第69話 水に子守唄を乗せて
結局、雨の神さまの言葉の真意がわからないまま、翌朝を迎えてしまった。
今日は予定どおり、これから雨の神さまがどれだけ〈深流域〉の流れを抑えていられるかを確認することになっている。
すでに〈浮き台〉は〈深流域〉から十分に離れた場所に設置され、周囲には見張りの舟が配置されている。
リコの舟には、わたしとリコのおじいさん、それに時間を測るための蝋燭を持ったラギが乗っている。ノワは見に来ることこそ宣言どおりだったけれど、舟には乗らず、船着き場の安全なところに陣取り、古い麻布の上からこちらを見ていた。
「そろそろ始めますか?」
「ああ、雨の神が力をお使いになったら、すぐに蝋燭に火をつけてくれ」
おじいさんはそう言ってラギに目配せをしたあと、その場の全員に改めて念を押した。
「水流の勢いが少しでも元に戻り始めたら、すぐに綱を捨てろ。こんなもん、いくらでも替えが利くんじゃからな。命には代えられん。それだけは忘れるな」
誰もが、その言葉に強くうなずく。
しばらくすると、雨の神さまが水の上を歩いてきた。
そして〈深流域〉から少し離れたところで止まり、その場で静かに座り――。
子守唄を、歌い始めた。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
やはりわたし以外の人には猫の鳴き声にしか聞こえていないみたいだけど、それでも、いつもとどこか様子が違うことはみんなにも伝わっているようだ。
「ねえミオ……もしかして、歌ってる?」
「うん。わたしのおばあちゃんの、子守唄」
そして、歌い始めてからしばらくして――〈深流域〉に変化が現れ始めた。
水面を回っている渦の流れが、少しずつ弱くなっていくのがわかる。
そのうち渦に流されていた木の葉たちも一斉に動きを止め、やがて、水面はほとんど動かなくなった。
「今だ! 蝋燭!」
おじいさんに言われて、ラギは瞬時に蝋燭に火をつけた。
続くおじいさんの合図で、重りをつけた綱を水の中へ下ろしていく。
一昨日は綱がすぐに流されてしまった場所――ところが今、目の前では綱がほぼまっすぐ下へ沈んでいっている。
「綱の印を数えるんじゃ!」
「十七……十八……十九……二十! もう少し下!」
ラギが綱につけておいた目印を順に数えていく。
数は止まることなく――やがて、綱がふっとたるんだ。重りが、湖の底に届いたのだ。
「……届いたか。よし、引き上げろ!」
おじいさんの合図で、みんなでそろって綱を引っ張り、舟の上に戻す。
続けて濡れた重りが、無事に水面へと上がってきた。
「やった、成功……!」
リコが嬉しそうに声を上げる。
「次、もう一度じゃ」
二回目も同様に綱はまっすぐ下りていき、何事もなく無事に引き上げることができた。
――すごい……これが雨の神さまの力、なの?
子守唄を歌っているあいだ、〈深流域〉の流れはまるで問題にならなかった。
これならいける――そう確信しつつあったんだけど……。
しばらくして、雨の神さまの歌声が、少し弱々しくなった。
と、同時に、水面にも変化が現れる。
「渦の勢いが戻ってきたぞ!」
細い水の筋がひとつ、ふたつと現れ、水面で静止していた木の葉たちが再びゆっくり回り始めた。
「終わりじゃ! すぐ綱を上げろ!」
おじいさんのかけ声で、すぐに綱を回収する。
「……ちょうど蝋燭一本分ってところみたいだね」
みんなの視線が、一斉にラギの手元の蝋燭へと向けられる。
……ラギの言うとおり、素手で持てる箇所は、もうほとんど残っていなかった。
◇◇◇
雨の神さまが、水の上をゆっくり歩いて戻ってくる。
一見すると、いつもと変わらない――けれど、歩く速度がいつもより少し遅い気がする。銀灰色の毛並みも、艶がわずかに失われているような……。
船着き場にいるノワも、そんな雨の神さまをじっと見つめていた。
「……大丈夫?」
「あら、心配は無用よ、声結びさん」
「えっと……うん、わかった。ありがとう、雨の神さま」
「ふふ、どういたしまして」
雨の神さまは少しだけ目を細めてから続けた。
「昨日わたしが言ったこと、理解できた?」
「……少しだけ。力ずくで渦を止めるわけじゃない、って、ああいうことだったんだね」
「そうよ」
その視線が、〈深流域〉へと向けられる。
「さっきは、水の流れに自分の力を伝えて、その勢いを歌に合わせてもらったの。無理に力で押さえつけるより、ずっと楽に流れを弱めることができるわ」
「……でも、今の雨の神さま、ずいぶん疲れてるみたいだけど」
「そりゃあね。目を覚ましてから、こんなに大きな力を使ったのは初めてなんだから」
そう言って、何でもないように前足をなめ始める。
ただ、いつもより動きにキレがない。疲れを隠し切れない程度には、やっぱり消耗しているようだった。
ひとまず、みんなで船着き場に引き返す。雨の神さまも水の上をついてくる。船着き場では、ノワが咳払いをしながら迎えてくれた。
「……娘よ。見事であった、と伝えるのである」
「あら。そんなひそひそ内緒話をしていないで、直接言えばいいじゃない」
「ぐぬ、この地獄耳め…………み、見事であった……のである」
雨の神さまが、心底愉快そうに笑う。
ノワはそれきり口を閉ざし、黙々と毛づくろいを始めてしまった。
◇◇◇
夕暮れどきの船着き場で、わたしたちは今日確認できたことを整理することにした。
「流れを弱められるのは、蝋燭一本分くらいか」
リコのおじいさんが腕を組みながら、ほとんど燃え尽きてしまった蝋燭を見下ろす。
「思ったよりは長く抑えられるみたいだね。けど……それでも鐘を引き上げるには、まだ足りないかもしれない」
ラギが帳面を見ながら言った。
「綱とフックを鐘にかけて、それから水門を使って鐘を持ち上げて、そのまま水辺近くまで移動させる……これだけの作業をすべてこなすとなると、今の倍以上は欲しいところだね」
わたしは湖のほうを見ながら、さっきの雨の神さまの疲れた姿を思い出していた。
「……でも、何回もやってもらうわけにはいかないよ」
「うん。僕もそれは考えたくない」
ラギは帳面を閉じると、みんなを見回しながら言った。
「なんとか雨の神さまの負担を増やさずに、流れをさらに長い時間抑えられないかな?」
誰もその問いには答えられず、そのままみんなして考え込んでしまう。
そしてしばらくして――リコのおじいさんが、口を開いた。
「嬢ちゃん。さっき聞かせてくれた話じゃが、雨の神は、歌いながら水へ力を伝えていた、とおっしゃっていたのじゃろう?」
「は、はい」
「歌が力になるってなら……町のみんなの歌も、何かの助けにはならんかの?」
その提案に、ラギが首をかしげながら答える。
「うーん、普通の人が〈深流域〉まで歌を届けるのは、難しいんじゃないですかね?」
すると、リコがなんでもないかのようにあっさりと言った。
「だったら、近くで歌えばいいじゃん」
「え?」
「町からできるだけたくさんの人を、〈深流域〉の近くまで連れていくの。これだけ近くから大勢の歌声を重ねれば、さすがに届くんじゃないかな?」
わたしは顔を上げた。
そうだ、町にはもう、あの子守唄を歌える人がたくさんいるのだ。
そしてたくさんの人を、〈深流域〉の近くまで連れて来られる〈浮き台〉も、すでにある。
――雨の神さまだけに任せる必要なんて、ないんだ。




