第74話 ふたりきりの夜
やめて――。
手斧へ走るおじいさんの背中に向かってわたしが叫ぶよりも早く、状況は一変した。
橋の上で、鈴が三回鳴ったのだ。
「あの子……!」
「三回……三回じゃと!?」
リコのおじいさんはまだ、合図なんて出していなかったのに。振り返ったおじいさんの手が、手斧の手前で止まる。
鳴らしたのは、昨日、旗を持つんだと言って聞かなかったあの小さな男の子だった。きっと橋の上からも、雨の神さまの歌が弱まり、静かだった水面が再び渦を巻き始めるのが見えていたのだろう。
三回鳴った鈴の音を受け、隣の橋からまたその隣の橋へと、合図が伝わっていく。
――歌いながら、鈴も一緒に鳴らす。
すぐに町じゅうの家々の戸口から鈴の音が聞こえ始める。
チリン、チリン。
同時に、子守唄の歌声も大きくなっていった。それまでは年配の人や子供たちの声が多かったのだけれど、そこへ手を止めた町じゅうの人たちが声を重ね始めたのだ。
本当は、鐘を浅瀬まで引き寄せる最後のひと押しまで取っておくはずだった合図。それをあの子は、〈深流域〉の様子を見て、鳴らすべきは今だと自分で判断したのだ。
町から届く歌声と鈴の音を聞いて、雨の神さまは歌の合間に大きく息を吸った。
「……ありがとう。みんなの力、いただくわね」
すると、それまで弱まっていく一方だった歌声に、少しずつ力が戻っていく。
渦を巻き始めていた〈深流域〉の水面も、再び落ち着きを取り戻していった。
「……勢いが……また、弱くなった! 雨の神さまに、町の人たちの歌と鈴が届いたんだ!」
リコの感嘆の声を聞いた瞬間、手斧の手前で止まっていたおじいさんの手が、ぶらんと下ろされる。
「……そうか、鈴が三回鳴ったか」
小さくつぶやいたあと、おじいさんは顔を上げて言った。
「よし! ここから一気にやるぞ! 鐘を浅瀬まで運ぶ!」
直後、止まっていた時間が、一気に動き出す。
各自が再びせわしなく動き始めたのを見て、ノワが少し得意そうにヒゲを動かした。
「吾輩が口を酸っぱくして合図を覚えさせるように提言したおかげであるな」
「それは……うん、確かに、ノワのおかげかもね」
それは紛れもなく、わたしの本心からの言葉だった。
◇◇◇
鐘を浅瀬まで引くべく、用意された六つの滑車が、一斉に音を立て始める。
わたしたちの舟も、鐘を吊るした〈浮き台〉と並んで、ゆっくり浅瀬へ向かう。
浅瀬で待ち構えていたおじいさんの仲間の人たち、それにラギまで加わって、みんなで太い綱に手を添える。
「歌の拍子に合わせながら、皆で息を合わせて綱を引くんです! いいですね!」
ラギの言葉に、その場のみんながそろってうなずく。
――ちりん、ちりんと、鈴が呼ぶ。
子守唄の一節が届くのに合わせて、綱が少しずつ引かれる。
誰かを寝かしつけるための子守唄が、今は雨を呼ぶ鐘を長い眠りから引き上げるために歌われている。なんだか不思議な気持ちになったけれど、同時に、とても今のリーメらしい光景だなとも思えた。
「見えた! ミオ、見えてきたよ!」
リコの言ったとおり、青い水の中に、大きな影が見えてきた。その影はゆっくり、ゆっくりと上がってきて――。
そして、ついに水面から姿を現した。
――これが、雨を呼ぶ鐘……。
人の背丈をはるかに超える、大きな姿形に、ただ圧倒されるしかなかった。
三百年も水の底にあったせいで表面は青緑色に変わり、そこから水が何本もの筋になって流れ落ちている。
「大きい……」
「これが、雨を呼ぶ鐘、なのか……」
まだ町から届いている子守唄のなか、誰もが鐘の威容に圧倒され、抑えた声で感嘆を漏らしている。
フックや綱が直接食い込まないよう、町の人たちが持ち寄った布が鐘との間に何重にも当てられていて、その姿はまるで町のみんなにあたたかく包まれているようだった。
――けれど、その布のすぐ下、青緑色の表面には別の跡があった。同じように布を当てて綱を掛けたような跡が、鐘をぐるりと取り巻いて、何筋も残っている。……もちろん、今日ついたものではない。
わたしはそれを見て、何も言わずに胸にしまった。
「揺らすなよ。ゆっくりじゃ……」
さっきまであれだけ大きく響き渡っていたリコのおじいさんの声も、今ではすっかり小さくなっていた。
◇◇◇
水際に用意していた台座の上に、滑車の綱でそのまま引き上げた鐘が無事置かれたころには、もう日が暮れかけていた。
船着き場には、町じゅうから人が集まっていた。
誰も鐘へ勝手に触ろうとはせず、ただ、少し離れたところから静かに見つめている。
リコのおじいさんは鐘の前で膝をつき、長いあいだ頭を下げていた。
「……長かったな。ようやく、お迎えできた」
鐘を運び終わり、綱から手を放したラギは、自分の手のひらを苦そうな顔で眺めていた。
「うわあ、こんなに手の皮がむけちゃって……あ、今になって痛くなってきた」
そこへ、近くにいた子供がやってきて誰にともなく声をかけてきた。
「ねえ、鐘は鳴らさないの?」
すると、リコのおじいさんが顔を上げ、首を横に振った。
「今は鐘をきちんと鐘楼へ戻すのが先じゃ。そのあとで、町のみんなで鐘を鳴らしてあげよう」
子供がしゅんとなってしまったので、おじいさんは笑いながらその肩をぽんと叩いた。
と、そのときだった。
湖から吹いてきた風が、まるで鐘全体を撫でるように通り抜けていき――。
ゴォン……。
誰も鐘を打っていないのに、確かに耳に届く低い響きが、かすかに広がった。
それはまるで、三百年ぶりに湖の外へ出た鐘が、寝起きのあくびをしたかのようだった。
通り抜けた風はやがて町のほうへと伸びていき、家々の戸口で鈴が次々に鳴り始める。
チリン。チリン。
わたしはしばらく、その音に聞き入っていた。
すぐそばでは、〈雨やどり〉のおかみさんが胸元を――教会から守り続けた、形見の鈴を押さえている。
「……あんたはまだだよ。あんたを鳴らしてあげるのは、本当の意味で雨が戻ってきてからね」
鈴にだけ言い聞かせるような、小さな声だった。
その言葉に目を細めていると、いきなりリコがわたしの袖をつかんできた。
「ミオ! 今の――鐘の音、あたいも聞けた!」
「ふふ、さっそく聞けてよかったね」
まさか鐘楼に戻す前に、あのとき話したことが叶うとは思っていなかった。本当に鐘が地上に戻ってきたのだと、改めて実感する。
鐘へ視線を戻すと、ノワが鐘の台座の端へ飛び乗り、その威容をしばらく見上げていた。
「……大きいのである」
それだけ? と思わず言いそうになったけれど、そのしっぽがうれしそうにまっすぐ立っているのを見て、すぐに口をつぐんだ。
◇◇◇
夜になり、祝いの宴のバカ騒ぎが少し落ち着いてから、わたしはもう一度、鐘を見に行った。
星明かりの下で、まだ濡れた鐘の表面が淡く光っている。
その前に、銀灰色の大きな猫が座っていた。
――雨の神さま。
その毛並みはまだ少し元気がなく、今日だけでどれだけ多くの力を使ったのかがわかる。
「あれだけの数の人が一緒に歌ったのって、もしかして初めてだったんじゃない?」
わたしのほうから声をかけると、雨の神さまは鐘を見上げたまま答えた。
「ふふ、そうね。おかげで上手な歌に、下手な歌――本当に色々な歌を堪能できたわ。終わってしまうのがもったいなくて、あのままずっと聞いていたかったくらい」
その言葉からは、本当に名残惜しそうな気持ちが伝わってくる。
そのまま鐘から目を離さずにいる雨の神さまを見て、次にどんな言葉をかけようかと考えていると――。
雨の神さまが、背を向けたままわたしに話しかけてきた。
「声結びさん。……少しだけ、ふたりにしてもらえないかしら」
「……うん、わかった」
それだけ答えて、わたしは静かにリコの家へ戻った。
なにせ、雨の神さまにとっては三百年ぶりの再会なのだ。
きっと、鐘とふたりきりで話したいことが、たくさんあるのだろう。




