第3話 猫の《福》が芽吹く朝
「死ぬって……そんな。畑の隅っこがやられただけなんだから、そこだけ切り離しちゃえば――」
「作物や大地の病であればそれで事足りるであろうが、あれはそういうわけにはいかぬ。《白蝕》は――大地の飢えなのだ」
月明かりの丘の上で、ノワは灰色の斑点を見据えたまま言った。
「大地はただの土くれではない。あれは巨大な生き物なのだ。生き物である以上、養分が絶えれば飢える――やがて死に至る」
「養分って? 肥料をまけばいいの?」
「そういうことではない。必要なのは――《福》である」
ノワはわたしを振り返った。
「猫は《福》を運ぶ獣。猫が幸福に満ち足りて居着いた土地には《福》が宿る。作物は実り、水は澄みわたり、そして病は遠のく。カヤからそう教わったのではないか?」
「うん。おばあちゃんの口伝のまんまだ……」
「三百年前、猫はこの世界から消えた。《福》の源が絶えたのだ。以来、大地は三百年のあいだずっと飢え続けておる。《白蝕》はその果ての飢え死にの始まりよ」
夜風が急に冷たく感じられた。
『うちの畑、駄目になんのか』
テオの言葉が脳裏をよぎる。
わたしはぎゅっと拳を握った。
「ノワ。どうすれば《白蝕》を止められるの?」
「簡単である。この村に再び《福》を満たせばよい」
「どうやって?」
「吾輩と契約せよ、《猫語り》」
ノワは胸をそらした。
「《猫語り》が名を呼び、鈴を鳴らし、猫がそれに応える。それが契約である。さすれば吾輩の《福》はお前を通じてこの土地に流れる」
「や、やる! 今すぐやる!」
「待て。契約には条件がある」
ノワは前足を揃えて座り直した。妙にあらたまっている。
「一つ、飯は日に二度。魚を切らすな。二つ、眠るときは膝を貸せ。三つ、吾輩を呼ぶときは敬称をつけよ。『ノワ様』と」
「一つ目と二つ目はいいけど……最後のは却下」
「なぜだ!? そこが本命であるのに!」
「だって、ノワはノワだもん」
「ぐぬぅ……まあよい。追って再交渉させてもらおう」
◇◇◇
契約の儀はあっけないくらい静かだった。
わたしは祠の前に座り、腰の鈴を外して、胸の前に掲げる。
チリン。
澄んだ音が夜の闇に溶けると、ノワは気持ちよさそうに目を細めた。不思議な猫だ。夜鳥の羽音にはあんなにビックリしてたくせに、この音は全然平気なようだ。
「吾輩の名を呼べ、《猫語り》」
「えっと、ノワでいいの? わたしが勝手につけた名前だけど」
「――仮契約となるが問題ない。真の名での契約は……またいずれな」
「じゃあ、ノワ……うちの村を、助けてください」
チリンと、鈴がもう一度自分から鳴った気がした。
直後、ノワの煤色の毛並みが月の光を吸って、ほんのりと銀色に輝いた。
……それだけだった。雷が落ちるわけでもなければ、光の柱が立ち上るわけでもなく、本当にそれ以上は何もない。
いや、ひとつだけ……鈴を持つ手から何かがすうっと抜けていく感じがして、膝が少しふらついた。
「《福》はお前を通って土地へ流れる。多少はくたびれるだろうが、じきに慣れる」
「……これで終わり?」
「終わりである。あとは夜明けを待て」
ノワはあくびをひとつして、当然のようにわたしの膝によじ登ってきた。
ずっしりとした重みと、あったかい感触。
おばあちゃんが死んで以来、誰かの体温に包まれる機会などほとんどなかった。本当に久しぶりに、とても優しい気持ちで胸が満たされていく。
これが猫。これがおばあちゃんの言ってた生き物。
膝の上の重みはじんわりと胸まで染みてきて、なんだか泣きたいような気持ちになった。
「……重くて足が痺れてきたかも」
「王の重みである。ありがたく思え」
そう言って、猫の王さまはごろごろと喉を鳴らしはじめた。
◇◇◇
朝いちばん、ドマ村長の悲鳴が聞こえてきた。
「み、みろ! 畑が!」
駆けつけた村人たちが、同様の言葉を口々に叫ぶ。
灰色の斑点を囲むように――麦が青々と立ち上がっていた。
昨日まで色を失いかけていた一角が、朝露を弾いて輝いている。灰色の部分は端のほうから淡い緑に戻りつつあった。
土の匂いが違う。昨日までの乾いた埃っぽさじゃない。雨上がりみたいに濃く甘い、生きた土の匂いがした。
誰かが鍬を取り落とす音がした。
「なんてこった……《白蝕》が引いている……」
「ミオ姉!」
テオが泣きながら走ってきた。よく見ると少し笑ってもいる。笑いながら泣くなんて器用なやつだ。
「なあ、これ、ミオ姉がやったのか!? その黒いのがやったのか!?」
村人たちの目がわたしの足元に集まった。
ノワは悪びれる様子もなく、朝日の中で毛づくろいをしている。
「……なんだそれ、犬か? いや、犬にしちゃ小さいな」
「みんな、あのね……」
わたしはすうっと息を吸った。二年間、祠バカと笑われ続けたわたしにとって、今の状況を説明するのは、少し勇気が必要だった。
「……猫だよ。この子は猫。おばあちゃんの話はほんとだったんだよ!」
ざわめきが波みたいに広がった。
ハンナおばさんが両手で口を覆う。ドマ村長はしわだらけの目を見開いて、それからゆっくりとわたしとノワに頭を下げた。
「――婆さまの言う通りだったな。すまなんだ、ミオ」
◇◇◇
その晩、わたしの家の窓辺で、ノワは得意げにひげを揺らした。
「見たか。これが《福》である。もっとも、豊穣は吾輩の本領ではないがな」
「そうなの? じゅうぶんすごいのに」
「まぁ、王の力については追い追い知っていけばよい」
ノワはふと真顔になった。
「――だが娘、喜ぶのは早いぞ。吾輩一匹の《福》では、この村がもつのは精々一年である」
「え……」
窓の外では、元気になったばかりの畑が月に照らされている。あの緑がまた灰色に戻るところを想像して、寒気が走った。
「大地に蓄積した飢えは三百年分だ。猫一匹の《福》など焼け石に水よ。村を、国を、世界を救いたくば――それだけ多くの猫が必要になる」
月色の瞳がまっすぐにわたしを見た。
「娘、旅仕度をせよ。眠った猫は世界中の祠におる。そやつらを――世界中の猫を、これから起こしに行くぞ」




