第5話 世界は広くて、灰色だった
さっきの人影はなんだったのだろうか。気にしなくていいとノワは言ったが、そう言われると余計に気になってしまう。
村が丘の陰に隠れてしまってから、わたしはもう一度だけ聞いた。
「ねえ。さっきの灰色の人、なんだったの?」
「気にしなくてよいと言っておるだろう」
ノワはわたしの右肩で素っ気なく言った。
「まだそのときではないということだ。今はただ前に向かって歩いておればよい。日が出ているうちに少しでも前に進むのである」
とても納得できる物言いではなかったけど、王さまはそれきり口を閉じてしまい、わたしもそれ以上問いただすことはできなかった。
◇◇◇
外の世界はとにかく広かった。
そして思っていたよりずっと――灰色だった。
街道の両側には打ち捨てられた畑が続いていた。柵は倒れ、家は屋根が崩れ落ち、白茶けた土がどこまでも広がっている。
「ここにも《白蝕》が……?」
「三年から五年は経っておるな。ここらにはもう誰もおらんようだ」
道端に小さな靴が片方だけ落ちていた。子供の靴だ。拾い上げようとしたが、やっぱりやめた。持ち主に返す方法が思いつかなかったから。
トト村はまだ幸運だったのだ。あの灰色の斑点は世界の片隅だけの話じゃなかった。ノワによれば、世界中が少しずつこうなっているらしい。
「ノワは平気なの? 三百年ぶりの外の世界がこんなことになっていても」
「――王とは民の有り様を見届けるものであるからな」
それは答えに果たしてなっているか疑問だったけど、ノワの声がいつもより重たい気がして、わたしはそれ以上聞くことができなかった。
「……ん?」
昼過ぎ、わたしはふと気がついた。
街道に沿って続く小川のまわりだけ、草が青々としている。乾いた地面を縁取るように緑が伸び、その中で、やわらかな穂をつけた細い草が風に揺れていた。
「ねえノワ、川のそばだけ、まだ緑が残ってる……《白蝕》って、もしかして水と何か関係があるの?」
「…………ほう」
ノワはほんの一瞬だけ間を置いてから答えた。
「よく気づいたな。だが話はそう単純ではないゆえ、今は考えなくともよい。下手に頭を使うと腹が減るぞ」
「なにそれ」
はぐらかされた気もしたけど、お腹が減っているのも確かだった。
お昼ごはんはハンナおばさんの握り飯と干し魚一本だった。ノワは握り飯の梅干しをひと舐めして、これでもかというくらい顔をしかめた。
「酸っぱいものは食い物ではない。人間の舌は壊れておる」
「おいしいのに……あ、こら! 寝るなら毛布使って! 荷袋の上で寝ないで!」
「王の寝床に文句を言うな」
「パンがつぶれちゃうの!」
灰色だらけの街道は正直怖かったけど、こうして言い合いながら歩いていると、どこまでも楽しく進める気がした。
◇◇◇
日が傾きはじめた頃、それは茂みから出てきた。
最初は大きな犬だと思ったが、違った。毛並みは白茶けた灰色で、ところどころ石みたいにひび割れている。目は濁って、口の端からは低いうなり声が漏れていた。
「ノワ……!」
「動くな」
ノワが肩から滑り降りて、わたしの前に立った。小さな黒い背中がぐっと低くなる。
「あれは《灰獣》――《白蝕》に喰われた獣の、成れの果てである」
灰色の獣が地を蹴った。
速い。逃げられないと本能で悟り、とっさに目をつぶりかけた、そのとき。
ふわりと、あたたかい風が吹いた。
雨上がりみたいな土の匂い。トト村の畑が蘇ったときにも同じ匂いを嗅いだ気がする。
いつの間にか、ノワの毛並みが銀色にきらめいていて――次の瞬間、《福》の気配が波紋みたいに広がった。
灰色の獣が、跳びかかる寸前でぴたりと止まる。
その濁った目が、ほんの一瞬だけ澄んだように見えた。
「くうん」
それはもはや得体の知れないうなり声なんかじゃなく、普通の犬の鳴き声だった。
獣はよろよろと後ずさり、茂みの奥へ消えていった。
「今の……犬、だったの?」
「元はな。どこかの村の飼い犬であったろう。できれば、ああなる前に《福》を届けてやりたかったが……」
ノワは静かに言った。
「《白蝕》の影響を受けるのは、大地だけではない。あのように獣も蝕まれ、いずれは人の心にも及ぶであろう。覚えておけ、娘。あれは殺すべき敵ではない。我々と同じ、この大地に生きる命なのだ」
わたしは、獣が消えた茂みに向かって手を合わせ、小さく頭を下げた。
いつかまた、あの子が元に戻れますように。そして、名前を呼んでくれる誰かに出会えますように。
一匹でも多くの猫を起こして、一匹でも多くの獣を助けてあげたい――そう強く願わずにはいられなかった。
◇◇◇
夜のとばりが下りる頃、丘の向こうにぽつぽつと灯りが見えはじめた。
「見えたぞ。宿場町ハルガである」
「あれが……町! 初めて見る! ノワ、お風呂! あったかいごはん!」
「うむ。吾輩はもちろん魚を所望する。あとは心地よい寝床だな。具体的にはお前の膝と、毛布と、あたたかい日向と、あとは人がいない静かな部屋と……」
「注文が多いよ王さま……」
ともあれ、わたしたちは疲れも忘れて、町に向かって足を速めた。
町の門はまだ開いていた。門のわきには旅人向けの大きな掲示板がある。宿の値段、乗合馬車の刻限、人捜しの貼り紙。
その真ん中に、ひときわ真新しい紙が貼ってあった。
『猫ノ噂、買イ上ゲマス。姿ヲ見タ者、声ヲ聞イタ者、灰ノ教会マデ。謝礼、銀貨十枚』
「ねこ……?」
心臓がどくんと跳ねた。
銀貨十枚。あったかいパンが五十個は買える。うちの村なら、家族がひと月は暮らせるお金だ。
それだけのお金を猫の「噂」に払う人がいる。どうしてだろう。すごいことのはずなのに、胸がモヤモヤした。
「ノワ、これ……」
返事の代わりに、ノワはするりとわたしの外套の中へ潜り込んだ。
「――娘、フードを被れ。吾輩を隠せ」
外套の中から押し殺した声がした。
「この町には猫を捜している誰かがいる……嫌な予感がするのである。吾輩の思い過ごしだと良いのだが」




