第52話 力の上手な使い方
翌日、わたしは夜が明ける前に目が覚めた。
顔を洗い、鈴を磨いて、準備万端。あとはノワが起きるのを待つのみだ。
「……顔が近いのである」
「おはよう、ノワ様!」
「何が『ノワ様』か。現金なやつである」
ノワは大きく伸びをすると、昨日と同じように前足でわたしの指先に触れた。
「娘よ、ゆうべ寝る前に言い聞かせた約束は覚えておるな?」
「無茶はしないこと。少しでも具合が悪くなったらすぐやめること。それから、夜は力を使わないこと――だよね?」
「うむ。この十日間、よく我慢したのである。今日から少しずつ、使ってみるがよい」
「やった!」
わたしは目を閉じ、久しぶりに猫の気配を探ってみた。
すぐ近くに早くも気配が――って、これはノワか。
えっと…………いたいた。
湖の中央に、とても強くて、大きな猫の気配を感じる――雨の神さまだ。
よかった。十日ぶりだったけど、ちゃんと前みたいに力を使うことができた。
早速リコに舟を出してもらって湖に向かうと、雨の神さまはわたしを見るなり言った。
「顔がにやけてるわよ、声結びさん」
「あ、顔に出てた? いやあ、ようやくまた力を使えるようになったから、うれしくて」
「元気そうで何より。じゃあ、今日から稽古を始めましょうか」
「……稽古?」
聞き返すと、雨の神さまはしっぽの先で水面を軽く叩いた。
「わたしを起こそうと、力を使って人間たちの想いを届けてくれたでしょう? あのときのあなた、ずいぶん無駄が多かったわ」
「え……そう、だった?」
「無意識、というより、ちゃんとした力の使い方を知らないから気づいてないのね。今のあなたは、自分の生命力をそのまま力に変えている状態なのよ。それであれだけの想いを遠くまで届けたんですもの、体がもつわけがないわ」
そうだったんだ……。全然自覚はなかったけれども、確かにこれまでを振り返ってみても力を使ったあとは毎回のように体がふらついていたし、何より今回はとうとう倒れてしまったことを考えると、雨の神さまの言っていることは紛れもない事実なのだろう。
舟の端では、ノワが重々しくうなずいていた。
そんなノワを、雨の神さまが見咎めて言う。
「王さまも偉そうにしてないの。本来はあなたがちゃんと見ててあげないといけなかったのよ?」
「ぬっ……いや、しかし……」
「まあ今回は、王さまも自ら水に飛び込んで体を張ってくれたことだし、これ以上は言わないでおいてあげるわ」
「…………」
ノワは大変バツが悪そうな様子で、毛づくろいを始めた。
雨の神さまはため息をついてから、わたしに視線を戻した。
「じゃあ、とりあえず鈴を鳴らして、音をわたしのところまで届けてみて」
「え、こんな近くで?」
「そうではなくて、いつもやってるみたいに、音を聞かせるのではなくわたしの心に届けるのよ。ただし、今までのように自分の力で外に押し出すのではなく――水の流れに、自分自身を乗せることをイメージしてみて」
「水の流れ……?」
「ええ。《猫語り》の力というのは、そもそも自然の一部であるわたしたち猫に語りかけ、その声を聞く力。猫とのあいだにわざわざあなたが命を削って道を作らなくても、常に自然という道でつながっているの。だから、水でも風でも、そこにある自然に音や声を乗せるだけでいいのよ」
雨の神さまの話は、どこかふんわりとしているというか、神秘的な雰囲気に包まれているというか……正直、ちゃんとは理解できなかった。
けれど、とりあえずはやってみることにした。
鈴を、チリン、と鳴らす。
その音を、目の前にいる銀灰色の猫に向かって届けるイメージを思い描き――。
「はい、だめ。だから、自分の力で運ぶイメージではない、と言ったでしょう。今、思いっきり運ぼうとしてたわね?」
「……そう言われると、確かに運ぼうとしてたような、してないような……」
「そのやり方では、自分の生命力がどんどん削れていく。このまま何度も繰り返していたら、またそのうち倒れるわよ」
「うぅ……わかりました」
と言いつつも本当はまだよくわかってなかったため、続く二度目の挑戦も、うまくはいかなかった。
また雨の神さまのお叱りを受けてから、三度目の挑戦。
今度は「とにかくまわりの水の動きを感じ取りなさい」と念入りに言われたので、まずはいつも猫の気配を探る要領で、水の動きというものを《猫語り》の力で探ってみる。
すると、いつもは猫のことしか考えていなかったから気づかなかったけど、今回は湖の水の気配が、まわりでゆっくり、静かに動いているのが感じられた。
なるほどこういうことかと妙な納得感を覚えつつ、その水の流れに乗せるところをイメージしながら、鈴の音と想いをそっと水の気配に重ねてみた。
チリン。
いつもとは違い、全然力を込めていないのに……音も想いも、雨の神さまにまで届いたのがわかった。
「あ……」
「ふふ、ちゃんと届いたわよ」
自分の体の様子を確認してみると、いつもみたいな疲れた感じは全然なかった。
「……すごい。全然疲れてない」
雨の神さまはそんなわたしを見て、満足そうにうなずいた。
「それが力の上手な使い方――自然の力を借りるということよ、覚えておきなさい」
「自然の力を借りる……なるほど……あ、それなら――」
わたしは雨の神さまの言葉を聞いてふと閃き、水面を見やった。
これなら、もっといろんなところまで音が届けられるのではないだろうか。
たとえば――〈深流域〉の底、とか。
「それはまだ、だーめ」
雨の神さまが、いたずらっぽい笑みを浮かべながらわたしを制止する。
「ようやく力の基本的な使い方を覚えたばかりなのよ。それ以上のことは、ちゃんと練習を重ねて基本を完全に自分のものにしてから」
「……はーい」
不服そうなわたしの隣で、ノワが満足そうにうなずいていた。
「何事も順番が大切である」
「……なんでノワが偉そうにしてるの、もう」
◇◇◇
それから、雨の神さまの言う通り練習を重ねた。
何度も雨の神さまに厳しく指導してもらった甲斐あって、昼を過ぎるころにはだいぶうまく力を使えるようになっていた。
「――はい、今日はここまで」
「え、もう? まだいけるよ?」
「こらこら。今のあなたはまだ病み上がりだってことを忘れちゃだめよ。初日から頑張りすぎはよくないわ」
「……はあい」
「ふふ、よろしい」
わたしはひと息つき、体から力を抜いて、ボーっと周囲を見回してみる。
近くの船着き場では、子供たちが今日も鈴を鳴らしていた。
チリン、チリンといくつもの音が聞こえるたび、雨の神さまが気持ちよさそうに耳を動かしている。
いい光景だ。見ているだけで練習の疲れが洗い流されるようだった。
そうして子供たちの鈴を聞きながらしばらく休んで、そろそろ帰ろうかというところで、雨の神さまがわたしに声をかけてきた。
「ねえ、声結びさん」
「なに?」
「あなたはそもそも――《猫語り》の力の使い方を誰かに教わったの?」
「え?」
それは、思いがけない質問だった。
「――ううん。小さいころから、気づいたら使えるようになってたよ」
「ふうん、そうなの……」
それだけ言って、雨の神さまはどこか遠くのほうを見やった。
ほんの少しだけ、懐かしいものを見ているような――そんな目をしているように見えた。




