第70話 みんなで歌う準備
――〈深流域〉の近くまで町のみんなを連れて行き、一緒に歌ってもらう。
夜が明けてすぐ、昨日の作戦を雨の神さまへ相談すると、こんな答えが返ってきた。
「なるほどね。でも、町の人間たちまで〈深流域〉の近くにくる必要はないわ。わたしの耳にみんなの歌や鈴の音が届きさえすれば――わたしの力は今よりも大きくなり、さらに長いあいだ、水流の勢いを弱められるようになるはずよ」
つまり、本番では町の中でみんなが子守唄を歌い、鈴を鳴らせばいいということか。
「でもそうなると、町のみんなからは雨の神さまの歌が聞こえなくなるよね。雨の神さまが力を使うのに合わせてみんなの歌を届けられればいいんだけど、どうしよう?」
わたしが疑問を口にすると、リコが胸を張って言った。
「鐘の場所を調べたときみたいに、あちこちの橋に旗を持たせた子供たちを立たせるってのはどう? これなら湖の近くから順番に合図を送っていけば、最後には町の中まで伝わると思うんだけど。あ、でも旗だと場所によっては見えないかもしれないから――旗と一緒に、鈴も鳴らす、とか?」
「なるほど。それならいけそうだね」
リコの案をラギがすぐに帳面にまとめ始める。
「じゃあ、鈴を一回鳴らしたら『準備開始』の合図。二回鳴らしたら『歌って』の合図。そして三回鳴らしたら、『歌いながら鈴も鳴らして』の合図。で、それよりも多く鳴らしたら『歌も鈴も止めて』――って感じでどうかな?」
「うん。それなら覚えやすい!」
リコがうれしそうにうなずいていると、リコのおじいさんがラギの帳面をのぞき込んできた。
「三回鳴らす合図は、最後まで取っておいたほうがいいじゃろう。鐘が底を離れて、浅瀬まで引き寄せる最後のひと押し――おそらくそこが、わしらにとっても雨の神にとっても、いちばん力の要るところじゃろうからな」
すると今度は、足元でノワが顔を上げて言った。
「合図を間違える者がおれば、作戦が一気に乱れる恐れがある。子供たちには何度も練習させたほうがいいのである」
もっともな指摘だったので、そのあとすぐ、リコによる子供たちへの指導が始まった。
「鈴を一回鳴らすと――?」
「歌う準備ー!」
「二回鳴らしたら――!」
「歌うー!」
「三回目は――!」
「鈴も鳴らすー!」
子供たちの元気な声が、水路に響き渡っていた。
◇◇◇
昼からは、湖の上での作業も始まった。
本番に備えて、〈深流域〉の周囲にある安全な浅瀬に大きな石を沈め、〈浮き台〉を固定するための綱を張るのだ。
リコのおじいさんとその仲間の人たちが次々と水の中へ入っていき、息継ぎのたびに冗談を言い合いつつも、石や綱を固定する場所を慎重に確かめていく。
彼らの中には、少し前まで教会に雇われ、神殿を鉛板で覆う作業を手伝っていた人もいる。
それが今では、雨を呼ぶ鐘を引き上げるために、こうして湖に潜っている。
「あの……すみません。ここまでしてもらってるのに、僕たちからはちゃんとした賃金を出せなくて……」
ラギが申し訳なさそうに言うと、職人さんのひとりが、水面から顔を出して笑った。
「金はいいよ。その代わり……昼飯を頼んでもいいかね」
「それならあたしに任せな!」
いつの間にそこにいたのか、岸から、〈雨やどり〉のおかみさんの声が飛んできた。
その声の勢いに釣られるように、リコも上着を脱いで潜る準備を始める。
「あたいも潜る!」
「浅いところだけじゃぞ。張った綱より〈深流域〉側へは絶対に行くな。いいな?」
「わかってるって! じいちゃんと一緒に潜るの、久しぶりだなあ」
リコがおじいさんと一緒に湖へ飛び込む。
水面が大きな音を立てて弾けると、そのすぐ近くでおかみさんが負けじと大鍋の前から声を張り上げた。
「働いたらその分、たんと食べな! おかわりならいくらでもしていいよ!」
辺りには次々と笑い声が上がり、そしてまた、誰かが水へと飛び込んでいく。
しばらくして水面に戻ってきたリコのおじいさんが、わたしのそばまで来て小さく言った。
「四十年前に水抜きが行われなくなってから、神殿のことを気にかけとったのは、わし一人じゃった」
「……はい」
「今や、こんなにも大勢の者がおる」
作業をしているみんなを見つめるその横顔が、わたしの目にはとても嬉しそうに映った。
◇◇◇
その日の夕方、町からこんな報告が届いた。
以前、子守唄をそらで歌ったことで話題になった、あのおばあさんの家の近くに何人もの人が集まり、歌の練習を始めているとのことらしい。
そんな調子であの子守唄を知っている人がどんどん増えていき、今度、みんなで雨を呼ぶ鐘を迎えるために歌おうとしている。
そのことがすごくうれしくて、わたしは夜になるとすぐに湖へ向かい、雨の神さまに伝えた。
わたしの話を聞くと、雨の神さまは町のほうへ耳を向け、満足そうに目を細めた。
「ええ、素敵よね……本当に。今もあちこちから、歌を練習している声が聞こえてくるわ」
「うん……本番ではみんなで雨の神さまの力になるから、期待しててね!」
「あら。力なら今もみんなからもらってるのに……本番はどうなるのかしらね。楽しみだわ」
そう言って笑う雨の神さまの毛並みは、昨日より少しだけ艶を取り戻しているように見えた。
◇◇◇
湖から帰る途中、水路を通っていたときだった。
「……ミオ、あそこ」
リコが指差したのは、対岸のほうだった。
そこには、役割を終えた〈雨の御礼式〉用の飾り舟や道具が、一箇所にまとめられていた。
その端に、白い外套を着た――ヴァルドが立っているのが見えた。
そばにはお供の修道士はおらず、どうやら彼ひとりのようだ。
ヴァルドの視線は、船着き場のほうに向けられている。
その先にあったのは――雨を呼ぶ鐘を引き上げるために集められた浮き樽。干してある太い綱。何隻もの舟。そして、大鍋のまわりに集まる町の人たち。
彼はただ静かに、その様子を眺めているようだった。
「……何してるんだろう」
リコが小声で言う。
「さあ……」
やがてヴァルドは、結局何もしないまま、奥へ歩いていった。
その様子に、わたしはなぜか、少し落ち着かない気分になった。
鐘を引き上げる準備をしていることは、もう教会にも知られているはずだ。
ヴァルドは、そんな町の人たちを見て、何を考えていたんだろう。




