐘を鳴らす部分じゃ。これがないとそもそも音は出せんからな」


 リコが感心している横で、おじいさんが金属の棒を吊っている革を確かめた。


 指で触れると、端がぼろりと崩れる。


「これは交換が必要じゃな。三百年も水に浸かっとったんじゃから当然か。祭りまでに新しいものを用意しよう」


「革を扱ってる店なら、あたい、知ってるよ!」


「なら、頼めるか?」


「任せて!」


 革さえ替えれば、鐘の内側も問題なさそうだ。


 ただ、そのあと話し合いを続けていく中で、鐘の表面についた青緑色の錆を落とすかどうかという点で、少し意見が分かれることになった。


 表面を磨けば昔の色に近づくかもしれない――というのが、賛成派の言い分だ。


 けれど、おじいさんは首を横に振った。


「この錆の色は、三百年ものあいだ、鐘が水底で頑張ってくれた証じゃ。三百年の重みを忘れないためにも、このままにしておくべきじゃろう」


 最終的には誰もがおじいさんの意見に納得し、表面は必要なところだけを掃除し、色はそのまま残すことになった。


 これで今度こそ何もかも解決かな、と思って鐘を眺めていると、ふと、昨日見つけたあの跡に目が止まった。


 わたしたちが布を当てた場所とは別に、鐘をぐるりと取り巻いている古い跡。布を当てて綱を掛けたような、丁寧な跡だ。


 三百年前にこの鐘を沈めた人たちも、傷つけないように布を当てていた――ということなのだろうか。


 ――わたしはその跡から、しばらく目が離せなかった。


◇◇◇


 鐘の点検が終わったあと、みんなで〈浮き台〉を解体することになった。


 二十隻の舟をつないでいた太い綱が外され、舟は一隻ずつ持ち主のところへ戻っていく。浮き樽や滑車も、それぞれ元の場所に片づけられていった。


 その光景を、ラギがしみじみとした様子で眺めている。


「なんか、ちょっと寂しいね」


「仕事が無事終わった証だろ。ほら、汁のおかわり!」


「おかみさん、僕まだ一杯目を食べてるんですけど……」


「何言ってんだい。働いた分だけしっかり食べなきゃダメだよ!」


 おかみさんにぐいぐい押されるラギがおかしくて、わたしは思わず笑ってしまった。


 それからしばらくして、〈深流域〉の様子を見に行っていたリコの舟が戻ってきた。


「渦、見てきたよ。今はもう、元どおりぐるぐる回ってた。でも……昨日までよりちょっと穏やかだったかも」


 リコのおじいさんはその報告を聞くと、〈深流域〉のほうへ視線を移した。


「もう、あそこには雨を呼ぶ鐘がないからかもしれんな」


 特に根拠があるわけではなさそうだったけれど、わたしもなんとなく、そんな気がした。


◇◇◇


 夕方、借りていた道具を返し終えた帰り道。


 鐘の前を通りかかったところ、まわりには誰もおらず、鐘がひとりで夕日の光をその表面に浴びてきらきらと輝いていた。


 ――と、そこへ、雨の神さまが湖の上を、岸際までトコトコとやってくる。


 雨の神さまは周囲を確かめるように見回してから、そっと鐘へ近づいた。


 そして、水面から首を伸ばし、頬を鐘の表面にすり寄せる。


 スリスリ。


 スリスリスリ。


 スリスリスリスリ。


 その光景を前にして、わたしは思わず足を止めた。


 鐘が、雨の神さまにとってとても大切なものであることはわかっている――つもりだった。


 ……どうやら彼女の鐘への想いは、わたしが想像していた以上だったようだ。


 このままそっと引き返すべきだろうかと思った、次の瞬間。


 雨の神さまの耳が、ピクリと動いた。


 わたしはそっと数歩下がってから、いかにも今来たばかりだという顔をして歩き出した。


「あ、雨の神さま。こんなところにいたんだ」


「あら、声結びさん」


「今日の検査ね、全部大丈夫だったよ。ヒビもなかったって」


「知っているわ。あなたとこの子のやり取りは聞こえていたもの」


「そ、そっか。……いい返事だったよね」


「ええ、本当に」


 雨の神さまがあまりにもいつもどおりすぎて、逆に彼女の考えが読めない。


「それはそうと、お祭り、楽しみだね」


「そうね。あなたたちも、ちゃんと準備しておきなさい」


「うん。任せて」


 雨の神さまは何事もなかったように水面の上に座り直した。


 ――よし、さっき見た光景は全部忘れよう!


 ……それからリコの家に帰るまでのあいだ、わたしの頬はずっと緩みっぱなしだった。


◇◇◇


 その夜。


 リコの家で、ノワがいつも以上に丁寧に毛づくろいをしていた。


 ヒゲをなでつけ、胸の毛をなめ、欠けた耳の後ろまできれいにしている。


「……どうしたの急に? おめかし? どこか行くの?」


「うむ。今夜は戻らぬかもしれぬ。気にせず先に寝ているのである」


 ノワはそれだけ言って戸口まで歩いていくと、そこで一度立ち止まる。


 そして月色の瞳が、鐘のあるほうへと向けられた。


「三百年ぶりに話したいことがあるのは、あの姫だけではないのである」


 そう言って、ノワは夜の船着き場へ歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。