第67話 〈浮き台〉と〈深流域〉
――鈴の音は、ちゃんと覚えられましたか?
朝になっても、昨日聞いたヴァルドの言葉が頭から離れずにいた。
それにギドがなんと答えたのかはわからない。わたしたちは、あのあとすぐに水路を離れてしまったからだ。
……考えるのはあとにしよう。
なにせ今日から、雨を呼ぶ鐘を引き上げる準備が始まるのだから。
◇◇◇
朝の船着き場は、舟でいっぱいになっていた。
「そこ、もう少し詰めて! 隣の舟と位置をずらして並べて!」
リコの指示で、船頭たちが二十隻ほどの舟を並べていく。舟同士を太い綱でつなぎ、その間には浮き樽を入れて固定する。全部を一つにつないで、大きな足場――〈浮き台〉を作るのだ。
「ここまでくると舟っていうより、もはや小さな島みたい……」
「雨を呼ぶ鐘はものすごく重いんだから、これくらいやらなきゃなんだよ! じいちゃんが言うには、半端な作りじゃこっちが逆に引っ張られちゃうんだってさ」
できあがりつつある〈浮き台〉の上では、ノワがあちこちを歩き回っていた。
前足で板を踏み、綱の結び目を確かめているようだ。
「娘よ。ここが少し緩んでおるようだぞ」
「リコ。ここ、少し緩んでるかもだって」
「あ、ほんとだ。クロちゃん、お手柄じゃん!」
リコに首の後ろを撫でられて、ノワはぶるっとヒゲを震わせていたけれど、そこで止まることはなく、続いて次の結び目へと向かっていった。
一方、ラギはというと、船着き場の端で帳面とにらめっこしていた。
「太い綱が六十本、浮き樽が四十……昨日の夜数えたときよりもさらに増えてるなあ。この町の人たち、こんなに用意してくれるなんて、ずいぶん気前がいいね」
「それだけあの鐘が、町のみんなにとって大切なものなんだよ」
ラギにそう言いながら辺りを見渡してみると、船着き場の近くで〈雨やどり〉のおかみさんが大鍋を三つも並べているのが目に入ってきた。準備を進めている人たちに、朝と昼の食事を用意してくれているらしい。
「お代はいらないよ。祭りの準備を手伝ってる連中から金なんて取れるかい」
おかみさんはそう言って笑っていた。
おいしそうな湯気が上がり、綱を引く声や木槌の音があちこちで響き渡る――。
その光景は、昨日の〈雨の御礼式〉よりも、ずっとお祭りらしく見えた。
◇◇◇
昼になると、リコのおじいさんが〈浮き台〉の上へみんなを集めた。
おじいさんは足元の板に、木炭で湖と〈深流域〉の絵を描く。
「わしたちがやらなきゃならない作業は、大きく分けて三つじゃ」
そう言って、まず中央に描いた〈深流域〉を指した。
「一つ目。雨の神に〈深流域〉の流れを弱めていただく。そうすると、そのあいだだけ鐘の真上で作業ができるようになる」
雨の神さまは、以前、力を貸すと言ってくれた。ただ、昨日のうちに改めて確かめてみたら、「どれくらいの時間、流れを弱められるのかはわからないから気を付けてね」とのことだった。
「二つ目。流れが弱まっている間に、上から綱とフックを下ろす。鐘の場所は、嬢ちゃんの力で確かめてもらうことになる」
おじいさんはそう言ってから、続けて水門の絵を木炭で囲った。
「そして三つ目が水門だ。水門を閉じて湖の水位を少し下げ、その状態で鐘と〈浮き台〉を綱でつなぐ。それから水門を開けて、水を戻す」
「水が戻ったら、どうなるの?」
「この〈浮き台〉も水と一緒に上がっていくことになる。その力を利用して、鐘を水底から持ち上げるんじゃ」
人の力だけで引き上げるのではなく、水位が戻る力を利用するらしい。
ラギが帳面から顔を上げて言った。
「僕が借りてきた滑車六つはいつ使うんですか?」
「鐘が十分持ち上がってからじゃな。最後のひと押しってところで、滑車と人の力で引き上げる」
その説明を聞いて、わたしは雨の神さまから力の使い方を教わったときのことを思い出していた。
――自分の力だけでなんとかしようとするのではなく、水の流れを利用すればいい。
あのときの教えは、《猫語り》の力を使うときだけでなく、これからもっといろんな場面で活きてくるのかもしれない。
「それから、一番大事なことを言っておくぞ」
おじいさんが木炭を置き、みんなを見回した。
「いいか、〈深流域〉では、決して中に潜るな。たとえ流れが弱まっていたとしてもじゃ。作業は全部、水の上からやる。いいな?」
「はい!」
リコだけでなく、手伝いに来ていた子供たちまで声をそろえて元気に返事をしていた。
◇◇◇
その日の夕方、リコのおじいさんの提案で、〈深流域〉がどれほど危険なのかを改めてみんなで見ておくことになった。
おじいさんは古い綱の先に石をくくり、途中には水漏れする古い樽を結びつけた。
リコが舟で〈深流域〉の渦から少し離れた場所まで向かい、そこから水面へ石を落とすと、綱がするすると沈んでいって古い樽だけが水面に残された。
最初は何も起こらず、ただ浮いているだけだった樽が――。
次の瞬間、水面を急加速して流れ出し、大きく円を描きながらあっという間に渦の中心へと近づいていく。
「リコ! 綱から手を離せ!」
おじいさんの怒声が飛ぶや、リコはすぐさま綱から手を離す。
綱はみるみるうちに水の中へと引き込まれていき、ついには水面に浮かんでいた樽までもが水の中へと沈んでいった。
大した水しぶきも上がらず、まさに一瞬の出来事だった。
あれほど大きな樽が、こんなにあっさり……。
話には聞いていたものの、いざその恐ろしさを目の当たりにすると、誰もが思わず絶句してしまった。
「……確かに人間が巻き込まれれば、ひとたまりもないのである」
ノワがぼそりとつぶやくように言った。
さっきまでと変わらず、〈深流域〉の水面は夕日を反射してキラキラ輝いている。
こうして見ているだけなら、とても静かできれいな光景だ。
でも、そのすぐ下では、すべてを飲み込んでしまうほどの激流が渦巻いている。
わたしはふと、自分の手を見下ろした。
無意識のうちに強く握りしめていたようで、手のひらには痛々しい爪の跡がいくつもついていた。




