第71話 水底で起きた想定外
翌朝、教会堂から船着き場に、ふたつの箱が届いた。
中には、〈雨の御礼式〉でも配られていた白くて四角い形の飴が、ぎっしり詰まっていた。そして一緒に一枚の紙が添えられており、そこには、こう書かれていた。
――作業に携わる皆さまへ。
その、ひと言だけ。届けてくれた修道士はそれ以上のことは話してくれず、箱を置くなりさっさと帰っていってしまったので、教会の意図も目的もまるでわからなかった。
「ど、毒とか入ってないよね……?」
リコの言葉に、わたしは首を振って答えた。
「さすがに入ってないと思うけど……。教会は、そういうことはしないでしょ」
別に教会は、これまで嘘をついたことも、人を傷つけようとしたこともない。
ただ、いつも教会にとって都合のいい形に話を収めようとしてくるだけ――。
もっとも、だからこそやりにくいのだけれど……。
一緒になって箱をのぞいていた〈雨やどり〉のおかみさんが、ふんと鼻を鳴らした。
「飴に罪はないからね。子供たちにでも配ってやるといいさ」
おかみさんに言われたとおり子供たちに飴を配っていると、古い麻布の上で丸まりながらその様子を眺めていたノワが、うっすらと片目を開けて言った。
「……あの司祭、こちらの祭りに何食わぬ顔で介入してこようとしておるな」
「え、どういうこと?」
「わざわざ鐘の引き上げ準備で町の子供たちが集まっている場所にこんなものを送ってきたら、子供たちはもちろん喜んで受け取るであろうし、現場はより賑やかになるであろう? 教会のおかげで鐘の引き上げが盛り上がった、という絵の出来上がりである。あとは自然と、教会も祭りに迎え入れられる、という流れであろうな」
「そ、そんなことまで考えてるっていうの?」
「さあな。あくまで推測の域を出ぬ。だからこそ、今後も教会からは目を離さぬことである」
ノワは最後にそれだけ言って、また目を閉じる。
船着き場に目を向けると、子供たちが無邪気に飴を頬張っていた。
「あまーい!」
「でも、雨粒飴のほうがおいしい!」
……ノワの考えすぎ――で終わるといいんだけどな。
◇◇◇
昼からは、本番どおりの流れをひと通り確認する作業が執り行われることになっている。
ただし、〈浮き台〉は〈深流域〉から離れた浅い場所に固定してある。本番以外で〈深流域〉に出るわけにもいかないので、これは仕方がなかった。
雨を呼ぶ鐘の代わりには、大きな石を使う。綱を下ろして石に結んだ縄の輪にフックを掛け、水門へ合図を送り、最後に引き上げるところまでの一連の流れを改めて確認するのだ。
そして〈深流域〉までは行かないので、今日は雨の神さまの出番は当然なく、水門も実際に動かすことはしない。
あくまで、各人が自分の役目と全体の流れを覚えるための確認作業なのだ。
「見に来る?」
作業前に念のため雨の神さまを誘ってみると、当然という顔でついてきた。
「もちろん。わたしにだって、事前の確認は必要だものね」
それから、町のほうへと耳を向ける。
「昨日から、力もずいぶん戻ってきたわ。たくさんの歌声と鈴の音を聞かせてくれたおかげね」
うれしそうにそう話す雨の神さまだったけれど、途中でふと、声を落として言った。
「あれだけ大勢の人間たちと力を合わせて〈深流域〉の流れを長時間抑えるなんて、わたしも初めてよ」
初めて――その言葉が、今になって胸の中で引っかかる感触。
……いや、気にしてもしょうがない。今はとにかく、できることをやるのみだ。
そして、確認作業が開始される。
まず、鈴が一回だけ鳴らされる。
――歌う準備を始めて。
直後、橋の上で旗が上がり、町のほうへ合図が送られる。歌を担当する人たちが待機し、水門の人たちも持ち場につく。
続けて、鈴が二回鳴らされる。
――さあ、歌って。
遠くから、子守唄が聞こえてきた。
雨の神さまはその歌声を聞いて、表情をうっとりとさせている。よかった、ちゃんと町からでも歌声が届いたようだ。
「ここで雨の神が流れを弱めてくださる! さあ、綱を下ろせ!」
リコのおじいさんの合図で、さらに作業が勢いづいていく。
このまま、何事もなく最後まで通せると思っていたのだけれど――。
……作業は中断。つまり――失敗した。
水門側の人が旗の合図を見間違え、予定より早く動こうとしたためだった。
「止めろ! やり直しじゃ!」
おじいさんの声で、すぐに全員が手を止める。
ラギが帳面にまとめた合図の一覧を確認したあと、旗はもっと大きく、ゆっくり振るように修正することを提案した。
「本番じゃなくてよかったね……」
「そのための事前確認じゃ。どこが失敗しやすくて、どこを直すべきか、今のうちに片っ端から洗い出しておかんとな」
おじいさんは経験豊富な年長者らしく、どこまでも落ち着いて対応していた。
そうしてひと通りの改善策を取り入れたことで、二回目の確認作業では最後まで問題なく通すことができた。
さらに作業を繰り返すことで全員の動きがどんどん洗練されていき、最終的には、町全体がまるでひとつの生き物になったかのような一体感が生まれていた。
これならいける――その場の誰もが、自信に満ちた表情を浮かべていた。
◇◇◇
そろそろ確認作業を終えようかというころ。
わたしはなんとなく気になって、胸元の鈴を鳴らしてみた。
チリン。
そして、水底の鐘に向かって呼びかける。
――ごぉん。
「……あれ?」
もう一度、鳴らしてみる。
――ごぉん。
確かに反応はあるけれど、この前とは様子が違う気がする。
一昨日はもっとはっきりと鐘の気配を感じ取れたのに、今日は気配が揺らいでいて、位置が少しわかりにくくなっている。
雨の神さまのほうへ視線をやると、彼女も〈深流域〉の方へ耳を向けていた。
「……声結びさん、あなたも感じたようね」
「うん。鐘の様子が……この前と違う」
雨の神さまが、水面をじっと見つめながら言う。
「これは……鐘そのものが動いたのかもしれないわね」
リコのおじいさんにそのことを伝えると、すぐに表情が変わった。
「……水底の砂が原因かもしれん」
「水底の……砂?」
「あそこは――〈深流域〉は、三百年間ずっと同じ調子で渦を巻き続けていたと言われておる。それが一昨日になって突然、一度とはいえ流れを弱めてその調子をある意味乱してしまった。その影響で、水底の砂がそれまでの均衡を崩してまわりに広がり始めたんではないじゃろうか」
そう説明しながら、おじいさんは〈深流域〉をじっと見つめて言う。
「もしそのせいで鐘が傾いて、上にある吊り輪まで砂に埋まったら、フックを掛けられなくなる」
「じゃあ、また雨の神さまの力で流れを弱めたら……」
「さらに砂が動いてしまうかもな」
それは、あんまりな話だった。少しでも作戦がうまくいくように、念入りに準備をしておこうとしただけなのに……そのせいで、かえって鐘を引き上げにくくなってしまうかもしれないのだという。
おじいさんはしばらく考えていたが、やがてみんなのほうを向いて言った。
「確認作業はここまでにしておこう。砂がこれ以上動かんうちに、やるしかない。今夜のうちに水門を閉じて、水を下げておく。――本番は、明日じゃ」
船着き場が、しんと静かになった。
すでに何度も事前確認を済ませたはずなのに、まるで明日がぶっつけ本番であるかのような気分だった。




