第61話 湖の杭を抜こう
ひと晩経った今も、わたしは昨日のギドのことを考えていた。
子供たちの歌をただ聴くだけで、何もせずに帰っていったあの人は、いったい何を考えていたんだろう。
答えは一向に見つからず、悶々とした気分で朝ごはんを食べていると、ラギが紙の束を抱えてリコの家に飛び込んできた。
「おはよう、ミオちゃん。今ちょっといいかい? 実は今日、町のみんなから教会に、あるお願いをしてきてもらおうと思ってるんだ」
「お、お願い?」
「鈴の件の前に、一度試しておきたいことがあってね」
一緒に食べていたリコが、お椀から顔を上げた。
「何をお願いするのさ?」
「湖の入口にある杭を、撤去してもらおうと思って」
湖へ続く水路には、教会が立てた杭と立ち入り禁止の札が今も残っている。先日の水抜きの際に、神殿を封じる作業のために前もって設けられたものだ。
最近はみんな気にせず舟を出しているけれど、正式に撤去されたわけではない。教会がここで立ち入り禁止と言い出せば、またすぐに舟は出せなくなるだろう。
「前に教会が湖の入口に立てた札、覚えてる? 『水抜きの期間中、南の湖への立ち入りを禁ずる』って書いてあったやつ」
「うん」
「つまりあの杭は、水抜きのあいだだけ湖に近づくなっていうためのものなんだ。しかも教会は『我々が水抜きを止め、湖に水を還した』って自分たちで演説してる。なら、水抜きが終わった今も残しておく理由なんて、ないと思わない?」
「……確かに!」
リコが勢いよくお椀を置いた。
「だから、町の人が杭の撤去をお願いするのも、至って当たり前の主張ってわけ」
古い麻布の上で丸くなりながら聞いていたノワが、鼻を鳴らした。
「己から言い出したことであれば、さすがに否定もしにくかろう。試す価値はあるのではないか」
「ノワもラギに賛成みたいだよ」
「ありがとうノワ様! じゃあ、話を次に進めるね」
ラギが抱えていた紙を広げる。
それは、杭と札の撤去を求める申入れ書だった。
最初に〈雨やどり〉のおかみさんの名前があり、その下にリコのおじいさんや船頭たちの名前がずらりと並んでいる。
「あえて僕らの名前は入れてない。これはあくまで、町の人たちからのお願いってことにするんだ」
「もうみんなに話したの?」
「昨日の夜にね。おかみさんなんて、すぐに賛成してくれたよ」
「もうそんなに進んでるんだ。でも、なんで急に?」
そう尋ねると、ラギは少し声を落とした。
「鈴を早く返してもらうために何かするにしても、結局いつかは教会にお願いしなきゃならないわけでしょ? それまでに少しでも外堀は埋めておいたほうがいいと思ってさ。それに、いざ湖の底から鐘を引き上げるってなったときは、大勢の人手と舟が必要になるから、そのときになって諸々禁止にされないようにしておかないといけないしね」
ラギは窓の外の湖を見た。
「とまあいろいろ言ったけど――結局のところ、せっかく雨の神さまが目覚めたのにいつまでも立ち入り禁止のままじゃおかしい――っていうのがいちばんの理由かな」
◇◇◇
昼過ぎ、わたしは広場の屋台の陰から、教会堂の前を覗いていた。
先頭に立つ〈雨やどり〉のおかみさんをはじめ、リコのおじいさんや船頭たちがぞろぞろと門の前に集まっている。対応に出てきた修道士は、申入れ書を渡されて、すぐに困った顔になった。
「湖は、その……教会が大掛かりな作業を行ったばかりですので」
「その作業はもう終わったんだろう?」
おかみさんの声が広場に響いた。
近くの屋台でも、大勢の客や店主らが手を止めて、その様子を見つめている。
「あんたたちが立てた札にだって書いてあったじゃないか。『水抜きの期間中』ってね。その水抜きだって、演説で『止めた』って言ってただろう?」
「し、しかし、皆さまの安全を考えますと……」
「どこが危なくてどこなら通れるかなんぞ、わしらのほうがよく知っとるわ」
おじいさんが落ち着いた声で答えると、船頭たちもうなずいた。
修道士は申入れ書に目を落としたまま、返す言葉を探しているようだった。
「ええと……その……」
しばらく考え込んだあと、ようやく口を開く。
「……上の者に確認して、改めてお返事いたします」
「そうかい。じゃあ、頼んだよ。式典まであと六日だから、あんまり待たせないでおくれ」
おかみさんは笑顔でそう言うと、みんなを連れて〈湖畔市〉まで帰ってきた。
ひとまず怒鳴り合いに発展するようなこともなく、平和に終わったのはよかった。
教会側は最後まで返す言葉に困っていたけれど、果てさてどうなることやら。
◇◇◇
日が沈み始めたころになって、教会からの返事が届いた。
「僕らのお願い、認めてもらえたみたいだよ」
ラギが持ってきた紙には、杭と札の撤去を認め、作業を町の船頭たちに任せると書かれていた。
「案外早かったね」
「式典を目前にして町の人たちと揉めたくなかったんだろうね。今朝も言った通り、教会にもここで断る理由はなかったわけだし」
船頭たちは返事を聞くと、さっそく舟を出した。日が沈みきる前に、できるところまで杭を抜いておきたいとのことだ。
湖の入口には何隻もの舟が並び、船頭とリコのおじいさんたちがまず杭のあいだに張られていた縄を外してから、杭に綱をかけて引き始めた。
「せーの!」
という掛け声とともに、誰かが子守唄を歌い出す。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
それにつられて、他の人たちも歌い始める。
歌に合わせて綱を引くと、一本目の杭が泥の中から抜けた。
「抜けたー!」
見物していた子供たちが歓声を上げる。
そのあとも杭は次々と引き抜かれていき、舟が通れる場所が少しずつ広くなっていった。
雨の神さまも湖の水面に座り、その作業を眺めていた。
「ようやく片づけてくれるのね。あの杭、ずっと気になっていたのよ」
「よかったね。もうすぐ全部なくなるよ」
「ええ。……それに、今日も賑やかでいいわね」
綱を引く掛け声と、ところどころ音程の外れた子守唄。
雨の神さまは気持ちよさそうに耳を動かしていた。
ちなみに立ち入り禁止の札は、リコが外していた。
札を裏返して肩に抱えながら、得意そうに笑う。
「これ、あたいがもらっていい? もう使わないでしょ?」
そうこうしているうちに、杭は早くも残り一本となっていた。湖の入口の中央に残っていた、ひときわ太い杭だ。
みんなで杭に掛けた綱を引くと、泥に埋まっていた根元がようやく水面に現れる。
そのとき、リコのおじいさんが急に手を止めた。
「……おかしいな」
「どしたの、じいちゃん?」
おじいさんは、引き上げた杭の根元をじっと見ていた。
「この杭だけ、木を継ぎ足しとる。新しい杭を打ったんじゃない。もっと古い杭の上に、別の木をつないで打ち直したんじゃ」
「古いって、どれくらい?」
「わからん。ただ、下の木はずいぶん古い。もしかすると、わしが生まれる前からここにあったのかもしれん」
さっきまで賑やかだった船頭たちも、固唾を呑んで杭をのぞき込んだ。
教会が水抜きのために立てたと思っていた何本もの杭。
その中に一本だけ、ずっと昔からここに打たれていた杭が、あったらしい。




