第4話 旅には干し魚が六十本は必要である
世界中の猫を起こしに行く。
ノワは簡単に言ってくれたけど、わたしは十五年間、トト村のまわりから外へはほとんど出たことがない。いちばん遠くても、隣村の市場へ年に二回行くくらいだ。
「あの、ノワ。旅って、具体的にどこまで行くの? 遠いの?」
「さてな。近くの祠とて歩いて幾日、遠いものは海の向こうになるな」
「う、海……絵本でしか見たことない……」
「なんだ、怖気づいたか」
ノワは窓辺で長々と伸びをした。
「別にお前が行かずとも吾輩は困らん。困るのは畑と、あのハナ垂れ小僧、パン屋のでかい声の女、あとは――」
「行くよ」
考えるより先に言葉が出ていた。
「行く。決めてたもん、ゆうべから。ただ……怖いものは怖いから、ちょっと勇気を出してただけ」
「ふん」
ノワのしっぽが機嫌よさそうに一往復した。
「正直なことは美徳であるぞ。よし、連れて行ってやろう」
あれ、わたしが連れて行ってもらう側なんだっけ……? まぁいいか。今はこの王さまに任せるしかないのは確かなんだし。
◇◇◇
旅に出ると宣言したとき、村のみんなの反応は思ってたのと違った。
てっきり止められると思っていたのだけれど、ドマ村長が深いため息をひとつついただけだった。
「……いつかはこんな日が来るんじゃないかと思っとったわ」
「え?」
「婆さまもな、お前くらいの歳の頃に、ある朝ふらりと旅に出てな。三年後にしれっと戻ってきたんだが、何があったかはついぞ話さなんだ」
初耳だった。おばあちゃんも旅を……。
わたしの知ってるおばあちゃんは、いつも祠のそばで笑っている人だった。そんなおばあちゃんも、村の外に長いあいだ旅に出ていたなんて……胸の奥がそわそわと落ち着かなくなってくる。
新事実を聞かされた後、おばあちゃんの部屋に何かないかと探してみると、古い行李の底から革表紙の手帳が出てきた。開くと、癖のある懐かしい字がみっしりと並んでいる。
「これ……祠の場所だ。挟んであった古い地図にも、ここにも、ここにも、祠の印がある」
「見せてみよ」
ノワが手帳を覗き込んで――ぴたりと動きを止めた。
「ノワ?」
「…………いや。なんでもない」
どう見ても「なんでもない」という顔ではなかった。でもわたしは、手帳の真ん中の一行に目を奪われてしまってそれどころではなかった。
それは、大きな丸で囲んであり、こう書かれていた。
『はじまりの七猫。すべてはここから』
ページの端には小さな猫の絵が描き添えてあった。上手とは言えない。でも、何度も何度も描いたんだろうな、とわかる線だった。
おばあちゃん……あなたはどこまで知っていたの?
「ねえ、はじまりの七猫ってなんのこと?」
「――さあな。だが、カヤの遺したものだ。なんらかの意味があることは間違いあるまい」
ノワはぷいと窓の外を向いた。猫の王さまはどうやら隠しごとが下手らしい。
――その晩、ノワはいつまでも窓辺から離れなかった。
「どうしたの?」
「……なんでもない。早く寝ろ、娘。明日から忙しくなる」
王さまの「なんでもない」は今日これで二度目だった。
◇◇◇
出発までの二日間は嵐みたいに過ぎた。
「ミオ! 旅の飯はどうすんだい!」
ハンナおばさんはうちの台所を占領して、握り飯を山のように積み上げていた。
「いいかい、知らない人に道を聞くときは必ず店のある通りで聞くんだよ。あと、橋の下では寝ちゃいけない。雨の日は無理して歩かない。それから――」
「おばさん、それ昨日も聞いた」
「大事な話さ! 百回でも千回でもしっかり聞いて頭に叩き込みな!」
足元ではノワが荷袋の中身を検分していた。
「娘。干し魚が三十本しかないぞ」
「多いよ!? わたしのパンより多いよ!?」
「旅はひと月やふた月程度では終わらんぞ。五十……いや、六十本は積んでおけ。それと毛布。吾輩専用のやつである。あとはお前の膝」
「膝は荷物に入らないでしょ」
「ゆえに、お前が健康であることが最重要である。野菜も食え」
ノワはすっかりわたしの保護者と化していた。
そして夕方にはテオがやってきた。戸口でもじもじしていて、なかなか用件を言わない。
「なんだよ、じゃあな、祠バカ……その、さ」
「うん」
「……帰ってこいよな。絶対だぞ。畑がまた灰色になったら、おれ、祠の掃除しといてやるから」
「――うん!」
頭をわしわし撫でてやったら、テオは真っ赤になって逃げていった。
◇◇◇
出発の朝は憎らしいほどの晴天だった。
村の入り口には思ったよりずっとたくさんの人が集まってくれた。ドマ村長が路銀だと言って小さな革袋を握らせてくれる。中を見たら、銀貨に混じって飴玉が入っていた。
「婆さまの分まで頼んだぞ」
「うん。行ってきます」
ハンナおばさんは何か言いかけて、結局何も言わずにわたしを痛いくらい抱きしめてきた。焼きたてのパンの匂いがして、ちょっとだけ泣きそうになった。
わたしは腰の鈴を鳴らした。チリン、と澄んだ音が青い空に吸い込まれていく。
肩の上のノワが「うむ」と満足そうにうなずいた。王さまの定位置はわたしの右肩に決まったらしい。
「さらばだ、トト村。次に来るときは猫を連れて戻る」
みんなには「にゃあ」としか聞こえない挨拶を残して、わたしたちは歩き出した。
――そのときだった。
ノワのしっぽが、ぶわりと膨らんだ。
「ノワ?」
振り返る。ノワの月色の瞳は、村を見下ろす北の丘に向いていた。
丘の上に誰かが立っている。
灰色のローブ。深いフード。顔は見えない。ただじっとこちらを見ている――ような気がした。
「ねえ、あれ、だれ……」
瞬きの間に人影は消えていた。
「……ノワ、今の」
「歩け、娘」
ノワは前だけを向いて、低い声で言った。
「今は気にしなくてよい。今はまだ、な」




