第73話 三百年ぶりの浮上
昨晩のうちに水門を閉じておいたため、今朝の湖は、予定どおり水位が少し下がっていた。
わたしは頭の中で今回の作戦を改めて整理する。
水位を下げた状態で雨を呼ぶ鐘にフックを掛ける。そして水門を開けて再び水位を上げることで、〈浮き台〉が水面に持ち上げられる力を利用し、鐘を水底から引き上げる。浮いた鐘は、浅瀬の滑車と人の力で水辺近くまで引き寄せる――という作戦だ。
「水位、予定のところまで下がったぞ! 水門はいつでも開けられる!」
「よし。夜通し、ご苦労じゃったな」
水門を見張ってくれていた人たちは目を赤くしていたけれど、みんな思いっきり笑っていた。
各人が事前確認のとおりの配置につく。リコのおじいさんは、夜のうちに〈深流域〉の真上に移動させて浅瀬の石に綱でつないで固定しておいた〈浮き台〉に、おじいさんの仲間の人たちは浅瀬の滑車のそばに、そして旗と鈴を持った子供たちは町じゅうの橋に、それぞれすでに移動完了している。町のほうでも、おそらくみんないつでも歌えるように身構えていることだろう。
わたしとノワは、リコに舟で〈浮き台〉のそばまで運んでもらった。〈浮き台〉には乗らぬと言い張っていたノワも、さすがに今日ばかりは、古い麻布ごと舟に乗り込んできていた。
ふと町のほうを振り返ると、昨夜、旗を持つと騒いでいたあの小さな男の子が、その手に旗をしっかり抱えて立っているのが見えた。
一方で、対岸に見える教会堂は、扉を閉ざしたまま何の動きも見られず、教会関係者の姿もどこにも見当たらない……なんだか不気味だ。
リコのおじいさんが、〈浮き台〉の上からそれぞれの持ち場を確認していく。
みんな、おじいさんと目が合うと同時に「いつでもいける」という合図を返してくる。
ひと通り確認し終えたおじいさんは、最後にわたしへと振り返る。
「嬢ちゃん、問題ないか?」
「は、はい」
「――昨夜は眠れなかったようじゃが?」
「えっと……大丈夫です。なぜかいつもより目が冴えてる気がするので」
ノワは古い麻布の上から顔を出し、〈深流域〉へ耳を向けている。
「……今朝の〈深流域〉は昨日より静かであるな。あやつ、夜のうちから流れを抑えておったか――気配が少し弱くなっておる」
「え、うそ!? ……あ、ほんとだ」
わたしもすぐに気配を探り、ノワの言葉が本当だと知った。動揺を抑えて、おじいさんに伝える。
すると、おじいさんは短くうなずいて言った。
「なら、今日はあまり長引かせるわけにはいかんな。手順どおり、手早く一発で終わらせるぞ」
そして、〈浮き台〉と鐘の場所の位置関係を確認する。
「鐘の位置、よし。――最初の合図!」
橋の上で鈴が一回鳴り、旗が上がったのを合図に、町じゅうが動き始めた。
「次! 二回目の合図!」
鈴が二回鳴り、その音が橋から橋へと伝えられていく。
そして――町のほうから、子守唄が聞こえ始める。
直後、雨の神さまが〈深流域〉の近くへと移動して歌い始め、町から届く歌声と鈴の音を力にしながら、〈深流域〉の水へ働きかけていく。
すると、〈深流域〉の勢いがみるみるうちに弱くなっていった。
「今だ! 下ろせ!」
おじいさんの掛け声と共に、布を巻いたフックと太い綱の輪が〈浮き台〉から水の中へと下ろされる。
「十! ……十五! ……二十!」
綱につけた印を数える声がいくつも飛び交う。
「嬢ちゃん、どうじゃ!」
わたしは自分の鈴を振り、水底の鐘へと呼びかけた。
チリン。
――ゴォン。
少し音がこもったような反応が返ってくる。……砂だ。鐘の上に、少し砂がかぶっているんだ。それでも鐘は、自身の場所を知らせようとしてくれている。
綱が下りていくほど、その感覚は近く、そして大きくなっていく。
「もう少し左です! ……そこ!」
フックが、いよいよ水底近くにまで到達する。
さらにもう一度、鐘へと意識を向けた。
「そのまま! 鐘の上まで来てます!」
また、鈴を鳴らす。
――ゴオン。
鐘の反応が、とても力強いものに変わった。
「――掛かった……掛かりました!」
鐘の返事が、そう教えてくれていた。
「よし。全員、少しだけ綱を張れ。フックが外れないようにしつつ確かめるんじゃ」
綱が慎重に引かれ、フックが鐘の輪にしっかり固定されていることを確認する。
――綱を握る全員が、力強くうなずく。そして〈深流域〉の流れは、まだ弱いまま。
「よし! 水門を開けろ! 水を戻すぞ!」
次の瞬間、遠くから重い音が鳴り響いた。
水門が開かれ、湖へ少しずつ水が戻り始めたのだ。
水位の変化は、目で見てもほとんどわからないほどゆっくりだった。
けれど、実際には張られた綱がちゃんと少しずつ鐘を引っ張っているようで、〈浮き台〉がみしりと音を立て始める。
「東側、もう少し張れ!」
「滑車を緩めるな!」
「おい、〈浮き台〉が傾いてるぞ!」
「大丈夫だ! まだいける!」
あちこちから声が飛んでくる。
浮き樽の間まで水が上がってきたころには、太い綱はまっすぐ張りつめていた。
そうしているあいだにも、雨の神さまは絶えず歌い続けている。
町からも、子守唄が途切れず聞こえてきている。
ノワは、雨の神さまと〈深流域〉へ交互に耳を向けながら、状況を分析していた。
「渦の勢いはまだ抑えられておる。だが……あやつめ。すでにかなり力を使ってしまったようである」
ミシ……ミシ……と、〈浮き台〉が軋み音を上げ続け、そのたびに張りつめた綱から、低い振動が伝わってくる。
――そして突然、その感触が変わった。
「……動いた」
わたしは思わず声に出して言った。
鈴を鳴らさなくてもわかる。
鐘の位置が……水底からほんの少し、上へ動いていた。
「鐘が浮かび上がったぞ!」
リコのおじいさんが叫んだ。
同時に、〈浮き台〉の上で歓声が上がる。
橋でも旗が大きく振られ、少し遅れて町のほうからも声が上がった。
「上がった! じいちゃん、上がったよ!」
「まだじゃ! このまま浅瀬まで運ぶぞ! そこで三回目の合図を鳴らす! 喜ぶのはそれからじゃ!」
そう言うおじいさんの声も、心なしか震えているように聞こえた。
「上がってる……ミオ、本当に上がってる!」
「うん……!」
わたしとリコは、喜びのあまり思わず抱き合いそうになり――。
けど、次の瞬間、雨の神さまの歌声が――かすれた。
「……え?」
わたしは咄嗟に雨の神さまのほうを見やる。
銀灰色の毛並みから、少しずつ力が失われていっているのがわかった。
それでも、雨の神さまは歌い続けている。……明らかに苦しそうだというのに。
と、そのとき、ノワが古い麻布から飛び出した。
「いかん! もうあやつの力がもたぬ!」
「そんな――雨の神さま!」
わたしが叫ぶのと、水面に変化が現れたのはほとんど同時だった。
静かだった〈深流域〉に、スッとひと筋の水流が浮かび上がる。
やがて、ひと筋だった流れはみるみる増えていき、ひと塊の渦を形作っていく。
弱められていた流れが……息を吹き返し始めているのだ。
しかも今は、鐘が水底を離れ、太い綱で〈浮き台〉につながっている。
今の状態で、鐘が激しい水流に晒されたら――。
と思った直後、綱が、ミシッ、と嫌な音を立てた。
「馬鹿者! これ以上無理をするでない!」
ノワが、初めて見る剣幕で、叫んだ。
それでも、雨の神さまは歌をやめない。
「全員、綱を捨てる準備を!」
リコのおじいさんの声が飛ぶ。
「わしが『離せ』と言ったら、何が何でも迷わず離せ! 鐘も綱もすべて捨てろ!」
そう言いながら、おじいさんは〈浮き台〉の端へ走る。
――そこには、昨夜研いでおいた手斧があった。




