第51話 四十年ぶりの神殿掃除
翌日になると、いよいよ本格的に忙しくなってきた。
朝早くに船着き場へ行くと、すでにリコのおじいさんが待っていた。腰には何枚もの布を下げ、肩には網籠をかけ、手には年季の入った木べらを持っている。
「今日から早速大掃除じゃ。四十年もほったらかしになってたんじゃ、一筋縄ではいかんじゃろうな」
すごい張り切りようのおじいさんとは対照的に、隣のリコはまだ眠そうだった。
「はいはい、舟はあたいが出すからねー。……じいちゃん、朝ごはんちゃんと食べた?」
リコが舟をつないでいた綱を外しながら尋ねる。
「はっはっは。二杯も食ってきたぞ」
「気合い入ってんねぇ」
そして湖へ出ると、雨の神さまが水の上に座り、こちらを見ていた。
おじいさんは舟の上で潜る支度を済ませると、雨の神さまへ深く頭を下げた。
「雨の神よ……神殿の掃除に行ってまいります」
雨の神さまは、おじいさんを優しい眼差しで見つめながら答えた。
「ふふ、四十年ぶりのお掃除ね。……腰は大丈夫なのかしら?」
おじいさんたちには「なぁお」という鳴き声にしか聞こえていないので、わたしがいつものようにその言葉を正確に伝える。
すると、おじいさんはとてもうれしそうに笑った。
「まだまだ、若い連中には負けませんよ」
そう言って、ほとんど水音を立てることなくスーッと湖に潜っていった。
それからしばらくのあいだ、舟の上から眺めていたけれど、神殿の掃除は思っていたよりずっと地道な作業だった。
一度潜って、屋根にこびりついた泥を木べらで落とす。一旦水面から顔を出して息継ぎをしたあと、また潜って次は軒に絡みついた藻を取り除く。息継ぎの際には、水底の様子を逐一教えてくれた。
「屋根の端に獅子の飾りがあるんじゃが、泥に埋もれてた顔がやっと見えてきたところじゃ」
「あ、わたしも見てみたいかも。あとで潜って――」
「嬢ちゃんは駄目じゃ」
即答だった。
舟の縁に座っていたノワまで「当然である」と言わんばかりにうんうんうなずいている。
「……わかってるよ。今は体を休めろ――でしょ」
まだ病み上がりなのは事実なので反論の余地などなかった。
そしてその後も神殿の掃除は続いていく。
掃除をしているあいだ、雨の神さまはずっと目を閉じていた。おじいさんが立てる水音を、耳だけで追っているようだった。
「――あの人の掃除をしてるときの音、聞いててとても心地がいいわね」
「え、掃除の音が?」
「ええ。神殿を擦るときの音。洗うときの音。ときどき口ずさんでる下手な鼻歌の音。昔みたいに、聞いていると力がどんどん湧いてくるの」
どうやら鈴だけではなく、雨の神さまへの想いがこもった音であれば、それは彼女の力になるらしい。
次に水面から顔を出したおじいさんにそのことを伝えると、水に溺れるみたいに派手にむせ返っていた。
◇◇◇
日が暮れ始めたところで、わたしたちは帰路につく。
船着き場へ戻ると、そこには三人の男が待っていた。
日に焼けた、がっしりした体つきの人たちだ。見覚えがあるなと思っていたら、水抜きのとき教会に雇われていた人たちだと、おじいさんが紹介してくれた。
彼らはどうやら、おじいさんが声をかける前に、噂を聞いて自分たちから駆けつけてくれたらしかった。
いちばん年のいってそうな男の人が、少し気まずそうに口を開く。
「なあ爺さん、人手はいらんか?」
おじいさんは、元々こちらから頼もうとしていたことを伏せつつ、濡れた頭のまま三人を見やる。
「――金は出んぞ」
「金なら、教会からもらった分がまだある。途中で水抜きが終わったせいで、報酬分の仕事ができておらんのだ……教会は返さんでいいと言っとるが、どうも気分が悪くてな」
男は頭をかきながら言った。
「少しくらい、おれたちにも働かせてくれ」
おじいさんはしばらく三人を見つめたあと、やれやれといった感じでうなずいた。
「なら、明日の朝から頼むぞ。それぞれの潜る場所はわしが決める」
話はあっという間に決まり、おじいさん一人だけだった掃除係が、一気に四人にまで増えた。
リコが小声でわたしに言う。
「じいちゃん、あれで実はすっごくうれしいんだよ」
「あ、やっぱり? 耳、赤くなってるもんね」
それからおじいさんたち四人は、夕日に照らされた船着き場で、明日の掃除について相談し始めた。
その光景を見ていると、四十年止まっていた掃除が本当にようやく動き始めたのだと実感できて、なんだかうれしくなってきた。
◇◇◇
その後も忙しい日々が続いた。
神殿に潜る人は、四人からさらに増えて六人になっていた。
ラギは湖へ続く道の近くで祭りの出店場所を決め、商人たちと話を進めているところだ。
「ミオちゃん。何か祭りの名物になりそうなものってないかな? 祭りならではのものがないと、せっかく店を出しても誰も大して買わずに帰っちゃうんじゃないかと思うんだ」
「うーん……町で売ってる食べ物って魚とかばっかりだから、甘いものとかなら珍しがられるんじゃない?」
「甘いものか……なるほど」
ラギは筆の端をあごに当てたまま、黙り込んでしまった。
何やら真剣に考えているようだったので、ひとまずそっとしておくことにした。
わたしはわたしで、雨の神さまと町の人たちの間に入る仕事で忙しかった。
「ねえあんた、雨の神さまは何が好きなんだい?」
「えっと、『鈴の音と、雨を待ってくれている人の気持ち』だって」
「そっかぁ。うちもまた戸口に鈴を下げたいんだけど、教会に預けたままなんだよ」
放っておいても教会はそのうち鈴を返してはくれるだろうけれど……でも「水抜きが終われば返す」と言っていたにもかかわらず、「清め」を口実にまだ返されていないことを考えると、果たして返ってくるのはいつになることやら。なんとか祭りまでには返してほしいところだけど、そのためにどうすればいいかについては、まだ頭を悩ませている状況だった。
「大丈夫、きっとなんとかなるよ」
今は、そう答えるしかなかった。
――そんな感じで自分の仕事をなんとかこなす毎日だったが、一つ、気になることがあった。
それは――《猫語り》の力のことだ。体はもうすっかり元気になっている。雨の神さまの気配も、〈深流域〉に沈んでいる鐘も、今ならもう力を使って確かめてもいいんじゃないだろうか。
なので、折を見てこっそり試そうとしたんだけど――。
「娘よ、今力を使おうとしたな?」
「だ、だめ……かな?」
「だめに決まっているのである」
「うう……なんで力を使おうとしてたってわかったの?」
「吾輩を誰だと思っておる。王にはすべてお見通しである」
ノワは思っていた以上に厳重に、わたしのことを見張ってくれているようで、わたしは諦めるほかなかった。
◇◇◇
「娘、手を出すのである」
ある日の晩、寝る前になって、ノワが突然そんなことを言ってきた。
「手?」
言われた通りに両手を出す。
ノワはわたしの指先に前足を置き、そのまましばらく動かなかった。何を確かめているのかわからないけれど、ずいぶんと真剣な顔をしている。
やがて、前足を離して言った。
「……うむ。明日で、ちょうど十日であったな」
一瞬、何のことかわからなかったが、すぐに思い出した。
「あ……じゃあ、力を使っても……」
「明日、吾輩が確かめる。それで問題がなければ、少しずつ使うことを許す」
「ほんと!?」
思わず飛び上がって歓喜の声を上げると、ノワが心底うるさそうに耳を伏せた。
「気が早い! まだ許したわけではない!」
「わかってるってば!」




