第72話 どうか、雨の神さまが無事でありますように
水底の砂が動き始めたせいで、これ以上日を置くことは許されない状況になった。
そして、明日にはもう、鐘の引き上げ作戦が決行される。
リコのおじいさんの決定により、町は一気にざわつき、船着き場に至っては灯りが夜通し消えることはなかった。湖の向こうの水門にも見張りが立ち、夜のうちに少しずつ水位を下げていくのだという。
作業ができないならせめて準備は万全に、ということで、引き続き各々準備を進めていると、いくつか物が足りていないことがわかった。予備の太い綱、滑車につなぐ綱、〈浮き台〉や舟を固定するための綱……それらをどうにかするべく、ラギが帳面を広げ、船頭たちの間を走り回っている。
「町のみんなが、持ってる綱は貸してくれるって。……でもこれだけ借り物が増えると、あとで誰が誰に何を返すのか確認するのが大変そうだな」
そう言ったあと、ラギは少し考えて――何かを決心したようにうなずいた。
「よし、もう全部なしでいいか」
「えっ?」
「貸したとか借りたとか、今は忘れる。鐘を引き上げさえすれば、あとはどうとでもなるんだ。今はとにかく鐘のことに専念しなきゃ」
そう言って、ラギは帳面を閉じると、船頭たちの手伝いをするために船着き場へと消えていった。
わたしがぽかんと口を開けて立ち尽くす傍らで、古い麻布の上で丸くなっていたノワが、小さくつぶやく。
「……今こそまわりに貸しを作る好機のように思うのだが……商人の才があるのかないのかよくわからん男である」
そのとおりではあるのだけれど、リーメの町のことを純粋に考えているラギのことは素直に尊敬もしているので、ノワの言葉はとりあえずわたしの胸に仕舞っておくことにした。
◇◇◇
その日は夜が更けても、町は一向に静かになる気配がなかった。
あちこちの戸口で人の出入りがあり、そのたびに、チリン、と鈴が鳴る。
誰もが眠れない夜を過ごし、そんな町を鈴の大合唱が包み込んでいく。
水汲み場の近くでは、子供たちが集まって歌の練習をしていた。指導しているのはもちろん、前に子守唄をそらで歌ったというあのおばあさんである。
歌い方を間違えると、おばあさんが家の窓からすぐに声を飛ばしてきた。
「そこはもう少しゆっくりだよ!」
その一方で、〈雨やどり〉のおかみさんは、とうとう鍋の火を落とすのを諦めていた。
「今夜は日が昇るまでずっと火を入れとくよ。明日のためにも、せめてみんなの腹を満たしてあげなきゃね」
「でもそれだと、おかみさんの体がもたないんじゃ……」
「これくらい平気さ。明日が無事に終わったら、しばらくはまとめて休ませてもらうつもりだよ」
そう言って鍋をかき混ぜながら、おかみさんは一度だけ胸元へ手を当てた。
そこには今も、教会へ渡さずに守り続けた、形見の鈴がある。
その鈴を鳴らすべき日――町に本当の雨が戻ってくるその瞬間に、想いを馳せているのだろう。
そうやって明日に備えて穏やかな気持ちで夜を明かそうという者もいれば、明日を目前にして小さな騒ぎを起こす者もいる。
橋の上では、旗を担当する子供のひとりが「今夜も見張る」と言い張り、見かねた母親に連れて帰られていくところだった。
「旗は明日の朝また渡してもらえるから!」
「いやだ! ぼくが振るんだ! ぼくの役なんだ!」
泣き声が遠ざかっていき、まわりでその光景を見ていた大人たちがおかしそうに笑った。
明日になれば、きっとあの子も誰よりも元気に大きく旗を振るに違いない。
そんな微笑ましい光景を見届けてから、今度は船着き場へ向かったところ、隅のほうでリコのおじいさんが研ぎ石で手斧の刃を研いでいた。綱を切るために用意しているのだという。
「こいつは使わないで済むのがいちばんなんじゃがな。ま、お守りみたいなもんじゃ」
おじいさんは研ぎ終わった刃を確かめると、手斧を布に包んだ。
本当に――その手斧を使わずに、作戦を終えられますように。
◇◇◇
最後に、湖へと向かった。
雨の神さまは湖の上に座り、町のほうへ耳を向けていた。
「ずいぶん賑やかね」
「ごめん。うるさかった?」
「ふふ、そんなわけないじゃない。それにしても……みんな、もう明日のことしか考えていないのね」
そう言って耳を動かしながら、少し楽しそうに目を細めた。
「またたくさんの歌声と鈴の音が届いたわ。今日だけでも、またずいぶん力をもらっちゃったわね」
銀灰色のしっぽが、水面の上でゆっくり動いている。
わたしは少し迷ってから、言おうと決めていたことを口にした。
「あのね。明日、途中で無理だと思ったら、すぐやめていいからね」
「…………」
「鐘を引き上げられなくても、また別の方法を考えればいい。とにかく、無理だけはしないでほしい。だから――」
「あらあら、ずいぶん言うようになったわね、声結びさん」
どこかうれしそうな顔をしながら、小さく鼻を鳴らす。
「わたしのことはわたし自身がいちばんわかってるから、何も気にする必要はないわ。あなたは、自分の役割を果たすことだけを考えなさい。明日は鐘の反応をずっと追ってなきゃいけないんだからね」
「それは、そうだけど……」
わたしが言葉に詰まっていると、雨の神さまは町のほうを向いたまま付け加えた。
「ま、忠告は一応覚えておくわ。……心配してくれてありがとう」
「――っ、うん!」
そう言ってもらえただけでも、わたしには十分だった。
帰る前にもう一度雨の神さまの姿を見やると、銀灰色の毛並みは少し艶を取り戻しているようだった。
――明日は、今までで最も大変な一日になるだろう。
どうか、雨の神さまが無事でありますように。
◇◇◇
リコの家に戻り、明日に備えて寝ようとしていたところ、同じく隣で毛布にくるまりながらも寝られずにいたリコと目が合った。
「ミオ……全然眠れないんだけど」
「うん、わたしも。眠れないよね」
「……ミオは、怖くないの?」
「そりゃ、怖いよ、もちろん。綱が切れたらどうしようとか、途中で渦の勢いが戻っちゃったらどうしようとか、ずっと考えてる」
「そっか……だよね……」
しばし、沈黙。
なんとなくまわりを見回していると、ふと、戸口が目に入る。
「そういえば、あの鈴は明日持っていくの?」
「ううん。戸口にかけておく。あの鈴は、雨の神さまに、うちはここだよって知らせるためのものだから」
「そっか」
リコのおばあさんの鈴には、その家で鳴り続けるという役目がある。
わたしには、雨を呼ぶ鐘の反応を追うという役目がある。
リコにも、リコのおじいさんにも、ラギにも、ノワにも、みんなそれぞれの役目があるのだ。
そして明日は町のみんなが、同じ目的のために、各々の役割を果たす。
そんなことを考えながら横になっているうちに、わたしはいつの間にか少し眠っていたらしい。
気がつくと、戸の隙間から朝の薄い光が差し込んでいた。
船着き場のほうから、人々の動く音が聞こえてくる。
わたしはほぼ同時に目を覚ましていたリコと顔を見合わせ、すぐに起き上がった。
外へ出ると、すでに〈浮き台〉の上にはリコのおじいさんが立っており、朝の光の中で〈深流域〉のほうをじっと見つめている。
やがて、その場にみんながそろったのを確かめると、おじいさんはみんなに向かって言い放った。
「――よし、鐘を引き上げるぞ」




