第62話 藍色の飾りがついていて、ヒビのないきれいな鈴でしたよね
謎の古い杭については、ひとまずリコのおじいさんに任せることになった。杭をリコの家の軒下に立てかけ、町のお年寄りのみなさんに心当たりがないか聞いてくれるそうだ。
ちなみにノワも雨の神さまも、あの杭のことは知らなかった。なのでいつから湖の入口にあったのか、今のところ手がかりはない。
次の日になっても杭のことは当然気になったものの、その日は朝から〈雨やどり〉のおかみさんが騒ぎを起こしたせいでそれどころではなくなった。
「あたしはもう待たないよ」
おかみさんは腕まくりをすると、きっぱりそう言った。
昨日、教会が杭の撤去を認めたことが、よほど嬉しかったらしい。
町の人が自分たちの望みをはっきりと伝えれば、教会もちゃんと聞いてくれるのだ。だったら鈴だって――と、おかみさんは張り切っていた。
「屋台の鈴を返してもらいに行ってくる。式典なんてもう待たないよ」
「ちょっとおかみさん。それは……」
ラギはおかみさんを止めかけたように見えたが、すぐに口を閉じて黙り込んでしまった。
それから何かを考えていたかと思うと、やがてゆっくりとうなずく。
「……そうですね。今の教会なら、町の人が心からお願いすれば、案外すんなりと聞いてくれるかもしれません」
おかみさんは「だろ?」とにっこり笑うと、わたしたちに手を振りながら教会堂のほうへ行ってしまった。
わたしは、ただその背中を見送るしかなかった。何か手伝えることはないかと考えもしたけれど、どうやら今は待つしかないようだ。
◇◇◇
おかみさんが出ていってから、半日が過ぎた。
わたしとリコは、おかみさんの代わりに〈湖畔市〉で店番をしていた。汁を運び、器を片づけながら、何度も教会堂へ続く道を見やる。ノワも出店の長椅子の上で丸くなっていたけど、耳だけはずっと教会堂のほうを向いていた。
「……まだかなあ」
リコがおかみさんを案じるのは、これで何度目だったか。
――結局、おかみさんが戻ってきたのは、昼を過ぎたころだった。
その手に、鈴はなかった。
けれど、怒っているようにも見えず、何も言わず前掛けを締め直し始める。
そしてまず、待っていた客に汁をよそい、それからようやく長椅子に腰を下ろした。
「……話、聞きたいかい?」
「聞きたい!」
リコが勢いよく答える横で、わたしも大きくうなずいた。
◇◇◇
教会堂で応対に出てきたのは、ギドだったらしい。
「最初は『鈴は式典当日にお返しします』の繰り返しでね。あたしも腹が立ってさ。だから言ってやったんだよ。あんた、そもそもちゃんと返せるんだろうね? 数えきれないほどある鈴の中から、あたしの鈴がどれかちゃんと見つけられるんだろうね? ――ってさ」
おかみさんは、そこでお茶をひと口飲んだ。
「そしたら、あの人……何も見ずにそらで答えたんだよ」
――藍色の飾りがついていて、ヒビのないきれいな鈴でしたよね。確か、紐は三つ編みで……。
「完璧だったよ」
おかみさんは、湯呑みを見つめたまま続けた。
「あの紐は、この店の先代が編んだものなんだよ。店を任されたときに、鈴も一緒にもらってね。……あの子、帳面も預かり証も見ないで、ただあたしの顔をまっすぐ見て言ったんだ。鈴なんて、本当に無数にあるはずなのに、ちゃんとうちの鈴の特徴を言い当てたのさ」
確かにギドは、家を一軒ずつ回って鈴の形や傷を記録していた。
でも、それだけではなく、その帳面を何度も読み返していたというのだろうか。
わたしは、帳面を大切そうに抱えていたギドの姿を思い出していた。
「それでね、最後に深く頭を下げて、こう言ったんだ。『必ず、お返しします』って」
ギドが、鈴を預かったときにも言っていた言葉だ。
おかみさんは、少し照れくさそうに鼻をかいた。
「そこまでされたらさ、あたしもそれ以上意地を張ってるのがなんだか恥ずかしくなっちまってさ。だからついぽろっと、うちの鈴の音まで教えちゃったんだ。低くて、ちょっとこもった音で……うちの旦那の笑い方に似てるんだよ、って」
前はギドの質問に何も答えず、あとになって「次に来たら教えてやってもいい」なんてことを言っていたけれど、まさか自分から出向いて教えることになるとは……。
「そうしたら、そこで初めて帳面を開いてね。ずいぶん一生懸命な顔で音のことを記録していたよ」
おかみさんは、困ったように笑った。
「鈴を取り返しに行ったはずなのに、結局、思い出話だけして帰ってきちまった」
「じゃあ、鈴は?」
「式典の日まで待ってください、だとさ。そこは譲らなかったよ。まったく、頑固な人だね」
リコの問いに、おかみさんは鼻を鳴らした。
それから、誰に言うでもなくつぶやいた。
「……あの人は、あたしたちの味方なのかね」
教会に何度も文句を言ってきたおかみさんが、そんなことを言うとは思わなかった。
長椅子の下にいたノワのしっぽが、わずかにピクリと動くのが見えた。
◇◇◇
夕方、店仕舞いの支度をしていると、おかみさんが「あ、そうそう」と話を切り出した。
「帰るときに、廊下の奥で司祭さまを見かけたよ」
「……ヴァルド司祭を?」
「そう。いつからいたのかは知らないけど、にこにこ笑ってたねえ。あたしが頭を下げたら、向こうも笑ったまま頭を下げてくれたよ」
思わず運んでいた器を落としそうになった。
――ヴァルドが、そこにいた。
御礼式の発表があったあの日、やっぱりおかみさんは教会に目を付けられてしまっていて、ヴァルドがそこにいたのもおかみさんの動向を追っていたからなのだろうか。
そしてギドのほうは、ヴァルドがそこにいたことに気づいていたのだろうか。
もし気づいていたなら、どんな気持ちでおかみさんとあんな話をしていたんだろう。
わたしは気持ちの整理がつけられないまま、黙って教会堂のほうへ目を向けた。




