第55話 もう一度、歌ってくれる?
なぜか、雨の神さまの前で歌うことになってしまった。
うっかり「歌えるけど」なんて答えたのがいけなかった。
神殿の掃除のほうは今日も順調とのことで、〈湖畔市〉も相変わらず賑わっている。稽古を続けているおかげで、《猫語り》として少しずつ成長できてもいる。
これで歌のことさえなければ……と、そんなことばかり考えていたら、あっという間に夕方が近づいてきた。
雨の神さまとは、今日の夕暮れ時、湖が静かになったころに向かうと約束してしまったのだ。
すぐに歌えと言われたわけじゃないのに、なんでわたしはあのとき「ひと晩だけ待って」なんて言っちゃったんだろう……。
幸いなことに、リコは夕食の支度があるからと言って、おじいさんの舟に乗って家に帰っていった。少しでも聴衆が減ってくれるのはとてもありがたい。
というわけで、今、リコの舟に乗っているのは、わたしとノワだけだ。リコに教わったとおりにやれば、湖の真ん中くらいまでならわたしでも何とかなるのだ。
「ねえ、ノワ……笑わないでね?」
「吾輩は王であるぞ。そんなことで笑ったりするものか」
「ほ、ほんと?」
「……なるべく努力するのである」
「王さま失格だよ!」
そんなわたしたちのやり取りを、雨の神さまは水面の上で黙って眺めていた。
そしてわたしとノワが静かになったところで、やれやれとため息をつきつつ、改めてわたしに向き直る。
「さあ、声結びさん。あなたの歌を聴かせてちょうだい」
「わ、わかった。えっと……なんの歌でもいいの?」
「――あなたがいちばん最初に覚えた歌がいいわ」
いちばん最初に覚えた歌……それって――。
考えるまでもなかった。
おばあちゃんの、子守唄だ。
小さいころ、夜眠れないでいると、おばあちゃんは背中を優しく叩きながら、子守唄を歌ってくれた。
あの歌なら、たぶん、大丈夫。
わたしは覚悟を決め、大きく息を吸い、そして――その歌を口にした。
――ねんね、ねんね、雨の子や。
――水のお宿で、夢をみな。
――ちりん、ちりんと、鈴が呼ぶ。
――起きておいでの、朝がくる。
……日の暮れかけた湖の上には他の余計な音がない分、声が思ったより遠くまで響いてしまった。誰かに聞かれてたらどうしようと今さらになって慌ててしまう。
肝心の聴き手である雨の神さまはというと……しばらく何も言ってこなかった。
目を閉じ、耳をこちらへ向けたまま、ただじっとしているだけ。
「……その歌」
ようやく上がった声は、いつもより少し静かだった。
「どこで覚えたの?」
「おばあちゃんが歌ってくれた子守唄なの。……あの、雨の神さま。ずっと聞きたかったんだけど――おばあちゃんの名前、知ってたよね? どうして?」
「ああ、そのことね」
雨の神さまは、水面へ視線を落とした。
「昔ね、神殿の扉の前で、その歌をずっと歌っていた子がいたの」
「え……この、子守唄を?」
「そう。それも三日間、毎日。ちょうど湖の水抜きが行われたときに、大人の目を盗んで神殿にやってきたんでしょうね。……あの子ったら、扉の向こうにいるわたしに、何度も何度も聴かせてくるのよ。正直あまり上手とは言えなかった。それなのに、ちっともやめてくれなくって」
リコのおじいさんが言うには、水抜きは四十年前くらいまでは伝統的に行われていたらしいから、確かにおばあちゃんが若いころに来ていてもおかしくはない。
雨の神さまが、どこか懐かしそうに青い瞳を細める。
「とうとう耐えられなくなって、仕方なくわたしの方から話しかけてしまったわ」
「……その人って、まさか……」
わたしは、うるさく鳴り続ける胸をなんとか抑え込みながら尋ねる。
雨の神さまは、とても優しい声で、その名を口にした。
「そう――カヤよ」
やっぱり、そうだったんだ。
おばあちゃん、わたしよりもずっと早くに、ここに来てたんだ。
「……それで、なんて声をかけたの?」
「それはもう、『うるさい!』って言ってやったわよ」
「え……ええ?」
「ふふ。そしたらあの子、うれしそうに笑って『やっと返事してくれた!』って言うのよ」
わたしは思わず笑ってしまった。なんともまぁ、おばあちゃんらしい。
「でも、あれって子守唄なのに、なんで寝ている雨の神さまに歌ってあげてたんだろ? しかも三日間毎日って、なかなかしつこいよね?」
「さあ? 他の人間に比べると、かなり変わった子だったみたいだから……何を考えていたのやら」
口ではそんなことを言いながらも、雨の神さまはなんだか楽しそうな表情をしていた。
「あのね、雨の神さま。言いづらいんだけど、おばあちゃんは……二年前に――」
すると、雨の神さまは楽しげな表情を崩さないまま、静かに首を横に振った。
「言わなくていいわ」
「……え?」
「――あなたのその鈴」
言われて、咄嗟に胸元の鈴をギュッと握る。
「カヤが大事にしていた鈴を、今はあなたが持っている。とても大切にしてくれている。それをこの目で見られただけで……十分よ」
雨の神さまに初めてちゃんと挨拶をしに来たあの日、彼女はこの鈴の音を聞いて「やっぱり」と言っていた。
思えば、あのとき、雨の神さまは気づいてしまっていたのだろう……おばあちゃんが、もうこの世にはいないということに。
わたしはかける言葉が見つからず、助けを求めるようにノワのほうを見た。
でも、ノワは誰とも目を合わせようとせず、ただじっと、しっぽをゆっくり動かしているだけであった。
ノワは今、何を考えているんだろう。
おばあちゃんのことだから、きっとノワにも、あの子守唄を聴かせていたに違いない。
――ノワは、おばあちゃんのこと……どう思ってたの?
なんて、聞けるはずもなく。
結局誰にも声をかけられないまま、わたしまで黙り込んでしまっていると――。
「ねえ、声結びさん」
不意に雨の神さまが、わたしを呼んだ。
「……もう一度、歌ってくれる?」
「――っ、うん!」
わたしはもう一度、子守唄を歌った。
いつの間にか緊張はさっぱり消えており、さっきよりも落ち着いて――ちゃんと子守唄らしく歌えた。
途中で、船着き場にまだ残っていた子供たちの歌声が重なってきた。
……やはりわたしの声は、かなり遠くのほうまで届いてしまっていたようだ。
――雨を呼ぶ鐘が眠った日、町は歌を忘れた。
リコの家には昔からそんな言葉が伝わっていると、以前リコのおじいさんが言っていたっけ。
もしかすると、歌というのは鐘の音だけでなく、この子守唄のことも指していたのかもしれない。
昔、この町に来ていたおばあちゃんが、かつてこの町で歌われていた子守唄のことを知って、いろんなところで歌うようになり、最後にはわたしへと受け継がれた……なんて、考えすぎだろうか。
「……ねぇ、雨の神さま。鐘や鈴だけじゃなくて……歌も、あなたの力になる?」
「――ふふ。ええ、なるわよ。それも、とびきりの力にね」
雨の神さまはそれだけ言うと、大きなあくびをした。
「ふわぁ……いい歌だったわ。ありがとう、声結びさん」
◇◇◇
すでに辺りはすっかり暗くなっていたため、もう帰ろうと舟の向きを調整していたところ――。
雨の神さまが、わたしを呼び止めた。
「ねえ、声結びさん。またお願いしたいことがあるんだけれど……あの鐘の音を、確かめてくれない?」
「あの鐘って――雨を呼ぶ鐘のこと?」
「ええ、そう。わたしにはここからかすかに音が聞こえるだけで、〈深流域〉の底のどのあたりに沈んでいるのか、どれだけ力が残っているのかまではわからないの。引き上げるにも、それがわからないことには始まらないでしょう? だから明日にでも、あなたの力で探ってみてほしいのよ」
チラリとノワの顔をうかがう。
ノワは何も言わずに、こくりとうなずいた。
わたしは改めて雨の神さまに向き直る。
「うん、わかった。任せて」
いよいよ、雨を呼ぶ鐘の引き上げに向けて、動き出すときが来た。




